2015年10月6日火曜日

天仁3/天永元年(1110) 平正盛、鴨川東の五条大路末にある六波羅に六波羅堂を建立。平氏と六波羅との結びつきができる。 『梁塵秘抄』で「何れか清水へ参る道、京(極く)だりに五条まで、石橋よ、東の橋詰四つ棟六波羅堂」とうたわれた

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天仁3/天永元年(1110
・越前河口荘本庄郷の式内社井口神社の旧地に春日神が勧請。他に、十郷用水の諸郷への分水口の地点に春日神が勧請・分祀。
十郷用水は吉田郡鳴鹿の九頭竜川鳴鹿井堰で取水し、吉田郡河合荘・坂井郡春近郷などに分水、坂井郡をほぼ北西に向かって貫流し、河口荘十郷のうち細呂宜郷を除く九郷を潤す越前最大の用水。
河口荘の本所興福寺大乗院において「神徳に依り鳴鹿河(十郷用水)出来、一荘満作干損無し」と主張され、北陸最大級の荘園の存立に不可欠の用水。
河口荘十郷に祀られる春日神10社は諸郷の鎮守社と位置づけられ、興福寺は河口荘十郷支配の基礎となる十郷用水の支配権が春日社とそれを支配する興福寺に帰属すると主張。
建武2年(1335)河口荘に国司代・守護代・坪江郷住人らが乱入する事件では、興福寺は「鳴河(鳴鹿)用水事」(十郷用水)について現地に下知を加えてその保全を図ろうとする。
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・フランス、メーヌ伯エリー、没。
アンジュー伯フルク5世、メーヌ伯領併合(前年(1109年)アンジュー伯フルク5世、メーヌ伯エリー娘エランビュルジュ(エランブール・デ・メーヌ)と結婚)。
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・第3代シトー修道院長ステファヌス・ハルディングス、就任(位1110~1133、イングランドの修道士)。シトー会初期の歴史上重要文書「愛の証言」「シトー修道院入門」の作者。
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・サラゴーサ王国(後ウマイヤ朝後継国家の一つ)バヌー・フード朝アフマド・アル・ムスタイーン2世、アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世との戦闘で敗死(位1085~1110)。
息子アブド・アル・マリク(サラゴーサ王在位1110年、ルエダ・デ・ハロン領主(サラゴーサ近郊)1110~1130)後継。
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・サラゴーサ王国、滅亡。ムスタイーン2世敗死後、サラゴーサの反キリスト教党派、サラゴーサをムラービト朝に引き渡す。
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1月
・初め、ハインリヒ5世、叙任権闘争を解決し帝冠を受けるためイタリア遠征表明。
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・年早々、南仏トゥールーズ伯レーモン総指揮の入植者を中心とするエルサレム増強部隊20万、小アジアに渡ってすぐイスラム軍に襲われ虐殺、全滅。
⇒植民より武力投入優先思想生まれ、2世紀にわたる無益な十字軍の繰返し。
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1月3日
・摂政藤原忠実第での臨時客。越前守藤原仲実が勤仕。
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2月
・フランク軍、ベイルート攻撃。住民5千、必死の抵抗。
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3月7日
・ラテラノ公会議。教皇俗人叙任の禁令を更新、皇帝ハインリヒ5世の南下声明に答える。
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3月27日
・出羽守源光国、摂政藤原忠実(ただざね)の寒河江荘を侵す。源光国は後に国家呪詛の罪で流される。
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5月13日
・エルサレム王ボードゥアン1世、エジプト人からベイルートの港を奪う。無差別殺人。
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5月13日
・彗星東方に現れる。長さ5尺。
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6月11日
・若狭の唐人楊誦、越前国司(越前守藤原仲実、権守藤原為房)の「雑怠」(怠慢)を訴える(「永昌記」)。
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7月13日
・「天永」に改元。
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8月
・ハインリヒ5世(29)、3万軍隊でイタリア遠征。
ロンバルディア、トスカナの全都市が降伏(マティルダ、敵対せず)。
南イタリアのノルマン人、1101年にロジェ1世を失い、教皇支援にローマに派兵できず。
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・ノルウェーのジーグルト、船60隻で十字軍参加、エルサレムに向う。連合してサイダ港(フェニキアの古都シドン)を海陸から攻撃。
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10月
・平正盛、賀茂・石清水の造塔の功により但馬守から丹後守に転身。
この頃、鴨川東の五条大路末にある六波羅に1町8段の畠地を入手、六波羅堂(常光院)という御堂を建立。平氏と六波羅との結びつきができる。
その後、数年のうちに近くの珍皇寺から土地を借りて拡張し、南北両塔を有する堂々たる寺院とした。
「何れか清水へ参る道、京(極く)だりに五条まで、石橋よ、東の橋詰四つ棟六波羅堂」(『梁塵秘抄』)とうたわれたように、この寺は、鴨川左岸の五条末、五条大橋橋詰に立地したらしい。
珍皇寺が「六道の辻」という地点にあったように、この世とあの世との境界領域、すなわち貴族たちの墳墓堂がならぶ葬地に存在したと考えられる。

『延慶本平家物語』巻三末「平家部落ル事」に・・・
 「南門ハ六条末、賀茂川一丁ヲ隔ツ、元方町ナリシヲ、此相国ノ時四丁ニ造作アリ、是も屋敷百二十余宇二及べり、是ノミナラズ、北ノ倉町ヨリ初テ、専ラ大道ヲ隔テ、辰巳之角ノ小松殿ニ至マデ、廿余町ニ及マデ、造営シタリシ一族親類ノ殿原、及ビ郎従眷属ノ住所ニ至ルマデ、細ニ是ヲ算レバ屋数三千二百余宇」とある。

もとは一町四方であったのを、清盛が四町に拡張し、家数が「百二十余」に及んだことがわかる。
さらにその周辺に一族から家臣までの二十余町の地域が広がり、そこには「三千二百余」の家が並んだという。北の「倉町」から「辰巳」つまり南東の隅にあった小松殿(重盛邸)という鴨川左岸の広大な地域である。

 清盛はみずからの邸宅泉殿を建設するにあたって、祖父の墳墓堂を取りこんだのであり、六波羅の都市建設もその墳墓堂を中心としていた。
権門都市鳥羽殿が、白河・鳥羽両院と近衛天皇の墳墓を中心としていったように、六波羅も平氏発展の基礎を築いた平正盛の墳墓堂を一族の紐帯とした都市であった。
六波羅は、平安京に隣接して建設された、平氏一族の権門都市なのである。
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12月4日
・ボードゥアン1世、エジプト領シドンを占領。ノルウェーとヴェネツィア海軍が支援。
17ヶ月の間にアラブで名高いトリポリ、ベイルート、サイダが征服される。
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