萩 2015-09-28 鎌倉
*昭和18年(1943)10月21日
・国家社会主義者広瀬健一(政治公論社)、検挙。横浜事件関連。
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10月21日
・中野正剛(58)・天野辰夫「勤王まことむすび」グループ、倒閣容疑で逮捕。「東方会」壊滅。
27日未明、割腹自殺。
21日早朝、警視庁特高課に拘引。令状なく行政執行法による行政検束。
上京した東方会の青年に対し「陸海軍の作戦の不一致でガダルカナルで失敗し数万の犠牲者を出した」と語った事が「公安を害した」とされる。
24日、中野処分の大評定。首相官邸。東条首相・内相安東紀三郎・法相岩村通世・検事総長松坂広政・内務省警保局長町村金五・警視総監薄田美朝・法制局長官森山鋭一・司法省刑事局長池田克・東京憲兵隊長四方諒二。
検事総長「証拠不充分、流言蜚語で現職代議士を拘束できない」。呼びつけられた国務大臣大麻唯男も「行政検束で議会出席を阻止できない」。
25日朝(議会召集日)、警視庁から釈放された中野は、そのまま東京憲兵隊長四方諒二の車に乗せられ連行、取調べをうける。陸軍伍長の3男、学徒出陣の2男の扱いにまで触れ、中野を攻める。
26日午後、釈放。
27日未明、割腹自殺。
四方諒二は腹心の大西和男に「二時間以内に自白させろ」と命じる。午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止できない。
ある憲兵隊関係者は、中野の子を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。妻・長男・次男をこの3年の間に亡くしている中野は驚き、憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。中野と親しかった人物が、昭和52年、岐阜に住む大西を探しだし、脅迫的に証言を迫るが、彼は震えるだけで詳細を洩らさなかったという。
中野正剛は、早大卒後、朝日新聞記者を経て大正9(1920)年福岡県選出代議士となり、以降当選8回に及ぶ。
この間、革新倶楽部、憲政会、民政党と転じ、昭和11(1936)年「東方会」を組織し総裁となる。
政治的立場は、アジア主義的傾向を根底に、東方会結成後は政界最右翼として政治体制の全体主義化に協力。
昭和12~13年ドイツ、イタリア訪問後、急激にファッショ的方向に傾斜、東方会の制服などもナチスばりのものにするほどで、反英米枢軸路線を鼓吹、戦争への道に拍車をかける。
昭和15年大政翼賛会常任総務となるが、東条内閣の翼賛選挙に反対、また戦時刑事特別法案に反対するなど反東条の立場を強める。
昭和17年3月3日、日比谷公会堂で時局批判大演説会を開き、「奴隷体制を撃破せよ」と題する4時間にわたる演説を行い東条政治を批判。
昭和18年元旦「朝日新聞」に「戦時宰相論」を掲載。クレマンソーの絶対不屈の強さ、レーニンの徹底抗戦を呼号する強さ、諸葛孔明の誠忠と謹慎、日露戦の桂太郎首相の人材動員の妙などを挙げ、「難局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に、謹慎に、廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ。」と結ぶ。
東条は激怒、直ちに情報局に対して朝日新聞元旦号の発禁を命じる。
中野は日比谷の演説以来、口を封じられ、「戦時宰相論」以来執筆も少なくなるが、ガ島撤退はじめ不利な戦況をしり、中野ら聖戦完遂論者は、東条更迭しより強力な内閣を作るべく重臣工作を始める。
東條は、特高・憲兵により情報蒐集を行い、この動きを察知、安藤紀三郎内相に命じ、戦時刑事特別法違反で全国的に百数十名の一斉検挙を行う。検挙対象は中野主宰の東方同志会、皇道翼賛青年連盟、勤皇まことむすびなど聖戦完遂を叫ぶ右翼陣営。警視庁は中野正剛を自宅から検束して調べるが、戦時刑事特別法違反の決め手となる倒閣運動の事実は出てこない。
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10月21日
・自由インド仮政府樹立。シンガポール、主席チャンドラ・ボース、インド国民軍の最高指揮者に。23日、日本、自由インド仮政府承認に際し声明発表。
24日、自由インド仮政府、米英に宣戦布告。
31日、チャンドラ・ボース、上京。日本軍占領のアンダマン、ニコバル諸島の仮政府帰属申入れ。
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10月21日
・明治神宮外苑で出陣学徒壮行会。徴兵猶予停止の学徒7万人が雨中行進。
兵役猶予解除の経緯
従来は、兵役法などにより大学・高等学校・専門学校学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。
昭和16年(1941)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮し、12月、この年の卒業生に対し臨時徴兵検査を実施し、翌昭和17年2月に入隊させた。
昭和17年には、予科、高等学校も対象とし、修業年限を6ヶ月短縮し、9月卒業、10月入隊とした。
昭和18年10月1日、東條内閣は在学徴集延期臨時特例を公布し、理工系、教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃した。特例公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患
者を除く)までを12月に入隊させることとした。
この第1回学徒兵入隊を前に昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれた。東條首相・岡部文相らが出席、関東地方の入隊学生ら7万人が集まった。
出陣学徒壮行会は、各地でも開かれたが、翌年の第2回出陣以降の開催はなかった。
昭和18年10月には、教育ニ関スル戦時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだ。
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10月21日
「十月二十一日(土)
軽井沢において。『中部日本新聞』に書く。朝夕は寒し。葛かづら真紅。紅葉も、あるものは真紅、あるものは褐色。高山の紅葉の赤きは急に寒さになるからだと、かつて自由学園の羽仁〔もと子〕校長が説けるを想い出す。
そんなに寒くもないのに、電気ストーブをやってパンツ〔ズボンのこと〕と毛布を焼く。自分でやったことながらこの頃、物資を損ずることほど、心憎きはなし。
日本は何を目がけて大きくなったろう? 戦争そのものだというのは明らかに嘘だ。戦争をやると何かが達成すると考えるから戦うのだ。征服慾だというのも不完全だ。征服して何を求めるのか。やはり、日本的なものを世界に布こうという考えと、それからそれにより自己が利益しようとの二つだろう。日本人は干渉好きだ。しかし何か行動によってこれをなすことはしない。たとえば昨日、電車の中で網の上に鞄を載せようとしたのを何人も手助けしない。日本人の干渉は思想的なものに対してだ。
英米人は干渉嫌いだ。しかしそれは思想に対してであって、他が困っている場合にこれを助ける。町で考え込んでいると、「何を捜すんですか」といって必ずヘルプしようとするのはその例だ。電車の中でも必ず助ける。とすれば干渉は同じだ。相違は「何を目がけて?」という点に帰する。それは習慣と傾向の相違といっていいであろう。」(清沢『暗黒日記』)
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10月22日
・山西省公署、産業建設のための「山西省急進建設団」を編成、17歳~40歳男子の同団服務義務を決定
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10月22日
・豪北担当第2軍(阿南惟幾大将)、新設。
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10月22日
・米軍機、カロリン諸島クサイ島初空襲。
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