2016年10月3日月曜日

明治39年(1906)2月1日~28日 韓国統監府・理事庁開庁 普通選挙全国同志大会開催 文芸協会発会 日本社会党結成 日比谷焼き打ち事件公判(「警犬問題」暴露) 

鎌倉 英勝寺 2016-09-29
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明治39年(1906)2月
この月
・韓国の王族閔宗植、忠清南道で抗日の義兵。11月、日本軍に捕われる
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・日知会結成
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・二葉亭四迷、亡命ロシア、エスエル党員プロニスラフ・ピルスーツキー(ポーランド人)と知り合う。
横山源之助とロシア革命支援を引き出すため、島田三郎、大隈重信、板垣退助、巌本善治らに会う。
また、ピルスーツキーのために日本ポーランド協会を設立。ピルスーツキーからは福田英子を紹介される。この夏、同様に亡命者ポドパフと知り合う。
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・啄木(20)、この月16日~21日、一家の窮状打開のため次姉トラ宅(夫は函館駅長)を訪問、不調。帰途、野辺寺常光寺に一禎を訪ね善後策を相談。
25日、長姉田村サダ(31)、秋田県鹿角郡の小坂銅山で没。結核(啄木一家で最初)。子供5人。夫は小坂銅山の塗装工。啄木は旅費を新渡戸仙岳に借りる、生活費に回して葬儀に出ず。
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・木下尚江「日かげの女王」(のち「隣家の美人」と改題)(「新紀元」)。
隣に引越してきたお鯉を見て、彼女を「日かげの女王」と観察、ここまでなり下がらせた社会に反省を促す必要を感じる。
前年9月5日の日比谷焼打ち事件の夜、隣家の井上子爵邸に避難するが、迷惑になるため榎坂の妾宅に戻る。
7日朝、町内代表が来て立退きを要求。引越しを決意して、転居先が見つかるまで「貸家」の札を出し身を潜める。
23日朝、桂の執事が来て手切れ金1万円を置いて行こうとするが押し返す。翌朝、桂よりこれまでの感謝と詫びの手紙。
25日、開き直って外出(「阿鯉御前都落の事」(「東京朝日」27日))。
10月初、実母の名義で借りて、麻布の奥の広尾の南部坂下に転居。家賃16円。麻布警察署警部が来訪し、隣家が社会主義者木下尚江なので転居するよう忠告するが応じず、お鯉の家にも刑事の立ち番ができるようになる。
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・株式会社加賀製陶所創立(石川県)。
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・ハンガリー議会、兵士により解散。憲法停止。
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・オーストリア、ガウチュ内閣、普通選挙法再上程。否決。11月、可決。
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・南アフリカのズールーランドで、バンバタの反乱起こる。
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・オスマン朝、シナイ半島南部の領有権主張。
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・フィリピン、州知事・役員選挙。
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2月1日
・韓国統監府および理事庁開庁(伊藤統監、黒龍会内田良平幕僚、内田は一進会顧問)。南山西麓。開庁式は臨時統監代理長谷川好道が行う。
3月2日に統監伊藤博文着任。

日本軍常置部隊とともに、治安維持のため13道観察府(道庁)に日本人警務顧問の支部を置き、全国26の分遣所と123の分派所に日本警察官を配置して、軍事、警察支配を徹底させる体制を作る。
統監は天皇に直隷して、朝鮮の「安寧」の為に、韓国守備軍司令官に兵力の使用を命ずる権限を持ち、統監令によって刑罰を科す権限をも認められている。

列強の了解。
①明治38年7月、桂・タフト協定。日本がアメリカのフィリピン支配を承認するのと引換えに、アメリカは「日本の承諾なしに韓国が対外条約を結べない程度の保護権」を持つことに同意。
②同年8月、第2回日英同盟。日英同盟の適用範囲を、反英運動が盛んになりつつあるインドにまで拡大し、英国のインド支配に日本が協力することと引き換えに、英国は日本が韓国に対し、「指導、監理、保護ノ措置」をする権限を認める。
③ポーツマス条約で、日本が韓国で「軍事上経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコト」を認めていたロシアも、日本の保護権を了承。
④明治40年6月、日仏協商。日本が、フランスのインドシナ支配を認め、ベトナム独立運動の闘士の国外追放に協力することなどで、フランスもアジアにおける日本の地位を認める。

伊藤の統監政治の下で、鉱山開発でも外国資本・朝鮮民族資本の排除と日本資本の進出が進み、交通・通信機関の日本支配も実現。
新しく税務官(税務署)税務主事(税務分署)を設けた新徴税機構では、日本人警察官や憲兵が協力して税徴収に当たる。
明治39年の土地家屋規則の設定で、日本人の土地所有に対する法的制限はなくなり、朝鮮での日本人地主は43年には2千人を超え、7万町歩近い土地を所有するに至る。
日本による植民地化が進む中で、「国権回復」の旗を掲げて反侵略と反封建の武力闘争に乗り出した反日義兵が各地で蜂起。
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2月1日
・西陣・八王子・米沢・桐生・伊勢崎・足利の各織物同業組合長、連署して織物消費税廃止を陳情。
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2月1日
・第2回社会主義研究会、来会20。
19日、幸徳秋水、アメリカ社会労働党本部視察。
23日、日本での日本平民党・日本社会党結成の報、サンフランシスコに伝わる。
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2月2日
・仏、政府官吏の教会財産目録作成に暴動発生。570人負傷。
11日 教皇ピウス10世、仏の政教分離政策非難。
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2月3日
・日本政府、1908年までに海軍力をほぼ倍増することを決定。
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2月3日
・高村光太郎(22)、横浜港から、カナダ太平洋鉄道の貨客船アゼニアン号で出航、自費留学生として美術研究のためアメリカに向かう。のちイギリス滞在などを経て、42年7月1日に帰国。
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2月3日
・この日付け漱石の野間真綱宛て手紙。河上肇の生き方を讃える。

「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(『漱石全集』22巻)

河上肇は人道的社会主義論を展開していたが、突然擱筆し、一切の教職も辞して、伊藤証信(宗教運動家、1867~1963)の精神修養団体「無我苑」に入り、絶対的非利己主義を主張した。しかし、その後、無我苑を去り、読売新聞記者となった。このような河上の生き方を見ていた漱石の言葉である。
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2月4日
・元オーストリア皇女エリーザベト、ヴィンディッデュグレーツとの間に三男ルドルフ誕生
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2月5日
・石川島造船所職工750人、賃上げを要求してストライキ。
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2月5日
・菅野須賀子(26)、「牟婁新報」入社。この日、初出社。
前年11月6日から半自伝小説「露子」を連載、また度々執筆。堺利彦の紹介で入社。「牟婁新報」創立者の1人岡本庄太郎、ついで石田庄七(和歌山紡績社長)宅に下宿。
3月初旬、妹を呼寄せる。のち、荒畑寒村と知合う(寒村は須賀子より6歳年下、須賀子は寒村を「かつ坊」、寒村は須賀子を「姉ちゃん」とよびすぐに親しくなる)。
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2月7日
・中国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀、誕生。
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2月7日
・英総選挙。ヘンリー・キャンベル・バナマンを首班とする自由党が政権をとる。
ジェイムズ・ギア・ハーディ率いる労働代表委員会は、29議席獲得し、27議席の増加となる。
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2月8日
・タヒチに台風。死者数千人。
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2月9日
・韓国、憲兵隊拡充(勅令)。
韓国駐箚憲兵、統監の指揮で軍事・行政・司法警察を掌る勅令公布。
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2月10日
・英、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。4ヶ月で建造。世界最強の戦艦。以後、建艦競争開始。
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2月11日
・普選同盟会、普通選挙全国同志大会開催(東京両国伊勢平楼)。300人参加。
日本社会党は、普通選挙連合会に加盟し、国家社会党、日本平民党、直行団、新紀元社などと統一行動を組む。
2月20日に中村太八郎、西川光二郎、堺利彦ら60人が、日比谷音楽堂から隊列を組んで衆議院に押しかけ、奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉根庄一郎の4代議士に面会して2405名の請願書と普選大会の決議文を手交。普選デモの先駆となる。
堺利彦、山路愛山、加藤時次郎らが代表委員に選ばれる。
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2月11日
・スペインでドリダリタート・カタラナ結成。1907年4月の選挙で躍進。
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2月14日
・東京市第2回凱旋軍歓迎会。日比谷公園。乃木は式を終えた後、園遊会には参加せず密かに帰宅。
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2月15日
・堺利彦「菅野須賀子君の入社に就て」(「牟婁新報」)。堺の紹介状。
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2月16日
・伊藤博文、山県・井上2二元老、西園寺首相・加藤外相・大山巌元帥・児玉源太郎大将を大磯の別荘に招き、南満州における陸軍の態度について議論。
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2月16日
・東京市第二回陸軍凱旋大歓迎会。
「各軍隊代表等総計三千五百余名、各大臣(西園寺首相を除く)共催の賓客一千余名、一同着席するや、数万の参列者帽を振り、手を拍ち万歳の声鳴りも止まざる。……上野公園に雲霞と許り集合せる群衆は、上野の森も動き出さん許の大歓呼のみにては足らず、偖(さて)は帽を振り、旗を振り、あらん限りの歓喜を以て熱心に此名誉ある大行進を送り」(東京朝日新聞)
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2月16日
・英総選挙(1/12)で下院29議席獲得のイギリス労働代表委員会、イギリス労働党と改称。
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2月17日
・東京芝紅葉館、坪内逍遥(47)・島村抱月(35)らの新劇運動団体「文芸協会」発会式。「妹山背山」など上演。
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2月17日
・この日付漱石の柿崎嘲風宛、「(前略)学者の御そろひの大学でそんな事をむづかしく云ふのは、大学が御屋敷風御大名風衡役人風になってるからだよ(後略)」。
大学から英語学試験委員を委嘱されたが、辞退したときの大学評。
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2月17日
・教皇ピウス10世、前年7月、フランス議会可決の政教分離法実施非難。
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2月18日
・アルマン・ファリエール、仏大統領就任(~1913年)。
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2月19日
・台湾銀行法改正。銀貨を金貨に改め、半額準備の制限を解く。
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2月19日
・満州向け日本綿布輸出組合結成。
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2月20日
・第1回普通選挙請願名簿2,240、衆議院に提出。
中村太八郎、西川光二郎、堺利彦ら60人(11日から普通選挙全国同志大会を開いていた)が、日比谷音楽堂から隊列を組んで衆議院に押しかけ、請願書を提出。普選デモの先駆となる。
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2月20日
・初代韓国統監伊藤博文、東京発。
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2月20日
・来日中の英国皇族アーサー・コンノート卿、明治天皇にガーター勲章を贈進。
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2月20日
・英軍、ナイジェリア北部の原住民の反乱鎮圧に出動。
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2月23日
・清国、赴日留学生章程制定。
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2月24日
・日本社会党結成第1回大会。京橋区木挽町加藤病院。日本社会党・日本平民党合同。出席代議員35人。評議員片山潜、堺利彦、西川光二郎、加藤時次郎、斉藤兼次郎、樋口伝、森近運平、深尾韶、山口義三、田添鉄二、竹内余所次郎、岡千代彦ら13人。常任幹事堺・西川・森近を互選。正式党員200弱。
27日夜、神田三崎町平民社ミルクホール2階の社会党事務所で初の評議員会。「本党は国法の範囲内において社会主義を主張す」(第1条)など党則を制定。翌28日、追加届を出し、ここに日本で初めての合法的な社会主義の政党が公然と存在を許されることとなった。

日本社会党の正式党員数は200人に満たなかったが、当時、警視庁が新聞に報じたところによると、社会主義者の数は全国にわたって約2万5千人、最も多いのが東京で、次に栃木、神奈川、東北の順となる。東京は1万4千人を占め、その内訳は、労働者3,200人、学生7,500人、政客50人、軍人180人、宗教家60人、司法官10人、医師45人、外に200人は不明となっている。これらの数字を全て信用できないとしても、社会党がその正式党員以外に相当の影響力をもっていたことは推測できる。
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2月24日
・文部省、奈良県立戦捷記念図書館設置を認可。
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2月24日
・パルマ・キューバ大統領再選に反対し、自由派の革命運動起こる。
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2月24日
・イタリアでカトリック選挙連合結成。
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2月25日
・幸徳秋水「在米同胞は幸福なりや」(邦字新聞「日米」)。ドヤ街に住む多数の日本人日雇い労働者。
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2月26日
・コンノート卿大歓迎大会、日比谷公園にて催す。
「正門前の雑踏ハ甚しく騎馬と徒歩の警官と憲兵と数十名警戒せしが大名行列が繰り出すや潮の湧くが如く人波を打ち鉄柵の前に殊に設けたる丸太の柵を押潰せんず光景で」(読売新聞)
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2月27日
・第1回日比谷焼き打ち事件公判。吉沢不二雄の「警犬問題」が一般にも明らかにされる。

大会幹部の吉沢不二雄は自由党系の壮士。
捜査当局は事件後、大会幹部が計画的に群衆の暴動を作り出したことを立証しようとした。検挙した幹部のうち吉沢を除く全員が、暴動計画を否定した。
ただ独り、吉沢だけが暴動計画を詳細に陳述した。彼は同じく幹部であった佃信夫から、国民大会強行のため壮士を周旋することを命じられ、佃宅にて爆弾のような包みを見せられ、警視庁、内相官邸などへの襲撃計画までを打ち明けられたと供述した。この供述を基にして河野らを事件の責任者として特定した。
ところが、吉沢は公判廷で、供述をひるがえし、警察から釈放と金銭300円とを代償に話したと語った。「自分は警視庁の犬と云はれても致方なし」と証言した。
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2月27日
・米女性フェルプス、仙台市に東北育児院創設。宮城、福島二県の凶作地の児童100余人収容。のち仙台育児院と改称。
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2月27日
・英仏、ニューヘブリデス諸島に関する条約締結。
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2月28日
・第2回日比谷焼き打ち事件公判。
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