《寒川鼠骨のこと》
『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)「15 呉竹の奥に 介抱は鼠骨一番上手なり」よりメモ
子規が明治三十五年、三十六歳で世を去ってから一世紀を経たが、根岸の子規庵は今もほぼ昔の姿をとどめている。百年という長い年月の間には、大震災があり、戦災があり、都市化の波に足をすくわれそうな時期もあった。しかし、それらにもめげずに子規庵を守り抜いたのは門弟たちで、中でも寒川鼠骨の力は大きかった。
子規が移り住んだ根岸は、江戸時代から文人墨客の住む閑静な土地で、呉竹の多いところから「呉竹の里」と呼ばれ、子規も自ら「竹の里人」と称したほどである。子規の時代には、饗庭豊村、幸田露伴らが住み、文壇からは「根岸派」といわれていた。画壇では、中村不折と親しい浅井忠が根岸の住人で子規は浅井を通じて不折を知り、彼から学んだ「写生」の方法を俳句にもとり入れた。
根岸はまた、吉原の遊里に近く、遊女の保有する寮や妾宅などの多い土地柄であった。
(略)
ところで、子規が本郷区駒込追分町から、下谷区上根岸八十八番地、陸羯南の西隣に引っ越してきたのは、明治二十五年二月末であったが、そこにいたのは二年足らずで、明治二十七年二月一日、今度は羯南の南隣の上根岸八十二番地に移転した。これが、子規の終の棲家であり、いわゆる子規庵である。子規はここで八年六か月はど住み、明治三十五年九月十九日に没した。
子規が羯南の新聞社への入社が決まり、松山から母八重、妹律を八十八番地の家に呼び寄せたのは明治二十五年十一月であったから、子規は十年足らず、親子三人水いらずで暮らしたことになる。
ちなみに、子規の家は敷地五十五坪、建坪二十四坪、部屋数は玄関を入れて五部屋である。庭の糸瓜棚に画した六帖が子規の病室、次の間が四帖半、句会などに使った座敷は縁側、床の閲つきで八帖、居間が三帖、玄関は二帖。流しのある台所は、板の間と土間を合わせて三帖ほどである。当時は、左隣の家といわゆる軒割二戸建ての借家であった。家賃は六円五十銭で、子規の月収は日本新聞社から四十円、ホトトギス社より十円、計五十円だった。
(略)
・・・・・鼠骨も、松山の人で、子規より八歳下の明治八年生まれである。父は家老待遇の旧松山藩士。鼠骨の生まれた頃は、松山の私立中学の学監をつとめていた。鼠骨も碧梧桐や虚子と同じ愛媛県伊予尋常中学校に入学するが、二人は鼠骨より学年が一級上であった。
虚子や碧梧桐が、子規にならって学業を途中で放棄したように、鼠骨も同じ轍を踏む。当時の青年は現在のような学歴偏重とはちがって、実力があれば学歴など不要だという気概があった。とりわけ、新聞記者や文士を志す青年にはこの傾向が強かったのである。
鼠骨も虚子、碧梧桐と同じ京都の三高へ入学したのはよがったが、三人が同じ下宿で暮らしたので、学業そっちのけで俳句三昧の毎日であった。そのうち、学制改革で虚子と碧梧桐は仙台の二高へ転学させられ、じき退学してしまった。鼠骨も二高への転学を命じられたが、仙台には行かず京都に留まって俳句結社を作ったりしていたが、やがて学業をあきらめ明治二十八年二十一歳の時、京都日の出新聞の記者になった。
その年の七月、碧梧桐に誘われ、従軍からの帰途船中で喀血して神戸病院に入院中の子規を見舞い、その頃から子規に私淑し、生涯の師と仰ぐようになった。
鼠骨は昭利二十九年八月、八十歳で没したが、没後二年目に 『正岡子規の世界』が遺稿集のような形で、青蛙房から出版された。その中に、昭和初期に執筆した「子規居士追憶」が収められていて、子規との関係が詳しく語られている。
その中にこういうエピソードがある。
鼠骨が大阪朝日新聞に転じていた明治三十一年十月のことだ。鼠骨は子規とも親しい天田愚庵を清水の産寧坂の庵に訪ねた。愚庵という人は、数奇な人生を辿った人で、維新の動乱で行方がわからなくなった父母を探して諸国をさまよい、後に山岡鉄舟について禅門にはいった。また、鉄舟の世話で清水次郎長の養子になったこともある。一時、新聞記者になったが、鼠骨が訪ねたのは得度して清水の坂の庵に隠棲している時であった。万葉調の和歌をよくし、その関係から子規とも親交を結んでいた。
さて、鼠骨が訪ねてみると、愚庵は庭のたわわに実った柿の木を指し、
「昨年、この柿を友人に託して柿好きの子規にことづけたら、たいへん喜んでくれ、歌まで詠んで礼状が来た。今年も送って喜ばせたいと思うが、わしには小包代もないのじゃ」
といかにも残念そうにいう。鼠骨はその場で愚庵に小包代を差し出そうと思ったが、柿の実を小包にするのも面倒だし、潰れる心配もある。いっそ枝についたまま、東京まで持って行くのがいいと思いつき、
「私が持って行きましょう」
というと、愚庵は大きな口を開けて呵々大笑し、
「そいつは面白い。いくらでも枝を折って持って行ってやれ」
といった。鼠骨はさっそく靴をぬいで柿の木に登り、手頃な枝を数本折って、それを提げてそのまま人力車で七条停車場へかけつけた。新聞社へは、ちょっと東京へ行って来るという葉書を駅で投函しておいて、東京行きの汽車に乗った。勤務中だったのか、休日だったのかわからないが、東京までは汽車で十数時間かかり、汽車賃も相当なものである。しかし、鼠骨はそんな事はすこしも意に介さず、車窓からさやかな後の月を眺めながら、子規に柿を食べさせたい一心で上京した。
翌日、新橋停車場に着き碧梧桐の宿舎を訪ねて、柿を提げてきた経緯を話すと、さすがの碧梧桐もその突飛さに驚いた。ともかく二人で子規庵を訪れると、子規は柿を枝ながら祈って来てくれたことをたいへん喜んだ。折しも、その晩、子規庵で句会があるというので、二人とも出席した。句会では 「月」という題が出たので、鼠骨は夜汽車で眺めた後の月を九句ほど詠んで提出した。
子規はその中の 「汽車で行く東海道の月夜哉」を選に入れた。鼠骨自身、われながら幼稚な句が入選したので、小さくなっていたら案の定、ほかの人たちから、余りにも月並みすぎると子規に反論した。鼠骨はますます身の置きどころがなくなったが、これは子規が佳句として選んだのではなく、柿の使者ご苦労さまという恩賞たったのだと気付くと、急に気が楽になった。
鼠骨のこの突飛な上京は、いかにも旧制高校生的な一途な振舞いで、稚気愛すべきところがあるが、新聞社としては、葉書一本で勝手に何日も欠勤されては困るのである。当然のように、社内で鼠骨への非難が高まった。このことが、たまたま京都滞在中の羯南の耳にはいり、大阪朝日に居辛いようなら上京してはどうかと、鼠骨に声をかけてくれた。それで、鼠骨は思い切って朝日に辞表を出し、羯南に仕事を見つけてもらうことにして上京、子規のはからいもあり、運よく日本新聞社に入社することができた。
鼠骨が記者になった明治三十二年は、足尾銅山の鉱毒問題の起こった年で、鼠骨は田中正造の言動に関心を寄せていた。翌年、入社二年目、二十六歳の鼠骨は新聞「日本」の著名人となった。著名人というのは、現在の発行人のことで、記事に関して全責任を負うという重要なポストである。
きっそく三月には、同僚の執筆した社説が政府の忌諱にふれ、著名人になったばかりの鼠骨は、責任を負って巣鴨監獄の未決藍に入れられた。監獄に這入っていたのは、三月二十七日から十八日間という短い期間だったが、鼠骨にとっては、掛け替えのない異常な体験だった。
出獄した翌日子規庵を訪ねると、子規は、
い た は し き 花 見 ぬ 人 の 痩 せ や う や
と詠んで出獄を祝ってくれた。
翌月、鼠骨は巣鴨監獄の体験記を「日本」に載せ、秋にはそれを書き直し、羯南と子規の序文を付けて『入獄実記 新囚人』としてホトトギス社から出版した。当時としては、珍しい体験記だったので世間でも評判となり、新聞記者としての鼠骨の名が知られるようになった。
明治三十四年正月、鼠骨は子規の喜びそうなお年玉を取り揃えて年始に行った。一月二十八日の『墨汁一滴』で子規はそのことにふれている。
人に物を贈るとて実用的な物を贈るは賄賂に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒(だいこく)のはがきさし、夷(ゑびす)の絵はがき、千人児童の図、八幡太郎一代記の絵草紙など。いとめずらし。此(これ)を取り彼をひろげて暫(しばら)くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自らこの取り合せの中にあらはれて興尽くる事を知らず。
年 玉 を 並 べ て 置 く や 枕 も と
その年の十月、鼠骨は足尾銅山の鉱毒被害調査に、「日本」新聞記者として同行取材に出かけた。その間の十月十日の『仰臥漫録』に、子規はまた鼠骨のことを書く。
余の内に来る人にて病気の介抱は鼠骨一番上手なり 鼠骨と話し居れば不快のときも遂にうかされて一つ笑ふやうになること常なり 彼は話上手にて談緒(だんしょ)多き上に調子の上に一種の滑稽あればつまらぬことも面白く聞かさるること多し 彼の観察は細微にしてかつ記憶力に富めり その上に彼は人の話を受けつぐことも上手なり 頃日来(けいじつらい)逆上のため新聞雑誌も見られずややもすれば精神錯乱せんとする際この鼠骨欠げるは残念なり 鼠骨は今鉱誘事件のため出張中なり
その頃、鼠骨も子規庵と鉄道線路を挟んだ谷中の涼泉院に住んでいた。子規の病状が悪化して交替で看護当番に当たる必要から、鼠骨だけでなく、碧梧桐は子規庵とは目と昇の先の上根岸七十四番地に、虚子も日暮里村元金杉に居を移していた。どの門弟も、子規庵へは十分以内で駆けつけられる距離であった。
明治三十五年正月、鼠骨は子規に正月の餅をもらった。そのかわり、鼠骨はいかにも貧乏書生のように詠まれている。
隣 住 む 貧 士 に 餅 を 分 か ち け り
子規没後十年近くたった明治四十四年頃、門弟たちの間で子規庵保存の話が持ちあがった。子規庵のあたりも、古い家が取り壊されて新しい家が建つようになってきたのである。そうなる前に、子規庵を所有者の加賀前田候から買い取りたいと思ったが、前田候は先祖伝来の由緒ある土地だからといって、売却には応じなかった。
大正十二年の関東大震災では、子規庵は幸い倒壊と焼失は免れ、応急修理で旧状に復すことができた。それに、前田候の方でも震災後、上根岸一帯の地所を手放すことになり、子規庵も門弟の寄付や『子規全集』の印税で、やっと買い取ることができた。このことは、子規庵の、水久保存を考えていた鼠骨たちにとって幸運なことであった。
しかし、昭和二十年四月の空襲では、子規没後四十三年間、鼠骨たちが大切に守ってきた子規庵も、一瞬のうちに烏有に帰してしまった。書籍、遺墨をはじめ重要な遺品は、昭和二年に建てた土蔵造りの収蔵庫に収めてあって難を免れたが、子規遺愛の机、硯、長火鉢などはすべて灰になった。
子規庵が、戦後復元されたのは昭和二十五年五月である。以前から詳細な建物の図面も作ってあり、襖は万一の時に備えて倉庫にあずけてあったので、戦後の建築資材の不自由な時代であったが、ほほ子規存命中の姿で復元することができた。
こうした子規庵の保存、復元にもっとも力を入れたのが、当時、保存会の会長もつとめていた鼠骨であった。子規没後しばらくは、虚子、碧梧桐、不折、律、鼠骨などが中心になって動いていたが、それぞれ自分の仕事が忙しくなったり、病没したりで、自然に鼠骨の手に委ねられるようになっていた。
鼠骨が力を入れたのは建物の保存だけではない。子規のなしとげた文学的偉業を、後世に伝えるのも彼の大きな仕事であった。ジャーナリストとして忙しい生活のかたわら、鼠骨はアルス版、改造社版と二つの『子規全集』の編集の中心となり、また、昭和二年岩波文庫が創刊されると、いち早く『病牀六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』を文庫に入れ、解説も書いた。そのほか、子規の大著『分類俳句全集』十二巻も鼠骨の手で世に送り出し、一方では子規の根岸短歌会を守って、自らも歌謡を主宰していた。
子規のことに奔走して、戦災で焼失した自宅を再建するいとまもなかった鼠骨は、昭利二十五年夏、子規庵が再建されると、そこに住んで自ら子規庵を守ることにした。十年ほど前に妻を亡くしていた鼠骨は、七十六歳の孤独な老人になっていたが、子規庵での歌会を再開し、主宰していた歌誌も復刊させた。しかし、その翌年ごろから、持病の神経病がひどくなり寝つくことが多くなってきた。
そして、昭利二十九年。あと一か月もすれば五十三回目の子規忌がやってくるという頃から、鼠骨の衰弱はひどくなった。それでも、鼠骨は子規忌だけを心の支えとして病苦とたたかっていたが、肺炎を併発し自ら死期の迫っていることを悟った。もう、とても子規忌まで命がもちそうにない。
八月十二日、鼠骨は絶筆となる一句を遺した。
糸 瓜 忌 の 近 み か に か く 悩 む か な 鼠 骨
それから六日後、八月十八日、鼠骨は子規の病室だった子規庵六帖の間で、静かに八十年の生涯を閉じた。
この項おわり
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