2017年10月28日土曜日

明治39年(1906)10月15日~31日 漱石、文学に対する決意を語る。 「余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」 「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」

江ノ島 2017-10-26
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明治39年(1906)
10月15日
・1906年7月6日の第2回ジュネーブ条約に対する、韓国の地位に関する外交文書交換(11月20日も同様)。
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10月15日
・サンフランシスコの小学校で、日本児童200余人の通学禁止問題発生。
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10月16日
・谷口房蔵ら紡績業者、韓国棉花設立(本社大阪、資本金20万円、綿作農民への前貸等を行う。のち朝鮮棉業と改称、'16年、日本綿花に買収される)。
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10月16日
・ケーベニック事件。ベルリン郊外ケーベニック市、兵士数名、市庁舎乱入。市長拘禁。
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10月17日
・ロシア、トロツキーの口頭弁論。
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10月17日
・ドイツ、1,600キロメートル離れた場所に電信で写真を電送。
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10月18日
・渡島水電株式会社創立(北海道)。
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10月18日
・神田錦輝館で社会主義演説会。弁士10名中8名に中止命令。
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10月19日
・中国同盟会、湖南省で蜂起。
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10月19日
・韓国、伊藤博文統監、韓国政府と森林経営に関する共同約款調印。
鴨緑江・豆満江沿岸森林は日本・韓国両国政府共同経営とする。
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10月20日
・坂口安吾、誕生。
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10月21日
・この日付け夏目漱石の森田草平あての手紙
森田の自分の生活の秘事を打ちあける手紙に対する返事。
「余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ、満腔の同情を以て裂き棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて、目的以外の事は決して起る気遣ひはない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。(略)余は君が此一事を余に打明けたるを深く喜ぶ。余をそれ程重く見てくれた君の真心をよろこぶ。同時に此一事を余に打明くべく余儀なくさるゝ程、君の神経の衰弱せるを悲しむ。男子堂々たり。這般(しやはん)の事豈(あに)君が風月の天地を懊悩するに足らんや。君が生涯はこれからである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後、誰か此一事を以て君が煩ひとするものぞ。君若し大業をなさば、此一事却つて君がために光彩を反照し来らん。」

続けて、漱石は作家としての自分の覚悟を述べる。
「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。(略)」
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10月22日
・名古屋電力株式会社設立。
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10月22日
・セザンヌ(67)、没。
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10月23日
・この日付けけの漱石の手紙
「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである。」(10月23日狩野亨吉宛書簡)
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10月24日
・英、婦人参政権論者11人が議会開会時に起きた暴動に参加したとして投獄。
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10月25日
・この日付け「光」掲載の社会党公報。
近く日刊「平民新聞」が創刊され、キリスト教派と非キリスト教派が再び手を結び合うこと、また「新紀元」は来月10日号を以て廃刊し、石川三四郎は新しい平民社に創立人として加わること、安部磯雄は社友として援助すべきこと等を報じる。
また、木下尚江の脱党の報告
「然れど吾人は又茲に一の悲むべき事実を報告せざるを得ず。それは吾党の運動に永さ歴史を有せる木下尚江氏が遂に全く吾党と関係を絶ちたるの一事なり。(略)因に記す、氏は今月下旬より家を伊香保の山中に移し、『懺悔録』其他の著述に従事すべしと云ふ」
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10月25日
・仏、クレマンソー内閣成立(−1909)。
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10月25日
・サンフランシスコ学務局の日本学童隔離決議(11日)に対し、青木周蔵駐米大使抗議。
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10月26日
・10月26日付漱石の鈴木三重吉宛手紙。
「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」。
「それでないと何だか難をすてゝ易につき、劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」

と、漱石自身の文学者の立場、文学にはどのような精神をもって取り組むかを語り、「腰抜文学者」にはなりたくないと言う。

さらに、
苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば、単に美といふ丈では満足出来ない。丁度維新の当士(ママ)勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては、文学者になれまいと思ふ。
文学者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる様な小天地ばかりに居れば、それぎりだが大きな世界に出れば、只愉快を得る為めだ抔とは云ふて居られぬ、進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。

と、まだ東大英文科の学生である鈴木三重吉に、文学を遭って生きる者の心構えを説いている。
これは漱石の文学に取り組む姿勢、決意である。
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10月26日
・ドイツ領ポーランドの生徒、宗教の時間にドイツ語使用を強制されることに反対し、ストライキ。
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10月27日
・海江田信義(75)、没。
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10月29日
・帝国肥料株式会社創立(横浜)。資本金300万円。
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10月31日
・木下尚江、伊香保の温泉宿、小暮金太夫方へ転居。「毎日新聞」の退職金が彼の生活を支えた。木下が伊香保を選んだのは、この夏ロシアから帰った徳富蘆花が、出発前に、精神的な苦悩の果て伊香保に隠退していたことから暗示されたため。木下の実社会離脱、自己否定、懺悔という衝動は蘆花が1年前の明治38年末に味わった経路に似ていた。冬の間、客の少い宿で、彼は半年の約束で安い料金で座敷を借り、その前半生の自叙伝なる「懺悔」を書きはじめた。
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