鎌倉 東慶寺
*ついでに庭のけしきを見んと、母を呼びて障子を左右にあけしむ。同じ庭ながら病室の前に当る処は鶏頭(*同じ)、葉鶏頭(*同じ)頭など今にぎやかに見ゆれど、こちらの方は見るべき花もなきに殊に日もかげりたれば寒さ身にしみて小淋しき様なり。萩は已に刈られ花もなき菊の一本二本ねぢくれたるが杖に扶(たす)けられて僅(わずか)に腰をあげあり。薔薇(ばら)、朝鮮薔薇は葉大方落ちて返り咲の一輪二輪かすかにほのめく。その後にある一間ばかりの丈の赤松の根元に二枚の板をもたせ置けるあり。こは前日の野分(のわき)に倒れたるを母などが引き起して仮初(かりそめ)の板を置きそれで支へるつもりなり。松に並びて垣根にある桜桃、梅、柿、柘榴(ざくろ)などの苗木、殺風景いはん方なし。
鉄網の大鳥籠はここよりは病室にて見ると反対の側を半ば見るなり。鉄網を隔てて鶏頭(*同じ)の赤や黄が二、三本見ゆ。鉄網と鶏頭(*同じ)、如何に俗なる事ぞ。されどこの内に面白き処もあるなり。
平和なる天気は静かに暮れて少しの風もなけれど感冒を恐れて障子をたてしむ。なほぼんやりと頬杖のままなり。頭脳ややのぼせたる気味なれば、硯箱の中に筆と共に入れられたる験温器を取り出して左の脇に挟(はさ)む。胴も腕も痩(や)せたれば脇の下うつろとなりて、験温器ゆるく、ややもすれば辷(すべ)り落ちたるを知らざる事あり。
母、夕飯を運び来る。験温器を検するに卅七度五分なり。膳の上を見わたすに、粥(かゆ)と汁と芋と鮭の酪乾少しと。温き飯の外は粥を喰ふが例なり。汁は「すまし」にて椎茸(しいたけ)と蕪菜(かぶらな)の上に卵を一つ落しあり。菜は好きなれどこの種の卵は好まず。今夕の飯御馳走(ごちそう)不足にて不平の気味なり。母は今来たる雑誌の封を破つて、傍にある『ホトトギス』募集句の山なせる上に置きながら、今度の『明星(みょうじょう)』は表紙の色が変つた、といふ。余は横目にてちよつと見る、茶色なり。汁をかへよ、といはれて、喰ふて見れば喰へぬほどにもあらねば、かへて喰ふ。芋は、といはれてこれも二皿喰ふ。子芋の煮たてはうまきものなり。粥二碗、汁二椀、芋二皿、鮭の乾肉尽(ことごと)く喰ひつくして膳の上復(また)一物なし。クレオソート三袋。自ら梨一個を剥(む)いで喰ふ。心(しん)を噛(か)み皮を吸ふ。
少し休みて日記の手入にかかる。妹、五分心の置ラムプを点じ来る。ややありて発熱の気味あり。筆を投じて仰(あお)ぎ臥(ふ)す。験温器を挟み見るに卅八度一分に上る。此の如きは余にありては高き熱にあらねどこの頃の衰弱はこれほどの熱にも苦(くるし)められて二、三時間は、うめきつ、もがきつするなり。さりながら卅九度以上の熱にても苦痛にはさほどの差違なし。畢竟(ひっきょう)苦痛は熱の高低に因るよりも体の強弱に因る事多きか。元気よき時は卅九度の熱ありながら筆を取りて原稿を書く事すらあり。
夕食後、子規は「発熱」してしまう。「元気よき時は三十九度の熱ありながら筆を取りて原稿を書く事すらあり」と「病気」になる前のことを口惜しそうに想い起こしている。熱は「三十八度一分」。「此頃の衰弱」状態では、このぐらいの熱でも「二三時間は、うめきつ、もがきつする」ことになる。「一日記事」はしばらく書けないだろうことを読者は理解する。
ふと思ひ出でて仰臥(ぎょうが)のまま『明星』を取りて見る。一枚一枚あけては表題を見、挿画を見る。ゲーテの死顔の画ある処に到りてしばし注目して見る。画(え)ときの短き文を読む。また一枚一枚あけ行くに蛇口仏心と題して余に関せる一文あり。読む。前号に余が受けたる嘲罵(ちょうば)は全く取り消されたり。此度の事は誤報臆測等より出でたる間違ひなれども全体余は世人より嘲罵を受くる値打ありと自ら思ふ。また一枚一枚あけて、あけ終る。
徒(いたずら)に静臥しあらんはかへつて苦しければ、談話して苦痛を紛(まぎ)らさんと、母を呼ぶ。この時妹は銭湯にでも行きたるらし。母は長火鉢の間の襖(ふすま)をあけて入り来り、ラムプの向ふに坐す。先づ、翌(あす)の晩の御馳走は何にしよう、と余はいふ。これは左千夫、碧梧桐、虚子、麓(ふもと)の四人を明日の夕刻来てくれと招き置きたる者にて、その用事は、頃日(けいじつ)余が企てたる興津(おきつ)へ転居の事今まで遷延(せんえん)して決せざりしを、諸氏と相談の上最後の決定をなさんとするなり。余は前議を取り消して今度は転居中止の議を提出せん心組なり。御馳走てて別に仕様もない、と母の返答。御馳走といふは例の通り何か一つ珍しい者がほしいだけの事なり、この前のやうなおりん饅(まん)はいけないが何か菓子でもあるまいか、茶人が多いからわざと西洋菓子にでもしようか、といへば、西洋菓子とは青木堂へ行くのか、それならば今夜行かん明日はとても行く隙(ひま)なし、と母いふ。今夜てて今から行けるものでない、それなら岡野に何か珍しい菓子はあるまいか、といへば、餅菓子の上等はどうか、といふ。餅菓子の上等、それは余りに平凡なり、と余は笑ふ。それはそれとして膳の上は肴一皿、初茸汁、したし物と定む。したし物にキヤベツはあるまいか、いつかのやうにゆでたやつを牛の油で煮ると非常にうまいが、といへば、母は、牛の油で煮たりしたのでは岡さんが得おたべまい、といふ。得くはぬ処が妙さ、と余いふ。この頃八百徳でキヤベツを見ないからないであらう、といふ話に、なければ何でも善い、といふ事にてこの相談をはる。先ほどより余は左向に寐て、母に背を向けながら話し居たるが相談すみて母は立ちて行く。
気をまざらわすために、雑誌を読み始めるが、すぐ終ってしまう。子規は「談話して苦痛を紛らさん」と母を呼び、翌日の夕食の「御馳走は何にしよう」という相談をする。メニューを一つひとつ決め、食後の「菓子」のことも話し合う。しかし、その「相談」も済んでしまう。
また独(ひとり)になりて、今日の日記の事思ひ出す。これ位波瀾なき平和なる日は一ヶ月に二日とはなきに丁度それが日記の日に当りたるは不運なり。しかし余はかつて人に見するにはあらで自分の一日の生活を極めて詳細に書きて見たしと思ひし事あり、その後、志を果さざりしが今この機を利用して今日の記事を書かんには平和なる日こそかへつて自分の境涯を現すに適すべけれ。これを雑誌に載せんは余りに人を馬鹿にしたる事なれどこれを以て消息に代へんには妨げなかるべきか。従来地方の親戚知人より容態を問はるる事しばしばなれど一々詳細の返事もせざるため種々の誤解を来し、あるいは実際の病状よりは重く見て特に虚子抔(など)に手紙を贈りて安否を問はるる事あり、あるいは実際よりは極めて軽く見て、安坐は勿論、多少の歩行位は出来る者として漫遊を促し来り、俳稿その他の添削(てんさく)を頼み来る事あり。これらの誤解を正さんには容体的記事もまた必要なるべきか、などさまざまに思ひ煩(わずら)ふ。溲瓶(しびん)を呼ぶ。
特別なことが何も起きない「平凡極る日」で、書くことがなく「不運」だと思っていたそれまでの発想を、子規は逆転させる。特別なことが一切起こらない「平和なる日」だからこそ、病床についてからの「平日」の「平常」、つまり毎日毎日繰り返される病床での「自分の一日の生活」、日常生活を「極めて詳細に書」くことが出来るのだ。「自分の一日の生活」を「詳細に書」く、「平和なる日」にしか書けない病床における「自分の境涯」、文字どおりに自分の「生」を写す「写生文」を書こうと、子規は思い立つ。
公の活字媒体としての「雑誌」の「記事」であると考えると「人を馬鹿にしたる事」になるが、私的音信としての手紙、すなわち「消息」の「代」りだと考えればいいではないか、と子規は言う。実際に「地方の親戚知人」から、よく自分の病気の「容態を問はるゝ事」があるが、「一々詳細」を報告してきたわけではない。そうすると、もう手紙も書けなくなったほどに病状が重くなったと「誤解」し、「虚子抔」に「安否を問はるゝ事」も多々ある。また逆に病状を「実際よりは極めて軽く見て」、俳句の「添削」を頼んで来たり、「漫遊を促し」てくる者さえいるのた。「誤解を正」すためには、「容体的記事も又必要なるべきか」と、子規は「さまざまに思ひ煩ふ」のである。
ここまで「一日の記事」について構想を立てながら、まだ執筆にとりかかっていないという設定なのだが、読者はまさに「一日の記事」、子規の「一日の生活」の「極めて詳細」な「容体的記事」の叙述をずっとここまで読んできたことに気づかされる。それだけではない。あらゆる出来事について文字で記すところの「記事」を書く行為は、記述されている全ての出来事が終った段階で実践されるはずだという、あたり前のことを突きつけられる。実に巧みな写生文の特質への自己言及である。
先刻来慢性的嘔吐(おうと)を催す事頻(しきり)なり。こは殆(ほとん)ど平常の事なれど今夜はやや多量なり。晩飯を喰ひ過ぎたりと見ゆ。
妄想は一転して倫理教育の上に至る。中学以上の生徒に分りきつたる忠孝のお話など何の役にも立たぬ事なり。殊に不道徳なる先生の鹿爪(しかつめ)らしき道徳談や、あるいは二、三十円の月給を頂戴(ちょうだい)してやうやうに中学校の教員となつて校長のお髯(ひげ)を払ふやうな先生が天下丸呑(まるのみ)の立志論を述べ立つる抔(など)片腹痛きにも限りあるものなり。今は知らねど余が中学や高等中学に通ふ頃の倫理の先生は必ず漢学者なりしもをかし。こは倫理学は西洋よりも支那が発達し居るといふ訳にや、または漢学者の道徳は西洋学者より高きといふ訳にや。このわけ校長に聞いて見たらば校長も返答に困るなるべし。学生の道徳を高くするは薫陶(くんとう)より外に良法なしと思ふ。されどもし倫理科の先生を置かざるべからずとせば校外に求めてもなるべく名望ある人を聘(へい)して講釈でも演説でもさすべし。生徒の軽蔑し居る先生がいくら口を酸(すっぱ)くして倫理を説くとも学校内のいたづら者が一人にても減るまじ。今の東京の高等学校にては哲学的の倫理学を説くとか、そは不道徳先生の道徳談に勝ること万々なれど、これまた倫理哲学を教ふるがためにいたづら者の一人にても減るまじきは前同断なり。
妄想また妄想、終に漢字制限論に移る。文部省が尋常小学四年間に教ふべき者として漢字千二、三百を択びたるは一日一字を覚ゆるほどの割合になりて字数の上にてはほぼ適度を得たるべし。されどその字の択び方は当を得たりや否や疑問に属す。余は字引を繰つて普通なる字を片端より抜き出だすなどの方法を取らんよりも、小児の談話を筆記し、その中よりその一人その一家またはその一地方に固有なる語を省き、極めて普通なる者のみを択び、これを標準として教科書を作らば、教へらるる者には記憶しやすくして忘れ難きの利あるべし。たとへば三歳の児童の用語、四歳の児童の用語、乃至(ないし)、五歳、六歳、七歳とその年齢に従ひて用語表を作らば教科書を作るの参考になるのみならず、児童心理の研究にも裨益(ひえき)する事論なし。はた詩人の眼より見ても興味少きにあらず。
ふと自分が仰(あお)のけに臥したる影の大きくなりて襖(ふすま)の上に写りたるを見るに、両膝を立てたる上に毛布を著せたれば、その影はのつぺりしたる山の如く、膝(ひざ)の処にてどんと絶壁をなして急に落ちたり。これをつくづく見る内に、近頃しばしば書く、文章の山の図を思ひ出す。しかも落語的尻きれ的の拙(つたなき)文章を図に現す時、山の形が、今の膝の影に似たるによりて自分の影をますます面白からず思ふ。
妄想と、寝返りと、口の内にて演説のまねと、今朝来の経過を繰り返して考へ見る事と、二つの扁額(へんがく)、(為山の水絵、不折の油絵)を見つむる事と、これらの中にやうやう苦痛の三、四時間を過ぎて、熱次第にさめかかる。
子規は、「襖の上に写りたる」「自分」の「仰のけに臥したる影」に気づく。「両膝を立てたる上に毛布を着せ」ているので、その影は「山の如く」見える。「膝の処」から「絶壁」のようになって、「急に落ち」ている。この自分の影を見て、子規は「写生文」の実践のために開催するようになった「山会」で、繰り返し強調している「文章の山の図を思ひ出す」。
「写生文」には必ず「山」がなければならない、というのが「山会」の命名の理由である。自分の「膝の影」は、「落語的尻きれ的の拙さ文章を図に現す時」と同じ「山の形」だ。子規は「自分の影を益面白からず思ふ」と記述しながら、「妄想と、寝返りと、口の内にて演説のまね」、そして「二つの扁額」を「見つむる事」という具合に、「今朝来の経過を繰り返して考へ見る」と書く。
余は勇気を鼓して右向に直り筆を取る。再び日記の手入にかかるほどに、熱全くさめて、頭脳明瞭に、筆の進むを覚えず。発熱後はいつも頭脳明瞭にして仕事の捗取(はかどり)非常に早ければ昨年頃までは徹夜して為したる仕事多かりしが、翌日苦しき故に今は徹夜する勇気なくなりたり。発熱後一、二時間の仕事にてもその夜は睡眠出来ずして翌日は一日頭悪く仕事も何も出来ぬが例なり。
四隣ひつそりとして音なく、日記の手入次へ次へと移る。母は忽然(こつぜん)襖をあけて、煎餅(せんべい)でもやらうか、といふ。これは平生夜仕事の時に何か食ふが例となり居ればかくいふなり。生憎(あいにく)今夜は嘔吐やや烈(はげ)しかりしために腹具合悪く、食慾なけれど、無下(むげ)にことわるも如何にて、煎餅より外に何もないか、といへば、今日貰ふたる日光羊羹(ようかん)ありといふ。食意地(くいいじ)のきたなさに、それ貰はうか、と答ふ。母は羊羹を持ち来りて小刀にて切る。二切を食ふ。母も食ふ。時計十二時を打つ。
また筆を取る。終に秀真の鋳物日記に到る。これが今度の募集日記の第一等なり。面白く趣味ある材料の充実したる上に、書き方子供らしく真率(しんそつ)にして技術家の無邪気なる処善くあらはれたり。書き直すに及ばず。二、三個処字を直して、それにて全く総ての日記の手入終る。嬉し嬉し。
母を呼んで、もう寐る、といふ。妹は湯の労(つか)れにて早く寐たりと覚ゆ。母は病室に敷きある蒲団の上に更に毛布を敷きなどす。余は再び病室の方に這(は)ひ戻りて蒲団に上るや否や頭を枕の上に安めて、口の中にて、極楽、といふ。日記の手入すみたるが馬鹿に嬉しきなり。母は余が枕元に背の低き角行燈(かくあんどん)をともし置き、坐敷の方の硯箱、原稿など片づけて寐に就く。
羊羹のためにや口の中苦し。一時を聴く。
附記
喀痰(かくたん)は一昼夜の分量、二個のコツプに六、七分目づつ位なり。朝殊(こと)に多し。血痕(けっこん)をまじへず。
睡眠の時は多く仰臥なり。仰臥も後には背の痛み堪へ難くなればその時は左向に寐ぬ。寐るには右向よりも左向を可とすれど、左向になりては頭を蒲団の上にすりつくるやうにして寐るのみにて、半ば体を起して仕事などする事出来ず。かつ左向は長く続かねば終には仰臥に返るなり。左の足は屈(かが)まりて伸びず。故に仰臥の時は左の膝は常に立て居るなり。沐浴(もくよく)せず。時々アルコールにて体を拭(ぬぐ)ふのみなれどそれも一ヶ月に一、二度位なるべし。但(ただし)足先の垢あかはアルコールにて取れねば一ヶ月に一度位脚湯(あしゆ)するなり。
斬髪は一ヶ月一度位、床屋を呼び来りて、自分は半ば身を起して居て刈らしむ。
食器抔(など)は余の分と家人の分と別々に取り扱ふなり。来客の分はいふを待たず。
郵便は一日平均三、四通はあるべし。されど『日本』への投書などは家人の取扱に任して余は手も触れねばこの日も何通来りしや知らず。
この日位の熱は平常なり。この頃は筆取らぬ日さへ多ければこの日の如きは多くの仕事をしたる日なり。けだし平日よりは余の気分の善かりしを証するに足る。
以上で、子規の平和な一日が終る。
『記事』に読み取れる介護を受ける側の介護者への気遣いについて
「溲瓶を呼ぶ」
規は「おい、溲瓶」とでも言うのだろうか。
そう言ったからといって「溲瓶」が自分でやって来るわけではない。持って来るのは母か妹である。排尿させるには、男性器をつまんで溲瓶の中に入れ、終ったら同じようにして外に出して、下着の中に入れなければならない。介護者は肉身とはいえ二人とも女性である。排便は「繃帯取換」と連動しているから、日課として律の仕事に組み込まれているが、母や律が忙しく家事労働をしていることがわかっていても、尿を漏らす前に呼ばなければ、かえって大事になる。
「溲瓶を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。
「溲瓶を呼ぶ」という五文字があらわれるのは、朝昼晩のわずか三回。あまりにも少なすぎる。
そこに読者が気づくと、にわかに昼食の記述の際の「漬物と茶は用ゐぬ例なり。自ら梨二個を剥いで喰ふ。終に心を噛み皮を吸ふ」という記述が「山」になっていることに注意が向く。喉がかわかないように塩分をひかえ、排尿が少なくなるよう水分をひかえているから、「梨」の「心」や「皮」まで、「吸ふ」ことになる。
こうした「山」をつなげていくと、『明治三十三年十月十五日記事』が介護を受ける側の人間と、介護をしてくれている人間との間の、心の動きの「山」並の「写生」になっていることが伝わってくる。
おわり
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