2025年1月4日土曜日

大杉栄とその時代年表(365) 1901(明治34)年10月3日~10日 「衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激昂夜ニ入リテ俄ニ烈シク乱叫乱罵スル程ニ頭イヨイヨ苦シク狂セントシテ狂スル能ハズ独リモガキテ益苦ム 遂ニ陸翁ニ来テモラヒシニ精神ヤヤ静マル」 / 「朝雨戸ヲアケシムルヨリ又激昂ス 叫ビモガキ泣キイヨイヨ異状ヲ呈ス」(子規『仰臥漫録』)    

 

黒田清輝 裸体婦人像 

大杉栄とその時代年表(364) 1901(明治34)年9月30日~10月2日 子規に宛てて中村不折からパリ到着を知らせる葉書が届く 「浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は遠い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。」(関川夏央)

1901(明治34)年

10月3日

中江兆民のもっとも愛していた門下生の小山久之助が死去。

10月3日

社説「司法官の鉱毒臨検」(池辺三山)(「東京朝日」)、足利銅山鉱毒事件を取上げる。

「幾代の内閣大概之を冷淡に附し去りて、輿論又敢て其怠慢を咎めざるに似たるは何ぞや」「是れ豈最も奇怪にして常識の以て判断し易からずの問題にあらずや」と、常識を無視した鉱害対策を痛撃。

「斯る問題の解決せられずして、何時迄も継続するは、決して国家の光栄にあらざるなり。又人民の利益にあらざるなり。斯る問題の多年囂々として解釈せらるゝ能はざるは、輿論の制裁薄弱なるを証し、社会の神経鋭敏ならざるを証し、政府の威信厚からざるを証す。吾人は鉱毒の有無如何をば、速に科学的方法によりて之を解釈し、併せて政治的に之を解決せんことを望む」

10月4日

北京外国公使館区域画定。

10月5日

ロシアの駐清公使、清国に満州還付条件に関して新提議。

10月5日

10月5日 この日付け子規「仰臥漫録」。


「衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激昂夜ニ入リテ俄ニ烈シク乱叫乱罵スル程ニ頭イヨイヨ苦シク狂セントシテ狂スル能ハズ独リモガキテ益苦ム 遂ニ陸翁ニ来テモラヒシニ精神ヤヤ静マル

10月6日

慈禧、西安より帰京

10月6日

10月6日 この日付け子規「仰臥漫録」。


「朝雨戸ヲアケシムルヨリ又激昂ス 叫ビモガキ泣キイヨイヨ異状ヲ呈ス」


「十一時頃虚子四方太碧梧桐来る これはホトトギスの茶話会を開くつもりにてはがき出し置きしものなるが(鳴雪翁よりはことわり来る) この始末にて目的ややはずれたり 虚子のみやげ淡路町風月堂の西洋菓子各種、四方太はバナナとレモン、碧梧桐は焼鮒とそら豆なり 今日は御馳走会ではなかりしにいずれもより持参あり 意外のことなり 我が内のはまぐろさしみ、鯵の膾(なます)、鯛の吸物なり 内の御馳走も以外のことなり」」

10月7日

三井の重鎮、中上川彦次郎(48)、没。

10月7日

10月7日 この日付け子規「仰臥漫録」。


「前日来痛カリシ腸骨下ノ痛ミイヨイヨ烈シク堪ラレズ此日繃帯トリカへノトキ号泣多時、イフ腐敗シタル部分ノ皮ガガーゼニ付著シタルナリト 背ノ下ノ穴モ痛ミアリ 体ヲドチラへ向ケテモ痛クテタマラズ」

10月7日

10月7日 漱石、クレイグの個人教授を断る。


「クレイグはたしかに学殖豊かな一流の学者である。だが彼は、日本人がどのように英文学に向き合うべきかを教えてくれなかった。漱石の悩みは、細かな字句の使用法よりも、日本人の自分が異国の文学とどう対するべきかにあった。この年の十月、彼は金銭的事情もあったが、正面からこの難問に対するべく、クレイグの教えを断わることに決めた。直接これまでの謝意を伝えようと屋根裏部屋を訪ねたが、クレイグは留守だった。彼は自分の事情と謝意とを手紙に書いて送った。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「十月七日(月)、 Dr. Craig に手紙を出す。(指導を辞退したいと伝えたものかと想像される)」


「八月二十七日(火)に個人教授を受けたのが最後であったと想像される。」(荒正人、前掲書)


10月8日

林董駐英公使に、日英同盟商議の権限を正式に附典。

10月8日

10月8日 ロンドンの漱石


「十月八日(火)、 ""Cassell's Illustrated"" と ""Hundred Pictures"" 届く。」(荒正人、前掲書)


10月9日


「十月九日、往診の医師から、自分では見られぬ背中と尻の状態を聞いた。やはりあらたな排膿口が大きくひらいていた。医者は驚きを隠さず、子規もまた驚いた。」(関川夏央、前掲書)

10月10日

黒田清輝、白馬会第6回展に「裸体婦人」出品。当局は風俗を乱すものとして、下半身を布で覆わせる(腰巻事件

10月10日

10月10日 この日付け子規「仰臥漫録」。


余の内に来る人にて病気の介抱は鼠骨一番上手なり 鼠骨と話し居れば不快のときも遂にうかされて一つ笑ふやうになること常なり 彼は話上手にて談緒(だんしょ)多き上に調子の上に一種の滑稽あればつまらぬことも面白く聞かさるること多し 彼の観察は細微にしてかつ記憶力に富めり その上に彼は人の話を受けつぐことも上手なり 頃日来(けいじつらい)逆上のため新聞雑誌も見られずややもすれば精神錯乱せんとする際この鼠骨欠げるは残念なり 鼠骨は今鉱誘事件のため出張中なり」


「これは、足尾銅山の鉱毒事件のことをさしている。多くの農民が倒れ、日本最初の公害事件とされているが、鼠骨さんは農民救済に立ち上がった地元の代議士田中正造の活動を日本新聞に書き、熱烈に応援していたのだ。彼はついに日本新聞の社説で、時の山縣内閣への官吏侮辱罪に問われ、十五日間、収監されてしまう。しかし、鼠骨さんはへこたれず、『新囚人』という監獄体験記で応じているのである。

つまり、彼はユーモア一点張りの人間ではなく、熱血の人でもある証明となっている。」((早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」))


つづく


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