2015年10月30日金曜日

明治38年(1905)8月1日~12日 漱石の談話「戦後文界の趨勢」 藤村、独歩に注目する 小田原に療養中の幸徳秋水、老アメリカ人無政府主義に自らの思想転向を吐露 ポーツマス講和会議始まる 第2回日英同盟調印

明治38年(1905)8月
この月
・与謝野鉄幹長詩「ぐうたら」(「明星」)。
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・長谷川天渓「文芸観」(「文明堂」)
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・漱石の談話「戦後文界の趨勢」(『新小説』戦後之文壇)

 兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。

と語る。

 漱石は、「平和克復」によって「不安」(「中味と形式」)がなくなったことをよろこび、同時に、日本の「連戦連捷」や「大戦勝国の名誉」をよろこぶ。

 漱石は、今回の戦勝が「精神界へも非常な元気」を与えることに期待をかけた。
文学においても、「近松はセクスピアと比較し得る」といった「昔の国粋保存主義時代の考へ」ではなく、「我邦の過去には文学としては大なる成功を為したものはないが、これからは成功する、これからは大傑作が製作される、決して西洋に劣けは取らぬ」という「気概が出て来る」と述べ、「この趨勢から生れて来る日本の文学は今までとは違って頗る有望なものになって来るであろう」と語る。

 また漱石は、「文学」ばかりでなく「文界」全般の発達を期待して、日露戦争の犠牲などにはあえてふれず、明るい展望だけを述べた。

 さらに漱石は、われわれがこれまで「大和魂」などを「無暗に口にした」のは、「自信」があってのことではなく、いわば「恐怖」の叫びであった。しかし、「斯う勝を制してみると」、「今日まで苦しまぎれに言った日本魂は、真実に自信自覚して出た大なる叫びと変化して来た」と言う。また、「人間の気分が大きくなって、向ふも人なら、吾も人だといふ気になる、ネルソンもエライかも知れぬが、我東郷大将はそれ以上であるといふ自信が出る」とも言う。

 この部分については、漱石は「大和魂」の存在を認め、東郷大将はネルソンよりエライとするなど、「連戦連捷」に興奮して排外的な国家主義思想に囚われているとも受け取れます。しかし漱石は、日本人は西洋人より優れていると叫んでいるのではなく、「向ふも人なら吾も人だ」という人種を越えた人間の平等を主張している。
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・王子製紙会社、王子工場で500キロワットの電力を応用。
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8月1日
・木下尚江・山田金一郎、東北遊説出発。13日間。郡山、山形、楯岡、福島、仙台、盛岡、宇都宮。*
8月1日
・水谷八重子、誕生。
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8月1日
・東京日比谷公園内音楽堂開堂式。陸軍軍楽隊が演奏。
以後、陸・海軍楽隊が交互に月二回演奏。
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8月1日
・島崎藤村は、この年7月に出版された国木田独歩の短篇集「独歩集」を小諸の神津猛に送った。藤村は、明治30年頃から柳田国男や田山花袋等の仲間になっていた独歩に、この年はじめて逢い、その人となりと仕事に注目していた。

この日付け藤村の神津宛ての手紙。
 「昨日開き封にて御送りしました一書は新刊の小説集で、これは近頃懇意になりました国木田独歩といふ人の作です。君の許へ送る為に特に一冊とりよせました。是非この集は精読して下さい。批評を聞かせて下さい。 - 無瑕なものばかりでも有りませんが、兎に角新らしい思想で書いたもので、田山君などもツルゲネエフの作風に肖てゐると賞めたものであります。」

 国木田独歩はこの時、数え年35歳、まだ作家として志を得ていなかった。
明治32年、矢野龍渓の紹介で「報知新聞」に入ったが、翌年退き、明治34年1月には星亨の下で「民声新報」編輯長となったが、半年後星が暗殺されて失職し、西園寺公望の神田駿河台の屋敷に寄寓したりしていた。

 この頃から翌年、貧困に追われながら「牛肉と馬鈴薯」、「富岡先生」、「運命論者」、「空知川の岸辺」、「少年の悲哀」等のすぐれた短篇小説を書いて、二三流の雑誌に発表し続けていた。
「空知川の岸辺」は、田山花袋の世話で金港堂の「青年界」に発表されたが、この作品は旅行記と見なされ、その随筆欄に載せられ、稿料も1枚50銭と安いものであった。

 明治35年末、矢野龍渓の主宰する敬業社(のち近事画報社)に入って、やっと生活の安定を得るようになった。

 明治37年、日露戦争が起ると、「近事画報」は「戦時画報」と改題されて、戦争の情報を主として載せ、売れ行きがよくなった。
妻治子との間に、明治32年に長女貞が、明治35年に長男虎雄が、明治37年に次女みどりが生れた。

 明治37年、若い画家小杉未醒が近事画報社に入り、独歩と親しい交りがはじまった。
この年1月19日、父専八が死んだ。父が病気の間、奥井君子という附添看護婦が同居していたが、独歩はこの女性と関係が出来た。そのため君子は病人が死んでも国木田家を去らず妻妾同居の形となった。妻の治子はそのことに悩んだが、子供に手がかかるので君子の手助けが役立つこともあり、その不自然な生活が続いた。独歩には古風な男性中心の意識があり、そのことをあまり苦にしなかった。

 独歩は、前年からこの年にかけて、「非凡なる凡人」、「女難」、「春の鳥」などの幾つかの短篇小説を書いた。彼は作品集を出そうとしたが、中々引き受ける本屋がなかった。近事画報社の営業主任・山本秀雄がそれを聞いて義侠的に自分の社から出すようにはからってくれたが、部数は500にすぎなかった。

 そしてこの年7月、自分の勤めている近事画報社から「独歩集」を出版した。素朴で鋭い生の感情をとらえた彼の作品は、花袋や柳川国男など友人の間では早くから認められていたが、文壇人たちはこの作品集によってはじめて、独歩の鋭いものの見方を知り、急に注目が集った。

 「独歩集」が各地の書店へ送られた時、佐渡中学に学んでいた数え年16歳の青野季吉は、町の本屋でこの本を買った。それは彼が初めて買った小説本であった。青野季吉は姉の持っていた蘆花「不如帰」を読んだことがあったが、その古い感じが彼を引きつけなかった。この「独歩集」の中の「女難」や「少年の悲哀」や、同じような少年の夢を描いた「春の鳥」などが、人生の真実に触れた小説を読むという新鮮な喜びを彼に与えた。

 彼は佐渡の沢根町で酒造業や海運業をしている家に生れたが、幼い時代に生家が没落したので、極めて貧しい漁師夫婦のところに里子にやられた。彼は、貧民の子として育てられたので、独歩の描いた貧しい庶民の生活を実感をもって味わった。

 彼は明治36年未に出た「平民新聞」を創刊号から終刊号まで購読する少年であり、この明治38年には千山万水楼主人という名で河上肇が「読売」に連載した「社会主義評論」も愛読していた。
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8月2日
・ロシア講和主席全権大使、ニューヨーク着。
4日、ウィッテ、ルーズベルト訪問。ロシアの不利な条件拒否。賠償金も拒否の態度示す。
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8月5日
・日・ロシア両国全権の初顔合わせ。ルーズベルト大統領専用ヨット「メイフラワー」号上。
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8月6日
・幸徳秋水(35)、小田原の医師加藤時次郎の別荘で出獄後の身を養う。24日帰京。
秋水「柏木より」(「直言」)。獄中生活の報告。
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8月7日
・ロシア側委員、陸路ポーツマス着。巡洋艦「チャタヌーガ」乗船。
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8月8日
・日・露両国全権、ポーツマス上陸。ホテル「ウェストウォルス」入り。
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8月9日
・午前10時、両国全権(日本側主席全権小村寿太郎、全権高平小五郎駐米日本公使。ロシア側主席全権セルゲイ・ウィッテ大蔵大臣ら)、非公式講和予備会談。仏語使用。2回/日会議など運用取決め。
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8月10日
・幸徳秋水、アメリカの無政府主義者への転向を吐露。
休養先の小田原より、この日付のサンフランシスコの友人(アナキスト)アルバート・ジョンソン宛手紙。「私は初め「マルクス」派の社会主義者として監獄に参りましたが、其の出獄するに際しては、過激なる無政府主義者として娑婆に立戻りました。」。激しい弾圧が国家・議会への信頼を失墜させる。 

アルバート・ジョンソン(ジョンソン老人):
アメリカの無政府主義者、秋水は前年から文通している。無政府主義者クロボトキンを秋水に紹介した。

秋水は次のように書いた。

 5ヵ月の禁錮生活は健康を害ったが、社会問題に関する多くの知識を得たこと、罪悪について深く考え、実際に貧窮と罪悪とを誘発するものは、結局は現在の政府の組織、裁判所-法律-監獄であると確信するようになったこと。

 獄中での読書の主なものは、ドレーバーの『宗教学術の衝突』、へッケル『宇宙の謎』、ルナン『耶蘇伝』など、それにジョンソン老が送ってくれたラッド『ユダヤ人及クリスチャンの神話』と、クロボトキン『田園、工場、製作所』とは幾度も読み返した。

 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」

 欧米漫遊の目的は、次のように書かれている。
一、コムミニュスト又はアナーキストの万国的連合運動に最も必要な外国語の会話と作文とを学ぶため。
二、多くの外国革命党の領袖を歴訪し、そして彼等の運動から何物かを学ぶため。
三、天皇の毒手の届かない外国から、天皇を初めとし其の政治組織及経済制度を自由自在に論評するため。

 このジョンソン老への手紙は、秋水の無政府主義への転化の時期を示唆し、3ヵ月後の渡米の意図についての貴重な参考資料。「天皇の毒手の届かない外国」という表現も、秋水の天皇制意識として解釈できる。
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8月10日
・ポーツマス、日露講和会議。午前10時15分、本会議開始(第1回)。12条の日本側条件示す。
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8月11日
・石川啄木(20)、友人大信田金次郎(落花)の援助を得て文芸雑誌「小天地」を刊行することになり、友人の小笠原迷宮ら文学仲間と原稿を依頼する。
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8月12日
・第2回日英同盟協約調印。
英のインド領有・国境防衛措置承認。日本の朝鮮「指導・監理及保護」承認(韓国の保護国化を認める)。日英軍事「攻守同盟」関係。
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8月12日
・ポーツマス、午前9時45分、第2回会談。
ロシア側、樺太割譲・賠償金支払・海軍力制限、中立国抑留船舶の日本引渡しの4条件拒否。残り8条は条件付受諾を回答。
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8月12日
・林董駐英公使とランスダウン英外相、第2回日英同盟協約調印(ロンドン)。
日英同盟の期限を10年延長。適用範囲をインドにまで拡大。即日実施。9月27日公布。
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