2026年3月3日火曜日

大杉栄とその時代年表(770) 1908(明治41)年2月11日~29日 「人は感情の満足を、若き女に求め、家庭に求め、趣味に求めむとす。然れども小生は遂に天が下の浮浪漢なり。之を若き女に求めむには我が心老いたり。之を家庭に求めむには我が性あまりに我儘に過ぐ。而して之を趣味に求めむには、我が趣味あまりに自発的なり、所詮は之を自己自らに求むる外に途なきを悟り候ひぬ。 「創作的生活」(専念創作に従ふ生活) はかくて現在の私の最大なる希望、唯一の希望に候ひき。」(啄木の大島経男宛手紙)

 

小松伸六が取材した石川啄木をめぐる2人の女性のこと

大杉栄とその時代年表(769) 1908(明治41)年2月3日~10日 「紀州新宮の大石祿亭君、彼は実に吾党の先輩長者である。彼の医術がいかにひいでたるかは僕の知るところでない。しかし僕はもし病ありて彼の手に治療を受くるならば、即日死んでも本望である。彼の半面は慈眼愛腸(ママ)である。彼の反面は狷介不羈である。彼は浮世をお茶にして三分五厘を観すべき瓢逸の質を備えている。彼は世を捨て山に入り隠遁の生を送るべき仙骨をも備えている。 しかして今彼はあくまで人間にとどまり、あくまで世間と闘い、革命家をもって自ら任ぜんとしているのである。彼はどどいつをも作る。料理にも凝る、細君の紋付のすそ模様の考案をもする。一種風変りの洋服をも案出する。産科学の書をも読む。哲学宗教の書をも読む。文章も書く。演説もする。痛罵もする、冷嘲もする。皮肉を言う、そしていつでも嬉々として喜び、ゆうゆうとして楽しんでいる。僕は実に彼の清高と多才とに推服せざるを得ぬ。」(堺利彦「獄中より諸友を懐(おも)ふ」) より続く

1908(明治41)年

2月11日

勝間田清一、誕生。静岡県

2月11日

御木本幸吉、真珠素質被着法の特許を得る

2月11日

スケート正式競技初めて開かれる

南信日日新聞社主催、諏訪湖一周氷滑大会開催。8マイル。

2月11日

上方浪曲師吉田奈良丸、上京。東京新富座で愛国婦人会の慈善興行公演。

2月11日

日比谷で主催者不明の増税反対国民大会開催。片山・西川グループが計画。但し、9日、発起人藤田貞二・松崎源吉が検束。10日、警戒厳重となり外出した社会主義者は全て検束。

この日午後1時、数千の民衆が日比谷に集合。若干の歩・騎兵と警官隊が警戒。非合法集会であるが、警官は制服で入場せず、演説も止めず。解散後、民衆が電車11台に投石するが、これも止めず。検挙21人のみ。

2月11日

エジソンと主要製作会社、映画用カメラの特許を取る。

2月12日

アメリカで排日問題起ると報道。

2月12日

熊本市の人力車夫ら、熊本人力車同盟会を結成。

2月12日

世界一周自動車レース(ニューヨーク・パリ)開始。

2月13日

(漱石)

「二月十三日 (木)、午後三時頃から野村伝四・小宮豊隆・野上豊一郎・森巻吉ら数人集って、夕食をする。晩、室生新来て謡う。

(二月十日(月)野間真綱宛手紙に、皆川正禧を誘って来ないか、宝生新が謡う予定だと書き、野上豊一郎宛葉書には、宝生新が『三山実盛』を謡うと知らせる)福引をする。野村伝四は新婚で大いにびやかされる。小宮豊隆泊る。

二月十四日(金)、夕方、小宮豊隆帰る。

二月十五日(土)、午後一時三十分頃、神田美土代町の東京基督教青年会館(神田区美土代町三丁旦二番地、現・千代田区神田美土代町七)の一階大広間で、「創作家の態度」と題して講演する。講演は、一時四十分から三時二十分まで。(東京朝日新聞社主催。第一回朝日講演会)第一高等学校三年に在学していた辰野隆も聴講する。テーブルを背にして、演壇の端に出たので靴半分はみ出す。諧謔言出し、警句の度毎に笑声起る。徳富蘇峰もこの講演を聞いていて、後で漱石に会った時、枝葉をもう少しおすかしになったほうがよくはなかったかと伝える。(小宮豊隆)小宮豊隆来て泊る。(午前二時、狩野亨吉の持ち家(牛込区北町三十六番地、現・新宿区北町)が隣家の失火で類焼する。)

二月十六日(日)午後(推定)、荒井某と小宮豊隆、長時間話す。(推定)小宮豊隆、鏡と共に牛込亭(牛込区適寺町八番地)へ竹本朝太夫を聞きに行く。」(荒正人、前掲書)


2月13日

川上音二郎夫妻ら、パリ発。

2月14日

民刑局長平沼騏一郎、独仏英に法律取調べをして帰国。無政府主義者取締り・同盟罷工対策を研究。

2月14日

全国商業会議所連合会、増税反対

2月14日

萩原守衛(1901年渡米、1903年渡仏)、帰国。ロダンの作風を伝える。

2月15日

東京朝日新聞主催朝日講演会第1回。講師、池辺三山、夏目漱石、三宅雪嶺、杉村楚人冠。

2月15日

大杉栄、この数日間ゴーリキーの『同志』を読み続ける。(巣鴨監獄)

2月16日

西川光二郎、「社会新聞」より片山潜を除名。「片山氏の性格精神行動中、社会主義者にあるまじき点少なからず、将来わが党の運動上多大の妨害を与うる・・・」とする。

社会主義同志会は、片山潜・田添鉄二派と西川光二郎派に分裂

3月15日、西川ら、「東京社会新聞」創刊。

2月16日

吉江孤雁(27)・前田木城(29)、茅ケ崎南湖院に独歩を見舞う。以来、3月30日(孤雁)、4月26日(2人)、5月初め(孤雁)、5月23日(花袋含め3人)に見舞う。5月23日は国府津館に1泊し、翌日独歩を中心に11人で写真をとる。

2月16日

啄木、釧路新聞・北東新報2社合同演劇会を釧路座に催し、両社記者による「無冠の帝王(新聞社探訪の内幕)」全3場を上演。啄木は某新聞社の主任記者と山師の乾分の1人2役で出演。この前後、柳暗花明の巷に出入、芸者小奴との交情深まる。

2月17日

銀行通行則例と儲蓄銀行則制定。

2月18日

林董外相、米提案の移民制限実施方法に対して移民自主規制を約束。紳士協約第7号、移民に関する日米紳士協約調印。

この協定に関連して、米国は暗黙に満州における日本の勢力圏を認め、かつアメリカ在住の日本人移民に対して差別的な立法をしないことを約束。また、日本はアメリカ本土行きの旅券を再渡航者や本土在住者の妻等の例外を除いて発行しないことを約束。

2月18日

(漱石)

「二月十八日(火)、小宮豊隆、改印の件で立ち寄る。

二月二十日(木)、小宮豊隆ら来る。鈴木三重吉遅く来る。

二月二十日(木)過ぎ(日不詳)、渋川柳次郎(玄耳)、外国旅行から戻って来たので、大塚楠緒の小説について相談する。」(荒正人、前掲書)


2月20日

大杉栄「獄中消息」(1月28日付)と「非軍備主義運動」(「熊本評論」1月30日付からの転載)(『日本平民新聞』)

2月20日

スペイン、作曲家サラサーテ(63)、没

2月22日

森近運平、改題前の「大阪平民新聞」記事(「大阪巡航会社の亡状」)控訴審で禁錮15日・罰金2円判決をうけ、この日、入獄。3月8日、出獄。

2月22日

砂糖消費税法改正公布。消費税引上げ、非常特別税法中の同税に関する規定は廃止。即日施行。

2月24日

啄木のこの日付け日記

「小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活潑な気拝のよい女だ。」


粋界の記事取材に花柳界に出入していた啄木は、多くの芸妓と顔馴染になったが、中でも関心を持ったのは、鹿島屋の市子と鶤寅(しやもとら)の小奴であった。現在、市立函館図書館に所蔵されている明治41年の啄木日記原本には、この二人の写真が貼りつけられている。市子は容貌も美しく、芸才もあり、年齢は18、啄木にとって、恰好の遊び相手であった。小奴は19歳で、市子に劣らぬ美しきと利口さを持った女性であった。啄木は鉄道冬季操業視察の新聞記者歓迎会や、「釧路実業新報」創刊祝賀宴等の席上で、歌や踊りにかけては姉さん株の芸者連に交っても遜色なく、よく気転のきく小奴を見て、すっかり気に入った。

啄木は彼女を贔屓にして、しばしば鶤寅に通ったので、彼等二人の噂は、次第に花界の話題になった。

2月25日の日記には

「社から帰ると夕飯、詞壇の歌をかいて居るところへ横山君が来た。晦日には愈々此下宿へ来るといふ。一緒に出掛けて、鶤寅へ行つたが、室がないとの事で仕方なく、或る蕎麦屋へ行った。小奴へ手紙やって面白い返事をとる。」とある。

啄木は、小奴からの返事を題材にして2月28日付の「紅筆だより」の記事にしている。

小奴は、明治23年10月15日函館に生まれた。彼女は幼少期は比較的恵まれた家庭に育ち、9歳の時、母ヨリの伯父で十勝国大浮にいる坪松太郎の養女となり坪姓を名乗った。彼女が高等小学校在学中に義父松太郎が死亡し、実家の母の知人で帯広の西一条に小料理屋を経営する函館屋へ預けられ、ここで芸事などに親しむようになった。数年後、彼女は釧路市の本行寺というお寺の前に一軒を借り、鶤寅という料亭の専属のような芸者となり、小奴と名乗って自前で左複を取ったが、芸も気立もよく、顔立も美しい文学好きの芸妓として、釧路花界にその名を知られた。

啄木が歌集『一握の砂』の中で、

小奴といひし女の

やはらかき

耳朶なども忘れがたかり

と歌った芸者小奴との交遊は、新聞記者と花柳界の女という関係から「さいはての恋」と騒がれるが、生前の小奴はこれを否定しており、啄木の作品にうかがうかぎり二人の境遇は暗く悲しい。

啄木は

「あはれかの国のはてにて/酒のみき/かなしみの滓(おり)を啜(すす)るごとくに」であり、

小奴の身の上もまた

「死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉(のど)の痍(きず)を見せし女かな」であり、「死ぬばかり我が酔ふをまちて/いろいろの/かなしきことを囁(ささや)きし人」であった。

釧路での新聞記者生活は、啄木にとって自由奔放の快いものであったが、単調な田舎新聞記者の暮しに馴れて来るにしたがって、「釧路へ来て茲に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。」(2月29日の日記)という状況であった。

中央文壇では自然主義文学が全盛の気運を迎えて多くの新進作家が登場していた。遠く極北の地からこれを見る啄木にとって、それは「自分の脱出して来た家に火事が起つて、見る見る燃え上るのを暗い山の上から見るやうな気持であった。」

彼はこの間の心情について、のちに友人の大島経男に次のように報じている(4月22日付書簡)

釧路に於ける七十日間の生活は、殆んど生死の大権を提げて私絃若き心に威迫を試み侯。大兄よ、私釧路に入りて、生まれて初めて酒といふもの飲み習ひ候ひぬ、時としては連夜旗亭に沈酔して、また天日の明きを見ず。酔うて帰りて寝ね、覚めて社に行き、黙々筆を走らして編輯を〆切れば、足また旗亭に向ふ。吉井君の所謂「おけおけと頭を乱すもろもろのみだらな曲をおもしろと聞く」てふ悲しき事もまた私の自ら経験したる所。時としては、酔快く発して、白眼世を視、豪語四隣を空しうし、盃を啣(ふく)んで快を呼び、絃歌を聞いて天上の楽としたる事なきに非ず。然し乍ら、暗然し乍ら、いかに酔ひ候ふとも、我を忘るゞ事なきこそ痛しくは候ひけれ。時としては飲めども飲めども酔はざる事あり、眼華を盃底に落して、腕を拱き、㤹惕として独り心臓の調励む聞く。云ふべからざる孤独の感、酒と共に苦く候ひき。

銚子を控へて我をして乱酔するを許さゞりし一妓の情に、辛くも慰められたる事あり。又夢なき眠りを唯一つの望みとしたる夜あり。然して遂に「感情の満足なき生活」には到底堪へ得べからざる事を、極度まで経験いたし候ひぬ。

人は矢張昔から情の動物に候ひけり。一切が無くとも感情の満足さへあれば、心荒まず。これなき生活は、仮令他の一切を具備するとも、小生の如きにはとても駄目に候。

人は感情の満足を、若き女に求め、家庭に求め、趣味に求めむとす。然れども小生は遂に天が下の浮浪漢なり。之を若き女に求めむには我が心老いたり。之を家庭に求めむには我が性あまりに我儘に過ぐ。而して之を趣味に求めむには、我が趣味あまりに自発的なり、所詮は之を自己自らに求むる外に途なきを悟り候ひぬ。

「創作的生活」(専念創作に従ふ生活) はかくて現在の私の最大なる希望、唯一の希望に候ひき。


啄木の「感情を満足させる生活」とは、中央文壇に進出して、年来の宿望たる創作生活に没頭することであった。


2月25日

小栗風葉(33)、田山花袋と茅ケ崎南湖院に国木田独歩を見舞う。小杉未醒と3人で茅ケ崎館に泊まる。

2月27日

(漱石)

「二月二十七日(木)、木曜会。高渓虚子・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎来る。

二月二十八日(金)、高浜虚子・小宮豊隆来る。宝生新来る筈だったが現れぬ。高浜虚子は鼓打つのを止める。

二月下旬、岡田(林原)耕三、第一高等学校記念祭の招待状送って来る。(子供たちは学校で行かれぬ。漱石も原稿に追われ、行ってみたいと思ったが果せない)

文芸欄のことで東京朝日新聞社社会部長渋川柳次郎(玄耳)に相談する。 (渋川柳次郎は、漱石が『国民新聞』の「国民文学」へ寄稿したのを知っていたが、朝日文芸欄の新設案を池辺吉太郎(三山)や上層部に伝える。すぐには決定しない。(伊藤整))」(荒正人、前掲書)


2月27日

長谷川一夫、誕生。京都

2月28日

「少年ケニヤ」「少年王者」等の絵物語作家・山川惣治、福島県に誕生。

2月28日

アルバート・アインシュタイン、2度目の申請でベルン大学私講師職を許可。未完の大学教師資格取得論文は「黒体のエネルギー分布則から導かれる輻射の本質の帰結について」。

2月29日

マキノ雅広、誕生。京都


つづく

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