「新たにゴヤのアトリエへ入って来た助手は、バレンシア生れのアセンシオ・フリアである。父が漁師で背が低かったせいがあって、チビッ子漁師(エル・ペスカドレート)と仇名で呼ばれていた。」
ゴヤ『サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂壁画』(部分)1798
「マンサナーレス河の岸から一〇〇メートルほど離れた小丘の下に、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダと名付けられた小聖堂が完成した。これは元来王室付近衛兵連隊の守護聖人の聖堂で、・・・またまた一度とりこわして再建し、その四度目のものが一七九九年に完成したものであった。設計監督は友人のフアン・デ・ビリャヌエーバ氏で、ゴヤはこの小聖堂の装飾を依頼された。場所は、「聖イシードロ牧場」のもう少し左側で・・・。
・・・教会はローマ教皇庁に直属していて連隊付神父の下で、独立をしていた。つまりはトレドの大司教からも異端審問所からも誰からも干渉されなかったのである。
・・・今回は下絵をアカデミイや聖堂当局者に見せて承認を得る必要も何もない。王室付の一聖堂であってみれば首席宮廷画家として誰憚るところなく、自由に描ける。それは、当時の画家として実に生涯に一度あるかどうかわからぬほどの、きわめて例外的な機会であった。」
「題は、パドゥアの聖アントニオの奇蹟である。・・・。
この聖アントニオの奇蹟は、一三世紀にリスボンで起ったものと言われている。この聖人の父親が誤って殺人犯だと当の殺人者から告発され、聖人が殺された人を生きかえらせて彼の父が犯人ではない、当の告発者こそが犯人なのだ、と法廷で証言をさせた、という、いわば逆転劇をめぐってのものであった。」
「ところがある時に、望遠鏡で仔細に細部を見ていたとき、妙なことに気付かされたのである。
多数の、一〇〇人余の大群衆のうち、頭にかぶりものをかぶっていない、つまりは髪の毛があらわに見える女性たち、及び着衣のマハ像と同じく、着衣であるが故により一層エロティクな天使たちの髪の、そのほとんどが金髪である!」
「直径五・五メートルの円型穹窿に鉄と木の手すりをしつらえて、人々のすべてがこの手すりによりかかって聖人の奇蹟に驚愕しているかたちになっているのであるが、その彼ら彼女らのまとっている服装が、これがまたなんとも得体の知れない代物である。少くともそれは、女性において黒を主軸とするスペイン女の服装ではない。ある女は、五メートルくらいはあろうかと思われる白布を手すりに長くひっかけてその端っこを頭にかぶっている。
そういう奇妙なかぶりものの習慣は、当時においてなかった。
また男たちも、ロシアの百姓のような妙に幅広の袖の上着をさせられていたり、手すりにまたがったり、落っこちそうになっている餓鬼ども二人までが金髪である。
これはどういうことなのか。」
「太い木の手すりに鉄の欄干をはめ込んだだけの、単純な手すりを穹窿全体に、円形にはりめぐらし、この手すりの背後に一〇〇人余の群衆が押し合いへし合いしている。けれども、どう見ても奇蹟を行っている聖人が全体を支配しているとは思えないのである。それに聖人そのものが(おそらくは飢えて)痩せさらばえた、マドリードの町筋のどこででもお目にかかれるような貧相なお坊さんであるにすぎない。
キリスト教図像学上、この聖人を象徴する百合の花、魚、本、ひざまずいた驢馬などもまったく描かれていない。むしろ無視されている。
このお坊さんをめぐって、襤褸をまとった乞食、頭巾をかぶったそこらのお上さんやら、ふとった歯抜けの商売女、浮浪者らしいもの、奇蹟を目前にしながらもべちゃくちゃとお喋りをやめぬ女どもなどがたむろをしている。まるで無関心な女たちもいる。かくて押し合いへし合いで、群衆の背後にはまだまだ顔やら手やらが見え、肩幅の広い、大きな帽子をかぶった頑丈な百姓が押し潰されたり手すりがこわれて墜落させられたりしてはたまらぬとばかり、両足を踏んばって当方には背中を見せて押しかえしている。
これは到底聖画、聖徒伝(画)などというものではありえない。奇蹟は、群衆の好奇心、物見高い野次馬根性の対象でこそあれ、崇敬や感動などのそれではない。いわばマドリードの下町のどこかでの出来事を、この聖堂の穹窿へ押し上げたというほどのことである。聖人のすぐ背後で手すりに馬乗りになって、落っこちそうになっている二人の餓鬼どもは、まるでこの聖堂の下から穹窿の手すりまでよじ登って来てどんなもんだい、と威張っているかのようである。
これは、パドゥアの聖人を中心とし、きっかけとした巨大な風俗画なのである。彼が生きていた当時のマドリード、ひいてはスペインそのものの、その代表的な人々をこの聖人をとり囲むかたちで集合させたものである。」
「穹窿にある主要主題の画面がどこからどう見て通俗的であることにかてて加えて、そこから天童や天使たちを追い出してしまい、彼らを附属画面へ移行させたことも、当時としては実に大胆不敵なやり方というものであった。
かくて天童や天使たちは一段下に降りて、奇蹟劇の行われている穹窿劇場の引幕を一生懸命に引くという、劇場労働者のような役を演じさせられているのである。
宗教画とか聖徒伝画の世界でこういう革命的なことをした人は、おそらくゴヤをもって嚆矢とするものである。もしサラゴサのエル・ピラール大聖堂の場合のようにうるさがたの建築委員会、あるいは教区委員会などというものがあったとしたら、これはもう文句なしに「不謹慎」である、と難詰をしたであろう。この小聖堂は先にも書いたように独立をしたもので教区をもっていなかった。ローマに直属していたので、従って異端審問所も手を出せなかった。ローマは遠い。・・・。
・・・
しかしこのまるまるとふとった天童や、官能的な天使たちは、まことに可愛く、かつ美しい。彼らは穹窿の世俗劇をよそに、まるでバレエをでも演じているか、あるいは天井いっぱいを使って駈けっこか追いかけごっこをしているかのようである。それぞれみな下ぶくれの顔をもった、まざれもないマドリードの女たちであり、餓鬼どもである。
これが、しかし、頭に金髪をのせている。この金髪めぐって様々な説がとなえられたものであった。すなわち、ある人はこれはスペインでの景ではない、ベネチアだと言い、その証拠に女たちの顔が白すぎる、ベネチアの女たちのように白粉を塗っているではないか、お手本はティエポロだ、いやコレージオだ、というようなことになるのである。」
「この金髪云々は、しかし、私はゴヤにおける色の配合上の恣意によってなされたものであろうと思っている。色調は黄褐色と灰色がかった青が交替交替に置かれて行って、そこに赤、白、黒、灰色のまざった緑、洋紅色などでニュアンスがつけられている。
この画家は、ここにこの色が欲しいと思えば、慣習や現実などは蹴飛ばしてしまうだけの芸術的暴力だけは充分にもっている。いままではそういう暴力を発揮する機会に舞台がなかっただけである。
宗教画の場合、宗規に従って人物像の輪郭ははっきりしていなければならず、顔などは特に明確に描かなければならないのであった。しかしそんな宗規などは犬にでも食われろ、である。ある人物の顔などは、たった四筆で目鼻も定かではなく、背景に融け込んでしまいそうである。輪郭は多くの場合、半分くらいしか決めがついていない。また倍率のいい望遠鏡で細部を見て行くと、壁に溝をでもつけたかのようにして人物像の下描きをしてあるのが見えるのであるが、その下描きと本番とはまるで違うことになっている。ほとんど下描きの線描とは違ったものを描いている。それは本画にとりかかってからの各人物の動きの相対性がしからしめたものであって、下描きの線描は死んだものであったせいであろう。この聖堂の仕事のためのデッサン(油絵}が三枚残っているけれども、それは形態(フォルム)を決めるためのものではなくて、どういう意図(イデー)で行くかを試してみたものと思われる。
ゴヤは実に、暴力的なまでに自由奔放に描き切っているのである。
『気まぐれ』がドミエの出現を予告しているとすれば、この聖堂画はマネーを見越しているであろう。」
ゴヤ『アセンシオ・フリア像』1798
「高い - 一五メートルはあるであろう ー 足場の上でゴヤはどんなふうにして仕事をしているか。
・・・
その働き振り、仕事の仕方を知るのにまことに恰好な一枚の絵がある。(この小さな ー 五六×四一センチ ー 絵は現在行衛不明で私は見ていない。)
それはゴヤの手になる、助手アセンシオ・フリアの像である。この「チビ漁師」は当時の画家たちの着る長い仕事用のブルーズを着て、この聖堂用の足場の下に立っている。足許には絵具を溶くための鉢やら筆、板などが散乱していて、顔を強くそむけている。あたかもあるじのゴヤが足場から下りて来て、
- このチビ漁師め! お前は・・・。
と怒鳴りつけているのを、またはじまった、親爺の悪態が、とでも思いながら、今度は何だというんだろう? と不安な面持ちをしているかに見える。・・・
小さな即興画のようなものであるが、実に精確に描けていて、彼の人物画中でもやはり傑作に属するであろう。友情に溢れた、情感ゆたかなものである。署名も「ゴヤより友人(アミーゴ)アセンシへ」としるされている。
・・・。」
「一七九八年の一二月二〇日に画家は王室へかかった費用の、こまごました明細つきの請求書を提出していて、そのなかで四〇日間、毎日雇った馬車代を書き出している。
しかし最近の研究によると、この請求書はおそろしく誇大な水増しものだそうであるから、四〇日かけたということも信用ならない。」
「この仕事はフレスコ画であることに間違いもないのではあるが、彼はテンペラ画の手法をも併用している。そんなことをした人は他になかった。黄褐色の部分と、洋紅の部分がそれである。これが彼に幸いした。
それがどう幸いしたかと言えば、色彩効果については無論であり、さらには保存のためにも幸いした。
・・・
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは、画家である以前に科学者であった。彼は顔料、絵具を徹底的に分析して、何が、またどうすれば自らの仕事を永遠に残すことが出来るかと、自分に納得出来るまで研究をした。その上であの『最後の晩餐』をミラノの聖堂に描いたのである。
結果はどうであったか。
鱗状にほとんど剥落してしまった。
原型をとどめぬとまでは言えないが、現在われわれが見るものは、ペリチョーリ氏なる修復の専門家の手の入ったものである。
ゴヤの場合はどうか。
修復師の必要などまったくなかった。
そうしてもう一つの幸運は、二〇世紀に入っての市民戦争で、この小聖堂は至近距離で対峙する共和国軍とファシスト軍のほぼ中間にはさまれていた。それが二年間もつづいた。
一発の砲弾があたったとすれば、それですべてはおしまいである。
しかし、それはなかった。」
「この「宗教画」は、西欧における教会装飾、あるいは教会荘厳のための宗教画としては、おそらく最後のものである。
あたかも信仰の表現としての、多くの彫刻や絵画などの造型芸術をともなった、ロマネスクやゴチックの巨大な教会建築というものが、印刷機の発明によって信仰の追求が内面化されるとともに、次第に新規に建築造営されることがなくなって行ったように、「近代」は宗教画というものさえを必要としなくなって行くのである。.サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダは、すでにして「近代」そのものである。」
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