2025年1月1日水曜日

大杉栄とその時代年表(362) 《子規の妹、正岡律のこと③》 『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著) 「17 雀の子忠三郎  「根岸庵律女」」よりメモ

 

劇団民藝2015年12月東京公演『根岸庵律女』


《子規の妹、正岡律のこと③》

『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)

「17 雀の子忠三郎  「根岸庵律女」」より


子規の妹律が文学作品に登場するのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』であるが、どちらも脇役としてであり、ヒロインではない。後者では、子規亡きあと子規庵を守る律の姿が生き生きと描かれているが、それでも主人公は律の養子である正岡忠三郎であり、その友人ぬやま・ひろしこと西沢隆二である。

(中略)

ところが、この律をヒロインとする戯曲が現れたのである。それは小幡欣治の「根岸庵律女」で、平成十年一月号の「悲劇喜劇」(早川書房)に掲載され、六月に劇団民芸によって東京芸術劇場中ホールで上演された。・・・・・

小幡欣治は昭和三年東京生まれの劇作家で、するどい風刺と社会性をシアトリカルに描く作風で知られている。馬琴の息子の嫁のお路をヒロインにした『滝沢家の女たち』や、南方熊楠を主人公にした『熊楠の家』など、実在の人物を描いた作品でも定評のある当代一流の劇作家である。

小幡が律のことを知ったのは十六、七年前、『滝沢家の女たち』を上演した時であった。この芝居は、晩年失明状態に陥った馬琴の『南総里見八犬伝』を、読み書きも満足にできない息子の嫁のお路が代筆者となって、苦心の末に完成させるという話だが、そのお路が正岡子規の妹に似ているといわれて、律のことに関心を持つようになったという。小幡はお路と同じように、日の当たらない所にいて、大きな仕事を陰から支えた律の強さに共感を覚えて:この芝居を書いたのである。


さて、「根岸庵律女」は二幕入場の芝居で、第一幕は明治二十八年から明治三十四年までの子規庵が舞台。衣川登代(架空の人物、子規の女弟子)やドラマに色どりを添えるため律の前夫が登場する以外は、ほぼ史実通りに子規の死の前年までを描く。

律の前夫というのは、律の二度日の夫で松山中学校の地理の教師、中堀貞五郎のことである。律といえば、兄の看病のために嫁にも行かず半生を捧げたように思われがちだが、前にも述べたように律は二度結婚して、二度とも離婚している。最初の結婚は律が十六歳の時で、相手は従兄の陸軍将校であったが、性格が合わず、じき離縁された。二度目の相手が中堀で、律が二十歳の時に結婚したが、これも一年足らずで破談になった。

(略)

その律のもとへ、春休みの講習会で松山から上京した中堀が訪ねて来て、律に復縁をせまるという設定である。離婚して六年もたつのに、中堀は独身であった。中堀は子規から「律を四国へ連れて帰っておくれ」という手紙をもらって、律に会いに来たという。律はふと松山に戻って中堀と暮らせるなら幸せになれるかも知れないと思ったが、現実はそんな状況ではない。律は兄のやさしい心くばりに、ただ嬉し涙を流すばかりであった。

第二幕は、明治四十五年、雅夫(忠三郎のこと)が律の養子になって正岡家に入籍した時から、大正十年、雅夫が京大進学の希望を律に打ち明けるまでを描く。そして、幕切れで俳句をめぐって、律が突然、雅夫に養子縁組解消を申し出るという意外な展開を見せる。


ところで、律の養子となった忠三郎は、前にも述べたように八重の弟、加藤拓川の三男で、律とは従弟の間柄であった。


拓川は明治三十五年五月三日、産み月の妻ひさを日本に残して特命全権公使としてベルギーに赴任した。子規は叔父へのはなむけに


春 惜 む 宿 や 日 本 の 豆 腐 汁


という句を贈った。それから半月ほどして五月十八日に、忠三郎が生まれた。子規が没する四か月前であった。

子規は七月二十七日付でベルギー公使館の拓川のもとへ手紙を書いた。そして:これが子規が揃川に送る最後の手紙となった。子規は拓川が無事赴任地へ諾いたことを喜び、近況を報告したあとで、「副伸」として忠三郎誕生のお祝いをのべている。


令児ご出生は五月十八日なりし故誰も皆今度は五十八(いそはち)と命名スべキ由いはれ候由、されど余り太鼓持めきてをかしき故御旧名を取りて忠三郎と御名づけありし由


雀 の 子 忠 三 郎 も 二 代 哉

戯作ニ御坐候


拓川は忠三郎の兄二人にも、十月九日に生まれた長男は十九郎、六月十日生まれの次男は六十郎と名付けた。それで今度も五月十八日で五十八を名づけるかと思ったと、叔父をひやかしているわけである。

ところで拓川は号で、戸籍上は恒忠、幼名が忠三郎であった。物事に執着しない拓川は、出国前に男子が誕生したら自分の幼名をつけておけと、妻に言っておいたのかも知れない。

忠三郎の父方の祖父は松山藩の藩儒大原観山で、子規も父が早く亡くなったので観山の薫陶を受けて育った。観山の一族には英才の誉れの高い人が多く、忠三郎の父拓川も秀才であった。拓川は現在の東大法学部の前身、司法省法学校に学び、同級生に原敬、陸鵜南、福本日南などがいた。

拓川は晩婚で、駐仏公使館から本省に戻り、外務省大臣官房秘書課長を勤めていた三十九歳の時、山形県士族、樫村清徳医博の長女ひさと結婚した。ひさは十八歳年下の二十一歳であった。忠三郎には兄が二人いた。どちらも秀才で、二人とも暁星中学校から第一高等学校に進むが、不幸にも共に学業半ばで天折している。

末弟の忠三郎もよくでき、府立一中から仙台の第二高等学校に進んだ。中学生になった時から、忠三郎は根岸の子規庵で生活していたが、外交官で海外での生活の多かった実家の加藤家と正岡家では、生活の様式が違うのは無理もなかった。弘化二年生まれで八十歳近い八重と、明治三年生まれで五十歳に近い律に囲まれて、忠三郎が毎日窮屈な思いをしていたことは想像にかたくない。しかし、学校へ行くと忠三郎には立派な友人がいた。府立一中では小林秀雄と同級であり、二高では富永太郎や西沢隆二が友人であった。後に富永を通じて中原中也とも知り合い、親しくなった。

このように、文学的に才能豊かな友人に恵まれていながら、なぜ忠三郎は文学の道を選び、子規の俳句を継承しなかったのだろうか。これが「根岸庵律女」のひとつのテーマになっていて、第二幕第一場では律に次のように語らせている。ところは、養子縁組の報告に子規の墓詣りに行った大電寺の境内である。


律 そのときになったら、おばちゃんはあらためてお願いするけれど、じつはさっきお参りしたのは、これから雅夫ちゃんの伯父さんになる人で、正岡子規という偉い人なの。俳句の神様みたいな人なの。俳句って分るわね。

雅夫 柿くえば、鐘が鳴るなり法隆寺。

律 そうそう、その俳句を作った人なの。いずれ一緒に住むようになったら、雑夫ちゃんにはなんでも好きなことをやってもらおうと思っているけど……ただね、おばちゃんは一つだけお願いがあるの。それはね、なるべくなら、俳句は作らないでもらいたいなァって……そういうことなの。


小幡はこの場面を、めったに文章を書くことのなかった忠三郎が、愛媛新聞社主催の 「子規と漱石展」のパンフレットに書いた次の文章を読んで着想を得たのではないがと思う。今西久穂氏の『子規のことなど』から引用させてもらう。


私は子規といとこ関係にあり、中学一年のとき、「歌も俳句も作らない」約束で正岡家を継ぎました。私はもともと理科系の人間で、文学への興味はさして強い方ではありませんでしたが、年を追い、子規の著作にふれるにつけ、子規の偉大さと、正岡家を継いだ重みをひしひしと感じざるを得ません。特に、「歌よみに与ふる書」など評論部門に子規の才能がいかんなく発揮されており、長生きしておれば政治家を目ざしたことだろうと思います。

第二幕第四場では律が俳句がもとで、雅夫に義子縁組の解消を申し出るという衝撃的な場面を設定して、ドラマを盛り上げている。

話の筋はこうだ。第二幕第三場、大正十年夏。雅夫が律に俳句を禁じられていると聞いた登代が、子規庵にやって来て律を強くなじる。つい先ほど、碧梧桐から東北のある雑誌に載った評判の俳句が、どうやら雅夫がひそかに投稿したものだと聞かされたばかりの律は、登代の批判に思わずカッとなり、二人は激論の火花を散らす。

第四場は前場に続くその夜、久しぶりに帰宅した雅夫を前にして律は、昼間の興奮も冷めやらぬまま語り出す。

律 (雅夫に)……私は何時かこういう日がくるんじゃないかしらと思って、心のどこかで恐れていたわ。あの人にね、雅夫ちゃんは、正岡家の跡を継ぐための道具ですかって言われたの。いきなりそう言われたの。そのとき私は心底腹が立って、怒鳴り返してやったわ。でも、今になって考えてみると、私があんなに怒ったのは、一番触れて欲しくないところに、あの人が触れたからだと思ったの。自分では意識していなくても、心の底の方には、雅夫ちゃんを何時しか道具だと見ている気持が、私の中にあったんじゃないかと思っているの。跡を継いだ人間は、正岡子規だけ守ればいい、俳句なんか作ってもらっては困る。それが私の本心だったの。雅夫ちゃんがこの家へ来ても、だんだん座る場所がなくなってしまったのは、みんな私のせいよ。悪かったと思っているわ。

雅夫 ……。

律 でも、そうは思っても、今まで通してきた考えを急に改めることは出来ないの。俳句を作って下さいとはどうしても言えないの。ねえ雅夫ちゃん、勝手を言って本当に申し訳ないけれど、もし雅夫ちゃんが承知してくれるなら、私はこの際、養子縁組を白紙に戻したらとーー

八重 リーさん!

律 いいじゃない、正岡の家は絶えてしまっても!

(雅夫に)お願いしてうちに来てもらったのに、今度は元へ戻して下さいなんて…‥本当に済まないと思っているわ。でも、正岡の家を離れれば、私なんかに気兼ねすることもなくなるし、子規伯父さんを意識しないで、好きな俳句だってどんどん作れるようになるわ。大学へ行っても、自由にのびのびと暮らして行けるようになるわ。たとえ緑は切れても、気が向いたら、何時でも遊びにきてくれても結構なんだから……そしてね、学費の方は、失礼だけど、出させて頂きますから……本当に済みませんでした。(雅夫の前に手を突き、心から頭を下げる)

八重 (泣いている)

雅夫は律の申し出には答えず、向島の俳人、富田木歩の家へ行ってきた話をする。

雅夫 ……この間仙台から帰ってきたときに思いきって、向島の家まで木歩さんに会いに行きました。……足が悪いんです。両足が駄目なんです。胸も悪いんです。僕が行ったときには、木歩さんの机の上に、一番愛読しているという伯父さんの子規遺稿が置いてありました。その傍らでお母さんが針仕事をしていました。まもなく妹さんが帰ってきました。妹さんは向島の須崎という所から芸者に出ていて、木歩さんの面倒をみているんだそうです。ぼくはお三人の姿を見ているうちに、ぼくはなにも知らなかったけれど、二十数年も前に、お婆ちゃんやお義母さんが、この上根岸の家で同じような暮らし方をしていたんだろうなと思ったんです。大変だったろうなと思ったんです。お二人の御苦労が、そのときやっと分かったんです。帰りぎわに木歩さんは、境遇は子規先生と似ているけれど、句境の高さは比べようがない。一生掛っても駄目だよと笑っていました。それを聞いているうちにぼくは、俳句はやめようと思ったんです。いえ、手帳に書きとめるぐらいのことはするかも知れませんが、生半可な気特で到底専門の俳人になんかなれるものじゃない。それよりもぼくは、この家を継いで、正岡子規を守ろうと、そう思ったんです

律 (泣いている)

八重 世の中には似たようなお方がおいでるのじゃのう。お気の毒にのう。

律 雅夫ちゃん、あんた本当にいいのね。もし私に気を遣ってそんなことを言うのだったら

雅夫 気なんか遣ってないよ。もう自分で決めたんだから。

律 本当ね。

雅夫 本当ですよ!

律 有難う。……有難う。


雅夫は荷物を置いてきたので今夜は実家へ帰り、あすからは子規庵で暮らすことにする。律は久しぶりに雅夫と歩きたいといって、月の明るい道を鷺谷の駅まで送っていく。"

このようなプロットで、作者は律の子規や雅夫に対する愛を軸に話を進める。幕切れの富田木歩は実在の俳人だが、あとは創作である。雅夫に俳句を禁じたのも、雅夫を思う律の愛情からでった。雅夫がいくら精進しても、子規をしのぐほどの俳人になれる保証はない。子規の縁者としてひとときは持て離されるかも知れないが、やがて忘れ去られてゆくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかった。

虚構とはいえ、ここで初めて律がヒロインとして表舞台に押し出された。そして、子規の名を守り抜くためのみに生きた律の半生が、感動的なドラマになったのである。


おわり


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