大杉栄とその時代年表(366) 《寒川鼠骨のこと》 『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)「15 呉竹の奥に 介抱は鼠骨一番上手なり」よりメモ より続く
1901(明治34)年
10月10日
スイス、彫刻家ジャコメッティ、誕生。
10月12日
ロシア、広瀬少佐、帰国命令受ける。
10月13日
川俣事件控訴審での、判事、検事、弁護士らによる被害地臨検。
10月13日
この日付け子規「仰臥漫録」。子規、母と妹の不在中に自殺を考える。時々絶叫号泣する。
この日、「大雨恐ろしく降る・・・律は風呂に行くとて出てしもうた」。
「母は黙って枕元に坐って居られる 余は俄に精神が変になって来た 『さあたまらんたまらん』『どーしようどーしよう』と苦しがって少し煩悶を始める ・・・母は『しかたがない』と静かな言葉」
子規は苦しいだろう。しかし「しかたがない」としか言えぬ八重も苦しいにちがいない。自分が腹を痛めて産んだ子が目の前でのたうちまわっている。
しかし既に寝付いて数年になる。介護に振り回される母は既に息子の定業を見据えている。明日死ぬかもわからないが、看病が続くかもしれない。どこまで続くぬかるみぞ。「しかたがない」という言葉より他はなかった。
子規は誰かに来てほしかった。母に頼んで坂本四方太に電信を送ることにした。母に電報を依頼して一人になったのは、「自殺熱」がむしょうに頭をもたげたからだった。
「さあ静かになった 此家には余一人となったのである」
子規一人になった時、左向きに寝て前の硯箱を見ると、6センチほどの鋭い小刀と6センチほどの千枚通しの錐が見えた。そこで、
「・・・・・二寸許リノ鈍イ小刀卜二寸許リノ千枚通シノ錐トハシカモ筆ノ上ニアラハレテ居ルサナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕 実ハ電信文ヲ書クトキニハヤチラトシテヰタノダ 併シ此鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ 次ノ間へ行ケバ剃刀ガアルコトハ分ツテ居ル ソノ剃刀サヘアレバ咽喉ヲ掻ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ匍匐(はらば)フコトモ出来ヌ 已ムナクンバ此小刀デモノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ 錐デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死スルデアラウカト色々ニ考へテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ
死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ ソレバカリデナイ 矢張刃物ヲ見ルト底ノ方カラ恐ロシガ湧イテ出ルヤウナ心持モスル 今日モ此小刀ヲ見タトキニムラムラムラトシテ恐ロシクナツタカラジツト見テヰルトトモカクモ此小刀ヲ手ニ持ツテ見ヨウト迄思フタ ヨツポト(ママ)手デ取ラウトシタガイヤゝゝコゝダト思フテジツトコラエタ心ノ中ハ取ラウト取ルマイトノ二ツガ戦ツテ居ル 考へテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ出シタ
其内母ハ帰ツテ来ラレタ 大変早カツタノハ車屋迄往カレタキリナノデアラウ
逆上スルカラ目ガアケラレヌ 目ガアケラレヌカラ新聞ガ読メヌ 新聞ガ読メヌカラ只考ヘル 只考へルカラ死ノ近キヲ知ル 死ノ近キヲ知ルカラソレ迄ニ楽ミヲシテ見タクナル 楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナル 突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナルカラ雑用(ざふよ)ガホシクナル 雑用ガホシクナルカラ書物デモ売ラウカトイフコトニナル・・・・・イヤイヤ書物ハ売りタクナイ サウナルト困ル 困ルトイヨゝゝ逆上スル」
『仰臥漫録』は2冊に分綴してあり、1冊目の最後は10月13日の「古白曰来(こはくいわくきたれ)」の文字と小刀及び千枚通しの絵で終わっている。
そして、2冊目の表紙の次にも10月13日の続きの記述がある。
「再びしやくり上て泣候処へ四方太参りほとゝきすの話金の話などいろいろ不平をもらし候ところ夜に入りては心地はれはれと致申候」
「心に引っかかっていた「金の話」を、母に出させた竃報で呼び寄せた坂本四方太に相談して、ようやく子規は「心地はれはれと」なる。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
「古白曰来」の古白は、6年前にピストル自殺した従兄弟で親友の藤野古白のこと。
「古白は、当初子規の俳句仲間であったが、やがて子規から離れ、坪内逍遥らの仲間となり、戯曲を普くも評価されず、前頭部と後頭部の双方をピストルで撃ちぬいた。が、すぐには死ねず、五日後に絶命した。子規が日清戦争従軍のため、広島を発った時であったが、のちに明治三十年、子規は『古白遺稿』を編集している。その中に「古白の墓に詣づ」という新体詩が収められている。
何故汝は世を捨てし
浮世は汝を捨てざるに
我等は汝を捨てざるに
汝は我を捨てにし
こうした冒頭の一連で始まる弔詩は、末尾で残された古白の母の悲しみを詠んで閉じているが、今は自分も病の苦しみに、危うく古白と同じ死の誘惑に駆られて、母を悲しませるところだった、と述懐しているのだった。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))
つづく
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