2017年12月26日火曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(7) 第一章 アジア Ⅰマカオ(3終)

北の丸公園
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日本船のトラブル(マカオ事件)
1608年頃、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加し、中国当局はマカオのポルトガル人居留地における日本人の存在を黙認できなくなっていた。

その頃、九州の大名有馬晴信が遣わした朱印船に乗ってマカオへ到来した日本人の船員らと、マカオのポルトガル人たちの間に争いが生じた。
マカオに逗留していた30~40人の武装した日本人集団が、町を略奪し日本に帰るためにマカオ市民のジャンク船を船ごと盗もうとする事件が発生した。
明朝官憲は、ポルトガル当局に対し渦中の日本人を引き渡すよう伝えた。明朝によるマカオのボルトガル人居留地行政への干渉を憂慮し、その命令を受け入れ難いマカオのポルトガル当局は、日本人に対し、明朝の兵士たちに見つからないよう、変装し武器を隠すこと、もし従わない場合、マカオから生きて出られないであろうと伝えた。その最中、ポルトガル人とマカオにいた別の日本人集団の間で新たな争いが起き、状況は悪化した。
暴徒化した日本人により特別治安院判事(オウヴィドール)が重傷を負い、マカオの有力市民の息子が戦闘に巻き込まれて死亡し、ボルトガル人数人とその奴隷たちが負傷した。日本人の中には戦いを放棄した者もいたが、戦闘を継統した日本人は、民家に立て籠もり、そこに有馬家の家臣たちも参入し、立て籠もった者たちは計約40人となった。
武器を捨て、当局に身柄を拘束された者たちは、軽い罰を受けた後、解放された。しかし、立て籠もった日本人たちは、ほとんど全員が殺害された。わずかな生存者は、イエズス会の神父らの仲介もあって、家から出て、処罰を逃れた。
事件後の調査で、現場にいた日本人から証言が集められた。その後、事件の首謀者と見られた日本人1人が処刑された。
その争乱には有馬家の家臣を含む船の乗組員にとどまらず、マカオ在住の日本人コミュニティの者たち(多くはポルトガル人に雇われた傭兵)も参加していた。

明朝当局の日本人に対する警戒
その争乱の経過と結果は、明朝当局を警戒させることとなった。黙認してきたマカオにおける日本人の存在は見過ごしえないものとなり、またポルトガル人に対する信用も揺らいできた。
1614年、実質的にマカオを管理する広東省の両広総督(広東省・広西省の総督)張鳴崗は、マカオから日本人を追放する命令を下した。またポルトガル人が日本人の居留を認めてきた行為そのものが、明朝当局にとっては、裏切りとして認識された。
この間題の処置のため、明朝官憲たちがマカオを訪れると、港湾地帯は黒人と日本人奴隷で溢れかえっていた。そこで、明朝官憲は日本人90人以上を追放した。さらに、新たにポルトガル人が、マカオに日本人を連れてくるなら、その者を明朝の法に従って断首の刑に処すと脅した。

明朝からの圧力に対し、ポルトガル人らは、マカオ租借当初からこの地に滞在してきた「古ポルトガル人」の商人らは、中国当局が定めた法律に常に従っており、広東沿岸を襲う海賊との戦いを通じて、秩序の遵守に貢献した、マカオに日本人を連れてきているのは、中国人とアフリカ人傭兵たちであると主張した。
さらに、マカオ市の代表は、ポルトガル人と日本人の関係の悪化を示すために、マカオ事件に連鎖して1610年に長崎港内で起きたマードレ・デ・デウス号(ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号)事件について説明した。
それは、1609年にカピタン・モールとしてマカオから長崎へ渡ったアンドレ・ペッソアが、その年の末、長崎奉行と有馬晴信の軍勢に襲われて、船員・船もろともに自爆した事件である。この事件は、1608年のマカオ事件に対する復讐行為であると認識されており、マカオと日本の通商はこれにより中断された。加えてポルトガル人たちは、マカオに日本人が居留するのは、中国人の海冠がその地へ連れてきたためであると主張した。
その後も、マカオには日本人のコミュニティが存続したが、1614年の日本人(おそらく傭兵)90人の追放により、いったん事態は収束したと思われる。

キリシタンの移住
ところが同年(1614年)、日本国内のキリシタン問題によりマカオに多くの日本人が到着した。
1614年1月21日、江戸幕府は日本からの伴天連(宣教師)の追放を命じ、それに主だったキリシタンたちも随行した。宣教師や知行地を失った多くの有力な日本人キリシタンを乗せた3隻の船のうち、1隻はマニラへ、残り2隻はマカオへ向かった。キリシタンと宣教師約100人が分乗したと言われるから、この時出国したのは約300人ほどと推測される。
マカオ港に到着した日本人の数は不明であるが、1614年12月21日、マニラには教会関係者33人と日本人100人が到着したとの記録があり、マカオに到着したのは200人前後であったと推測できる。

この時代、日本人の奴隷取引は、あらゆる方面で禁止されていた。にもかかわらず、「モッソ・デ・セルヴィッソ(期限の有無を問わない奉公人)」たちは、イエズス会の宣教師に随行してマカオへ渡った。ポルトガル側の文献によれば、長崎奉行所はこれらの日本人の奉公人が出国するのを阻止しようとして、神父から引き離したとあるが、中には奉行所の監視を逃れて、乗船した者もいた。
すでにその時期、日本人奴隷の取引はマカオの商人の収入源ではなくなっていた。イエズス会士たちは未だ日本人の奉公人を使用していたが、ヨーロッパやインドのイエズス会、スペイン・ポルトガルを同君統治下に置く国王フェリペ3世(在位、1598~1621。ポルトガル国王フェリペ2世)、日本の為政者たちはマカオの奴隷商人に圧力をかけ、日本人奴隷の取引をやめさせることに成功した。

マカオには難民受け入れの準備がなく、多くの日本人の到着は大きな混乱をもたらした。日本から戻った宣教師や日本人キリシタンが投宿したマカオの聖パウロ学院はたちまち人で溢れかえり、とても窮屈なものになった。
1616年当時、学院には日本人学生10人がおり、ヨーロッパからの聖職者に対して、日本語(入門レベルから上級レベルまで)の教習がおこなわれていた。このような日本語教育は、近い将来、宣教師が日本人に扮装して密入国し、潜伏布教活動をおこなうための準備であった。

1625年の住民台帳
1625年、マカオでは、マカオ出生の市民と他の地で出生しマカオに定着した市民のうちの男性を対象とした人口調査が実施され、外国人の数も調べられた。マカオ生まれの市民の大半は、ポルトガル人の父親と日本人、中国人、マレー人、朝鮮人、インド人などの母親の間に生まれた混血者たちで、ジュルバッサと呼ばれた。ジュルバッサの語源はマレー語で、本来は通訳を意味したが、マカオでは通訳はおおよそ混血者によって担われたため、この単語が別の意味で定着したと言える。

この調査では、マカオに多数いたはずの他のアジア人の人種・民族別構成は扱われず、子供や女性の実数も不明である。
1625年の時点で、マカオにはポルトガル系またはヨーロッパ系の男性が358人、混血の男性は411人、外国人は75人住んでいた。
居住地域別で見ると、マカオ市民をマカオ地区、サン・ロウレンソ地区、サント・アントニオ地区の3地区に区分することができる。最も人口が多いマカオ地区には329人(43%)の男性が登録され、続いてサン・ロウレンソ地区に298人(39%)の男性、サント・アントニオ地区に142人(18%)の男性がそれぞれ登録されていた。マカオ地区内では、混血が55%(182人)を占め、残りの45%(147人)は、ポルトガル人かその他のヨーロッパ人であった。サン・ロウレンツ地区でもほぼ同様に、42%(126)はヨーロッパ人、58%(172人)が混血であった。サント・アントニオ地区では混血は40%(57人)、ヨーロッパ人は60%(85人)であった。

この1625年の史料からは、当時マカオにあったヨーロッパ人の居留社会は、徐々にその中核を、混血の子孫らが占めるようになってきたことがわかる。有名な探検家や航海者ではない、アジア各地に拡散したポルトガル人たちは、これまで歴史の中ではほとんど語られてこなかった。

彼らが歴史上果たした重要な役割は二つある。一つは、ポルトガル人が持っていた造船や操船、火器製造の技術などを、全アジア地域に広めたことである。二つ目は現地に定住することで、現地社会と緊密なつながりを形成し、その子供たちもまた、ヨーロッパとアジアの地域社会をつなぐ商業ネットワークを発展させた、という点である。

明朝当局によって日本人のマカオ逗留は違法とされ、厳罰の対象であったことから、マカオの日本人コミュニティに関する情報は多くはない。しかし、マカオには多くの日本人がおり、社会の重要な構成要素であった。日本人の一部は、船員などの季節労働者であり、マカオと長崎の間を常に往来する者たちであった。



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