2015年4月15日水曜日

「生きなおす沖縄  - くりかえし押し返す - 沖縄の覚悟と願い」 大城立裕(『世界』2015.4臨時増刊 - 沖縄 何が起きているのか) : 「琉球処分後の百年間に、沖縄が変わって強くなり、「日本」が変わっていない」

生きなおす沖縄
 - くりかえし押し返す - 沖縄の覚悟と願い
大城立裕(『世界』2015.4臨時増刊 - 沖縄 何が起きているのか)
1925年沖縄県生まれ。42年上海・東亜同文書院大学入学。米軍通訳、教員を経て琉球政府に勤務。67年、『カクテル・パーティー』で沖縄出身の作家として初となるい芥川賞受賞。

■帝国にほろぼされた王国

 二〇一三年四月二八日に、安倍晋三政権下の政府主催で、「主権回復の日」という記念式典を催した・・・その日、おなじ講和条約のせいで、沖縄はまったく日本から切り離されて、アメリカの軍事占領下におかれた・・・

第二次世界大戦で沖縄は、・・・、祖国のためにという自覚で命を懸けた。滅私奉公の根底には、一八七九年の琉球処分いらい百年の政治的、社会的差別に抗して、これだけ祖国のために戦えば、日本国民として認めてもらえる、という願いがあったのだ。それを、「祖国防衛」の恩義も忘れて平和条約でふみにじった。

その歴史の真相を忘れて、いまごろ素朴に本土だけ主権を回復したと万歳する無自覚、無責任、理不尽を、恕しがたいのだ。もっとも、この違和感には既視感もあって、一九五五年以降に本土が高度成長に酔い痴れていたころ、沖縄は本土の肩代わりで米軍基地との孤独な戦い - 泥沼のような軍用地問題(銃剣をかまえての強制接収と一坪の地代がコカコーラ一本の代価に等しいという差別)とのたたかい - に喘いでいたのである。

歴史的に、もともと好んで日本国民になったのではなかった。琉球王国という小さな独立国であったのを、日本帝国の国防の前線としての地政学的な理由から、王国を滅ぼして帝国に併合したのである。抵抗を排して「琉球処分」と称した。一八七九年(明治一二)のことであった。

・・・沖縄県民に対しては、日本国民としての名目を辱めぬよう強要した。たとえば日常会話において、方言を排して標準語を励行することを、近代教育の第一歩においた。これは県民に方言に対する劣等感を植えつけた。この言語問題は、沖縄の日本への同化を測るバロメーターとして、近代百年を通して、沖縄県民のアキレス腱になった。

沖縄県民の側では、差別に抵抗するのでなく、「日本人」として認められようとする努力に終始した。一九一〇年(明治四三)に作られた短歌にある。

「山といふ山もあらなく川もなきこの琉球に歌ふ悲しさ」
長濱芦琴
ヤマト(本土)に調子をあわせようと苦悶する歌である。

・・・
ただ、意識下には異化志向が消えず、たえず独自のアイデンティティーへの意欲を捨て得なかったから、そのジレンマはつづいた。その苦悶が、『人類館』(知念正英)という芝居にはよく描かれている。よく笑わせる芝居だが、その笑いは、沖縄人をもヤマトンチュ(本土人)をも平等に冷やかしとばしているのである。「祖国復帰」後六年目の一九七八年に書かれた時点で、作者が近代史を顧みての解釈が、冴えている。

その解釈の冴えは、戦後に日本から無理やり切り離されて異民族の支配下におかれて、たえず「自」「他」を客観的に観ることを強いられた経験によっている。

・・・
・・・私が、やはり日本復帰しなければならない、と考えるようになったのは、異民族支配下の治外法権にたいする違和感ゆえである。住民にたいする米軍人の差別的犯罪が簡単に赦されて、犯人が簡単に帰国してしまう、という事件が少なくなかった。この治外法権から解放されるには、やはり憲法によって基本的人権の保障を約束する「日本復帰」しかないのか、という私の苦渋の選択であった。これが裏切られることになったのは「復帰」後のことである。

世に燃え上がっていた「祖国復帰」願望の基礎は、・・・素朴な「同化志向」によるものであったといってよい。その最たる運動主体は教育界であるが、教員たちが近代教育史のなかで、「日本人教育」の理念と技術しか仕込まれてなかったからであろう。これが、ウチナーンチュ (沖縄人)の日本への同化志向(・・・)と、微妙にかさなったといえる。

復帰後のことになるが東大出で自民党員である西銘順治県知事が「沖縄の心とは?」と問われて、「ヤマトンチュになりたくて、なりきれない心」と答えたのが、秀抜な表現として語りつがれている。

西銘知事は一九八六年に沖縄県立芸術大学を創設し、新世代による伝統芸術の作興の可能性をつくった。

一九六〇年代の末ごろ私は「私たちは日本への同化と異化のはざまで揺れている」と書いて、復帰運動に熱心な人たちから顰蹙(ひんしゅく)を買った。同じころ、「反復帰論」を唱えた人(新川明など)もいて、じつはこのころから、世に潜在的な復帰批判が生まれていたと言ってよい。

■沖縄アイデンティティーのあらたな自覚

 沖縄の日本への同化と異化が象徴的にあらわれたのは、言葉である。

言葉については、沖縄学の祖といわれる伊波普猷(いはふゆう)が一九二八年(昭和三)に、「沖縄の青年が日本語で文学作品を書いて、中央で一人前に認められることは、無理であろう。アイルランドの作家たちが、英語で書いてヨーロッパで認められたようには行くまい」と書いた(『琉球作戯の鼻祖玉城朝薫年譜』)。だからその四〇年後の一九六七年に沖縄作家が芥川賞を得た(大城立裕『カクテル・パーティー』)とき、世間は動顚した。

かたわら、そのテーマが沖縄アイデンティティーのあらたな自覚をよんだ。作品が伊波普猷の予言を裏切って言葉のハンディーを克服すると同時に、異民族による被支配の悲哀を、みずからの戦争中の中国における加害者の記憶と対決させるという、新しい視点によるものであったので、近代百年来の被害者意識を主体的に克服する、という普遍的意味をもっていた。同化とかかわりのない思想的な自立を予言したのである。

四年後の一九七一年東峰夫が『オキナウの少年』で芥川賞を得たときに、新鮮な驚きを社会全体に与えたのは、全編に過剰なまでに氾濫しているウチナーグチ(琉球語)であった。方言の劣等感を返上したのである。標準語励行に明け暮れた近代百年のまったき転向である。・・・

一九六八年興南高校の野球部が夏の甲子園で準決勝まで進んだとき、芥川賞から二度目のアイデンティティーの自覚を得た。戦後沖縄のスポーツは、全国土俵に出ても一勝をも得ず、いつも「参加することに意義がある」と、なかば自嘲をこめて、みずから慰めていたものだが、このジンクスをまったく破った。

一九七五年の沖縄国際海洋博覧会の沖縄館の展示のメインテーマは、古琉球における海外発展の姿であった。その基本理念は、歴史家高良倉吉が一九八〇年に書くことになる『琉球の時代』で、誇りの時代として呼びおこした「大交易時代」の歴史に根ざした。

一九七六年具志堅用高がボクシングの世界ライトフライ級のチャンピオンを獲得したのは、沖縄アイデンティティーの頂点を認識させるもので、芥川賞、興南高校野球部の二点をふくめて、沖縄アイデンティティー確立の三題噺をつくったものと言ってよい。その二年後に前述の『人類館』が書かれたのである。

・・・、一九五八年首里高校野球チームが甲子園に出場したときの想い出・・・。
戦後一三年目に「参加」だけさせてもらったものであった。・・・そこでの新聞記者のインタビューが、語り草になった。
「君が代を知っていますか」
「はい。一番だけ知っています」

 帰りの船が那覇港に入ったとき、持ち帰った「甲子園の土」を、すべて海中に投棄させられた。琉球政府植物防疫法にもとづく処置であった。この事件にたいするマスコミの反応が、またいかにも戦後沖縄を表現するものであった。
「せっかくの高校生の純真を傷つけるものではないか」
「いや。そういう試練において、占領体制批判の眼を養うべきだ」

このような事件、問答が、戦後沖縄のアイデンティティーの成長に資することになった、という側面があったのではないだろうか。ここであらためて自覚するべきは、このような試練を契機に、劣等感を克服して建設的な成長につなげた社会的知性の功である。

具志堅用高が栄冠を得ての言葉が、まったくヤマト離れのした沖縄土着のものであるのを、世間は絶大な好意で迎えた。沖縄方言コンプレックスの時代は去った

こうして、戦後沖縄アイデンティティーの三題噺の先に、一九八〇年代、郷土芸能ブームの十年間が待っていた。ウチナーグチまじりの芝居で笑いを多数創った笑薬過激団、シンガーソングライターの喜納昌吉、照屋林賢らの、これも三題噺と呼びたくなるような、琉球語芸能の隆盛である。この年代に県立芸大が創設された。

・・・敗戦後の捕虜収容所キャンプで、落下傘で舞台衣装を創るなどして、組踊が上演された。その後は、郷士芸能がいよいよ盛況を見せた。その潜在エネルギーが、一九八〇年代に方言芸能の隆盛を生んだ。このことから私は、一九八〇年代を近代沖縄の文化的エポックと規定している。

一九九二年に、首里城が戦火による壊滅から復元された。その祝賀の宴で私が感動した光景が二つある。一つは王朝時代の冊封便(国王戴冠のための中国使節)仮装の行列である。・・・。もう一つは、幼稚園児たちによる琉球童歌の斉唱である。もはや琉球語を話せなくなった世代による、この斉唱の意味は深い。・・・

■民族精神の根から生み出される文学

ここで近現代文学史を大急ぎで顧みたい。
明治から大正の時代にかけて、ヤマトにたいする劣等感で鬱屈する作品が多く書かれた。前述の「山といふ山もあらなく…」の短歌はその好例である。昭和になって、山之口貘が、そういう自己を客観的に見る自己を表現した(「会話」「自己紹介」)。戦後になって、抑圧者がヤマトからアメリカに交替し、それへの向かい方が大きく意識されるようになった。一九五五年から五六年ごろにかけての『琉大文学』の営為で、戦前のような体制への順応を拒否して、米軍基地へのきわめてはげしい抵抗を見せ、軍政当局から弾圧されることもあった。この学生の動きは、戦後になって琉球大学が創設されたことと関連すると見ることもできよう。つまり、「沖縄」自身を沖縄の研究者が、普遍的な世界観で腑分けする営みの誕生である。沖縄は、もはやみずからの劣等な立場にくよくよする時代を脱けたのである。

その一〇余年後に『カクテル・パーティー』(一九六七)を生み、さらに一〇年後に、又吉栄喜が『ジョージが射殺した猪』(一九七七)を書いた。これは米兵を抑圧者とのみ見た琉大文学からさらに進展したもので、抑圧者とのみ見られてきた米兵にも劣等感に悩む者がいることに思いをいたした。翌年の『人類館』(一九七八)については、先に述べた。

一九九五年に、米兵による少女暴行事件があり、・・・。ただ、ほぼ同時に芥川賞の三番手又吉栄喜(一九九五)四番手目取英俊(一九九七)が、踵を接した。あらためて指摘したいが、又吉の受賞作『豚の報い』は、ヤマト文化で理解しがたい土俗への愛着であり、つづいて書いた『ギンネム屋敷』では、島にいるマイノリティーの朝鮮人への重大な関心が見える。島人の加害者としての反省を深めるものであった。昨年に韓国で翻訳された。目取真の受賞作『水滴』は、戦争のときに沖縄人同士に差別があったことを描き、伝統的な被害者意識へのあらたな自己批判を生んだのである。

こうして、沖縄現代文学に見られるのは、近代百年間に育ってきた劣等感を、自己批判という視座を通して、自信に組み替えたことである。文学作品は作家個人の生み出したものではあるが、それを生んだ底には民族精神の根っこがある。

・・・琉球処分後の百年間に、沖縄が変わって強くなり、「日本」が変わっていない。

■日本政府と国民による構造的差別

・・・
安保体制のために米軍基地が必要なら、他県に分散移設してほしい、と求めているが、この要求がまったく無視されている。これは構造的差別による、と考えられる。

ヤマトからの差別の下に近代の沖縄人は、政治的、社会的差別と戦うのでなく、それに卑屈になっていた。・・・その社会的差別が、戦後しだいに薄くなってきた。それは、沖縄の生活文化がヤマトに近づいてきた、いわば同化傾向に加えて、情報のグローバル化によって、生活の価値観が近づいてきたせいだと思われる。さらに一九七二年の「復帰」のあと、人の交流がはげしくなったせいもある。無意識の同化志向と意識的抵抗とは、矛盾なく同居するものらしい。対等に戦えるようになった、ということであろうか。沖縄の祖国復帰が皮肉にも、沖縄を祖国から離れさせようとする契機を生んだ。

社会的な差別は無くなったが、政治に差別が残っていると、私は年来言ってきた。・・・日米地位協定が米国優位を保証するという体制の矛盾のせいで、・・・。治外法権は占領時代のままだ。この協定の改訂をいくら訴えても、政府は諾(き)きいれない。これは、ひとつの構造的差別である。

さらに、中央政治のほかに社会の構造的差別を認めたい。たとえば、二〇一〇年に沖縄の県知事選挙があり、これについて共同通信から求められて感想を書いた。私が力をこめて書いたのは、県知事選でも訴えられた「基地の本土への移転」の願望である。共同配信が全国の地方紙にひろく載せられることに、私は期待をかけた。ところが、沖縄の新聞のほかに載せてくれたのは、高知新聞と宮崎日日新聞だけであった。さもあろうかと、私は皮肉な意味で納得した。沖縄の基地負担を全国で分担してほしいと、県民は熱望している。それを他県の地方紙は敬遠したのに違いない。そういう記事を読者は歓迎しまい、と読んだのであろう。

もうひとつの例。基地周辺で米兵による県民女性への性犯罪が頻発する。その被害者の名を、マスコミも周辺の同胞たちも申し合わせたように、ひた隠しにしている。それを東京から来たルポライターが熱心に嘆ぎまわっている、と聞いた。私は暗澹となった。ルポライターは職業上当然のこととしてそれをしている。原稿を求めるのは週刊誌などの編集者である。編集者は読者の関心を当てにしている。その読者たちは日頃、沖縄と親近して差別をしていないつもりになっている。個人の責任の見えないところで、隠然たる差別が存在する。これをも構造的差別と私は呼びたい。
いま沖縄県民は、日本政府のみならず、ヤマトの国民とも戦っていることになる。日常的な友好親善のかたわらで、である。

■沖縄の覚悟

そのような時期に、辺野古に矛盾きわまる状況が湧いている。反対運動は、一〇〇余年来の(厳密には一六〇九年の薩摩侵攻以来四〇〇余年来の)同化志向に潜行してきて主体的にたかまった異化志向の爆発だ。その抵抗する民衆にたいして抑圧勢力として警察、海上保安庁の県民職員がいる。同胞相食む不条理が同化と異化との対立のピークという象徴的図形に見える。

・・・
これを止揚する道として、独立論、自治州論なども湧き、それぞれの試行錯誤の手段はともかく自己決定権、沖縄解放、国家統合の哲学の再構成などを求める姿勢は同じである。その生きなおしの道程が、かならずしも楽なものではない、とは思っている。いずれ韓国人を肯(うなず)かしめるほどの答えを出せそうには思うが - 。

ギリシャ神話にシジフォスという男の話がある。山から岩が流れ落ちてくるのを、いくら押し返しても、くりかえし落ちつづける、という話である。この筋書きを逆転させて、いくら転がってきてもくりかえし押し返す、という神話の読み替えもあり得るかと、私は短篇小説『普天間よ』(二〇一一)に書いた。沖縄の願い - 覚悟である。






















「沖縄近現代史の中の現在」 (その1) (比屋根照夫 『世界』2015.4臨時増刊) : 「他愛心は人間の情の中でも最も高尚なるもので、劣等民族は他愛心が薄い。自己以外の民族を愛すると愛せざるとは直ちにその国民的品性の高低を測定する尺度になる。この点から見ると日本人はたしかに一等国民ではない」(伊波月城)



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