1901(明治34)年
9月25日
この日の子規『仰臥漫録』。
「高浜より小包にて曲物(まげもの)一個送り来る 小鰕(こえび)の佃煮なり 前日あみの佃煮この変になきこと虚子に話したる故なり
午後三人揃って菓子を食う」
「天津の肋骨より来たりしハガキ」
前日池内氏より贈られたるかん詰めの外皮の紙製の袋の側面」
「ひぐらしの声は疾くより聞かず つくつくばうしは此頃聞えずなりぬ 本膳の御馳走食うて見たし 夕方梟(ふくろう)御院殿の方に鳴く ガチヤガチヤ庭前にてやかましく鳴く 此虫秋の初めは上野の崖の下と思うあたりにてさわがしく鳴き其後次第次第に近より来ること毎年同じこと也」
9月25日
西アフリカのアシャンティ王国、英のゴールド・コースト植民地(現ガーナ)に併合。
9月25日
9月25日~26日 ロンドンの漱石
「九月二十五日(水)、文部省から学資来る。鏡・中根倫から手紙来る。鈴木禎次から手紙・『太陽』八月号(推定)・『読売新聞』とその娘・利喜子の写真届く。
九月二十六日(木)、鏡宛手紙に、「小供の性質は遺伝によるは勿論であるが大體六七歳迄が尤も肝要の時機だから決して瞬時も油断をしては如何ん可成スナホな正直な人間にする様に工夫なさい」と、筆の育て方に心配りをする。」(荒正人、前掲書)
9月26日 この日付けの夏目漱石の妻、鏡子宛て手紙。
「下女暇をとり嘸(さぞ)かし御多忙御気の毒に候。金が足りなくて御不自由是も御察し申す。然し因果とあきらめて辛防しなさい。人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない。」
9月26日
9月26日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「家人、屋外にあるを大声にて呼べど応へず ために癇癪起りやけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り腹はりて苦し 家人屋外にありて低声に話しをる其声は病牀(びやうしやう)に聞ゆるに病牀にて大声に呼ぶ其声が屋外に聞えぬ理(ことはり)なし それが聞えぬは不注意の故なりとて家人を叱る」
「しかし自分が生かされているのは、この妹の世話によるものなのだ。あとで反省して「午後家庭団欒会を開く 陸家から秋の彼岸に貰ったおはぎを三人で食べた。」(森まゆみ、前掲書)
9月27日
木下尚江(31)・幸徳秋水(29)ら、横浜雲井町の雲井座での普通選挙期成同盟横浜支部主催演説会に出席。
9月27日
9月27日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「「浄名院(上野の律院)に出入る人多く皆糸瓜を携えたりとの話、糸瓜は咳の薬に利くとかにてお咒(まじない)でもしてもらうならん 蓋(けだ)し八月十五日に限る也」(九月二十七日)
これは旧暦であり、浄名院は根岸から御隠殿坂を登れば近い。今も旧暦八月十五日に糸瓜供養が行われ、咳の出る人、喘息の人を集めている。言問通りが開通したのは大正になってからだから、寛永寺坂はまだないと思われる。こう見ても前年からの糸瓜へのこだわりは相当なものである。昔、体は糸瓜で洗い、湯上りに茎から採ったヘチマ水というのを体につけたのを思い出す。」(森まゆみ、前掲書)
9月28日
9月28日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「いざよいも出ず
門附(かどづけ)表を流して通る
さつま芋を焼いてもろうて食う
この夜蚊帳をつらず
二つ三つ蚊の来る蚊帳の別かな
蚊帳つらで画美人見ゆる夜寒かな」
9月29日
9月29日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「コンナニ呼吸ノ苦シイノガ寒気ノタメトスレバ此冬ヲ越スコトハ甚ダ覚束ナイ ソレハ致シ方モナイコトダカラ運命ハ運命トシテ置イテ医者ガ期限ヲ明言シテクレゝバ善イ モウ三ケ月ノ運命ダトカ半年ハムツカシイダラウトカ言フテモラヒタイ者ヂヤ ソレガキマルト病人ハ我儘ヤ贅沢ガ言ハレテ大ニ楽ニナルデアラウト思フ 死ヌル迄ニモウ一度本膳デ御馳走ガ食フテ見タイナド、云フテ見夕トコロデ今デハ誰モ取リアハナイカラ困ツテシマフ」
つづく
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