1902(明治35)年
11月2日
桂首相、伊藤政友会総裁と会談。地租増徴継続(1898年成立、期限5年)で海軍拡張計画に了解求める。
30日、伊藤は桂官邸を訪問し反対意見表明。
11月5日
政府、ロシア提唱の日露米の3国共同保障による大韓帝国中立案を拒否。
11月5日
中央線笹子トンネル竣工。全長4,657.3メートル。
11月6日
政府、「工場法案要領」を関係各庁・地方長官・商業会議所の回付し意見を求める。反対・時期尚早など決議起こる。
「工場法案要領」:
①30人以上の職工徒弟を使用する工場に適用、
②11歳未満の幼者の使用禁止(2ヶ年間は8歳以上、3ヶ年間は9歳以上の使用を許す)、
③16歳未満の男女及び婦女子の深夜業制限(14、5歳について例外規定あり)、
④16歳未満の男女及び婦女子の労働時間は、13~14時間とし、法律施行10年後に12~13時間とする。
⑤1ヶ月2日以内の定期休業日を定める、
⑥エ業主は業務災害救済の責任を負う、等が規定。
幸徳秋水は、眼前の利益、皮相の利益にのみあくせくしている現在の資本家の気に入るような工場法では何の効果もなく、逆に資本家が労働者を虐使する利器となる危険があるとし、「資本家のみの機嫌を覗ふのみで、毫も労働者の意見を参酌せずして、斯の改案を決めやうといふのは、不公平といふよりも寧ろ乱暴無法である」と警戒(「工場法案要領」(「萬朝報」7日))。
同要領発表後、各項目毎に詳細な批判を発表し、労働者に向かっては、「エ湯法案要領」が、「如何に其資本家の鼻息を覘ふに汲々たるよ、如何に其標準が二三の勢力ある大工場にのみ限られて、多数の工場の利害が無視せられたるよ、如何に労働者諸君の権利と利益を保全し増進するの途に蹄躇せられたるよ、如何にエ湯法を作る所以の目的が喪失せられて立派なる骨抜鰌鰭となり居れるよ」と指摘、「労働問題を解決する者は、保護に非ず干渉に非ず労働者諸君自身のカに依らざる可らず、労働者団結の勢力に依らざる可らず」と、労働者の団結を訴える(「労働者諸君に告ぐ」(「萬朝報」))。
11月6日
子規庵で子規四十九日忌の追悼句会
「明治三十五年十一月六日、子規四十九日忌の追悼句会が子規庵で催された。参会四十一人と盛況で、すわる場所にも苦労した。この句会の成果を含んだ「ホトトギス 子規追悼集」は虚子の手で編まれ、子規百ヵ日にあたる十二月二十七日に出た。」(関川夏央、前掲書)
11月6日
11月6日~ ロンドンの漱石
「十一月六日(木)、藤代禎輔(素人)と共に、 National Gallery (国民美術館)を見物し、昼食を共にし、下宿に泊って貰う。藤代禎輔は、荷物は他人にまかせて、身体だけ一緒に帰ろうと繰り返し勧める。
十一月七日(金)、藤代禎輔(素人)を、 Kensington Museum (ケンジントン博物館)と British Museum (大英博物館)に案内し、 British Museum のグリルで焼肉で、エールを飲み、「モウ船までは送つて行かないよ」と云って別れる。藤代禎輔は、「留學生としてよくもこんなに買い集めたと思ふ程書籍が多い」と驚く。(藤代禎輔)藤代禎輔と一緒に帰る予定で、予約したが、取り消す。(藤代禎輔は、日本郵船の貨客船丹波丸(六千百二トン)で帰国する。)」
「十月初句、藤代禎輔(素人)は漱石に葉書を出し、一緒に帰国することを勧める。その葉書を受け取った翌日、藤代禎輔に、スコットランドの旅行で帰国の準備ができぬと断る。十月中旬または下旬に断ったものと想像される。藤代禎輔(素人)も漱石に異常を認めなかったので、保護して帰る必要なしと知り、先に出発することになる。」(荒正人、前掲書)
11月8日
二葉亭四迷、旧外語の同窓川島浪速が監督を勤める京師警務学堂に勤め始める。
警務学堂:
北京9門を警備する歩兵統領粛親王の部下の警官を養成する学校。教員は全て日本人。二葉亭はここで事務能力を発揮、信頼を得る。
11月8日
東京帝国大学運動会、法科学生藤井実が100メートルを10秒24で走って優勝。世界新記録という。
11月9日
啄木(16)、細越夏村に連れられて城北倶楽部の新詩社の集まりに出席。初めて与謝野鉄幹に接する。(他に、平木白星、山本露葉、岩野泡鳴、前田林外、相馬御風、前田香村、高村砕雨、平塚紫袖、川上桜翠等14名)。
翌日、渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問。以後夫妻の知遇を得る。鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語る。
上京後啄木は下宿にあって歌作に耽り、また麹町区九段一丁日三番地の大橋図書館に通って文学書を耽読し、イブセソの「ジョン・・ガプリエル・ボルクマン」を訳述して生活の資を得ようとしたが果さず、この前後窮乏の中に年末を迎える。
11月14日
全国農事会総会、地租増徴継続反対決議。
11月15日
赤羽巌穴(27)、横浜港からドーリック号でアメリカに向かう。在米中、片山潜らとサンフランシスコ社会主義協会を組織。38年7月帰国。
11月15日
ロシア、ロストフ・ナ・ドヌーで労働者の大政治ストライキ発生。
11月18日
上海、中国教育会、愛国学社設立(蔡元培が総理)。南洋公学での学生運動の結果、学生200人が教員蔡元培に率いられて退学。中国教育会の支援をうけて愛国学社を設立。中国教育会と愛国学舎は「拒俄運動」の主力となる。
11月19日
大阪府中河内郡鴻池新田の農民300人、小作料引き下げを要求して暴動。
11月21日
啄木(16)、イプセン「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」英訳本を購入、訳述して生活の資を得ようとするが果たさず。
12月28日、盛岡中学校の後輩の金子定一の厚意で、金港堂に雑誌「文芸界」編集主任佐々醒雪を訪ね、編集員として就職を希望するが、面会さえできず空手で帰る。窮乏の中で年末。
11月21日
ロシア、ソ連の政治家スースロフ、誕生。
11月22日
ホアキン・ロドリーゴ、東部スペイン、バレンシアに誕生
11月23日
アルゼンチン、外国人の政治活動を制限した居留法が制定.
11月28日
英、キッチナー、インド総司令官任命。
11月30日
伊藤博文、桂太郎首相に地租増徴継続による海軍拡張計画に反対意見表明。
11月31日
ロンドンの漱石
11月末近く 漱石、虚子・碧梧桐連名(10月3日付け)の手紙で子規の死を知る。
「十一月三十日、漱石は北向きの寒い部屋のストーブのかたわらに座し、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題して句作した。
手向(たむ)くべき線香もなくて暮の秋 漱石
霧黄なる市に動くや影法師
ぎりぎりすの昔を忍び帰るべし
(略)
・・・・・碧・虚両名の見込みとは異なり、まだ「ホトトギス」誌上の計報も見ず、辞世三句も知らずにいた漱石は、子規長逝の報に接したとき、英国滞在中はじめてすんなりと句ができた。子規が漱石に、日本の風土と友情を思い出させたのである。」(関川夏央、前掲書)
「十一月三十日(日)、ストーヴの傍らで、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題して(十二月一日(月)付高浜虚子宛手紙中)、「筒袖や秋の柩にしたがはず」「手向くべき線香もなくて暮の秋」「霧黄なる市に動くや影法師」「きりぎりすの昔を忍び帰るべし」「招かざる薄に帰り来る人ぞ」。
十二月一日(月)、高浜虚子宛手紙に、正岡子規の最後詳しく知らせて貰った礼を述べ、正岡子規の生前のことを書けと云われても、いますぐには書けぬと伝える。「文章抔かき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。又西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にし度なり、何とも始末におへぬ代物と相成候。日本に帰り候へば随分高襟黨に有之べく、胸に花を挿して自轉車へ乗りて細目にかける位は何でもなく候。」と書く。」(荒正人、前掲書)
つづく
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