2026年3月4日水曜日

大杉栄とその時代年表(771) 1908(明治41)年3月1日~7日 蒋介石の二度目の来日 蒋介石ら62名の軍事留学派遣団、大連港を出発、長崎経由で神戸へ上陸、鉄道で東京へ向かう。東京の牛込区市谷河田町にある振武学校(清国人専用の軍事予備学校)に入学。

 

日本留学時の蒋介石

1908(明治41)年

3月

韓国施政改善に1968万円無利子貸付け

3月

蒋介石の二度目の来日

この年3月、蒋介石ら一行62名の軍事留学派遣団は大連港を出発し、長崎経由で神戸へ上陸し、鉄道で東京へ向かう。同行の学生張群と親しくなり、これ以後、辛亥革命期から国民政府時代まで苦楽を共にし、終生の親友になる。

東京の牛込区市谷河田町(現在の東京女子医大がある)にある振武学校に入学。1903(明治36)年に創立された振武学校は、清国人専用の軍事予備学校で、3年制をとり、学校運営は日本陸軍の現役武官が行っていた。卒業後は日本陸軍に配属されて士官候補生となり、その後の試験に合格すれば、正規の陸軍士官学校の学生になれると規定されていた。

授業内容は軍事課程と普通学課程に分けられ、軍事課程として典令教範と体操、普通学課程には日本語、歴史、地理、数学、物理、化学、博物、図画などがあったが、3年間の授業でもっとも多かったのは日本語で、授業時間は全授業時間の39.7%を占めていた。次いで理数系科目が30.1%。軍事科目は三番目で授業時間は20.2%に過ぎない。しかも軍事科目の約7割は体操に当てられていたというから、レベルは中学校に近いものであった。

だが、中学校レベルとはいえ、勉強嫌いの蒋介石にとって授業は難しかった。

蒋介石と同郷出身で第一高等学校学生・郁輔祥は、

「一九〇九年、私は日本の東京高等学校で学んでいて、神田の下宿屋のひとつに住んでいた。ふたりの同郷の友人の紹介で、蒋介石と知り合った。蒋介石の言うには、自分は北洋練兵処から振武学校へ派遣されて勉強しているとのことだった。・・・・・蒋介石は科学的頭脳がひどく悪く、とくに数理方面が劣り、よく教科書持参で友人に教えてもらいにいった。知り合って以来、彼はしばしば我々を訪ねてきた」(「関与蒋介石二、三事」郁輔祥著、1986年)。

軍事留学生62人全員、振武学校から徒歩15分ほどの寄宿舎(住所は豊多摩郡大久保村字東大久保307番地。現、新宿区新宿7丁目26番。新宿の大久保通りと明治通りが交差する地点から道一本入り、細い路地を抜けた小高い丘の中腹にあった)に入った。

現在、丘の反対側には巨大な団地の戸山ハイツが広がっている。蒋介石が留学した頃は、ここには日本陸軍の戸山学校があった。今では広大な敷地に戸山公園が広がるが、かつて軍事訓練に使われた箱根山や野外演奏場の跡地があり、将校集会所の跡もそのまま残されている。当時、戸山学校では射撃や銃剣術、体育、歩兵訓練のほか、軍楽教育も行われていた。

蒋介石の日記によれば、彼は軍事教練や軍楽隊の演奏をよく見に行ったという。

寄宿舎の団体生活は規則ずくめで、平日は授業に忙しかったが、毎週日曜日には親友の張群と江の島へ遊びに行ったり、神田の中華料理屋や銀座の飲み屋で騒いだりと、日本生活を楽しむ余裕もあったらしい。

3月

相馬御風「詩歌の根本的革新」(「早稲田文学」)

3月

東京神田田代町の西垣商店、カーボン複写紙発売。

3月

中原作太郎、中原式煮繭機発明。

3月

「牟婁新聞」新宮支局を浄泉寺に開設。支局員成石平四郎。

3月

「三月、長谷川天渓、『太陽』に漱石の文学を「余裕のある小説」と非難して以来、「俳諧派」の代りに「余裕派」と呼ばれる。」(荒正人、前掲書)

3月

市川房枝(15)、上京。女子学園(校長矢島楫子)入学。

7月帰郷。9月萩原町立尋常小学校代用教員となる。

3月

葛西善蔵(21)、郷里で平野つると結婚。

翌月単身上京、徳田秋声を訪問、徳田の紹介で相馬御風を知り、そのすすめで早稲田大学英文科聴講生となる。

明治42年5月、大洗に半年滞在、作品ひとつ完成できず終る。

3月

カイロ市電、たばこ工場スト(国民党、労働運動と提携)。

3月

ベトナムのクアンナム・クアンガイ地方で抗税蜂起(~8月)。

ツーラン(トゥラーヌ、ダナン)、クァンナム、トゥアティエン(ユエ、フエ)で抗税蜂起(~4月)。

3月

グレー英外相、墺のサンジャク鉄道案に対抗しマケドニア改革の英案を公表。

3月

土地収用法により多くのポーランド人、土地を奪われる。

3月

ベルリンで雇用者会議開催、団体賃金協約に合意。

3月1日

大日本紡績連合会、綿糸に対し景品付輸出奨励実施。中国側商人のボイコットにあい失敗。1909年1月1日より奨励金制度に変更。

3月1日

(漱石)

「(三月一日(日)、第一高等学校記念祭。『中央公論』三月号に「夏目漱石論」掲載される。)

三月五日(木)、木曜会。松根東洋城・森田草平・生田長江・小宮豊隆来る。ニーチェその他話題になる。


(*夏目漱石論);片山孤村「夏目漱石論」・小栗風葉「予等と路の異なれる漱石氏」・佐藤紅緑「漱石君の文章」・徳田秋江「夏目漱石」・芳賀矢一「夏目君」・相馬御風「漱石氏の作風」・長谷川天渓「漱石氏」・藤岡作太郎「夏目君について」・正宗白鳥「夏目漱石論」・真山青果「漱石氏の第一印象」・佐々醒雪「夏目君の作物」・生田長江「夏目漱石論」」・樗陰生「夏目先生」ほか、「雑俎」に小室白也「吾雑も猫でめる」を掲載する。これは、四月号に続く。四月号は、馬場孤蝶「漱石先生」・柳川若葉「漱石論」が掲載されている。」(荒正人、前掲書)


3月1日

菊田一夫、誕生。

3月1日

黒板勝美『国史の研究』。

3月3

麻布の歩兵第1連帯の兵卒、中隊長代理の厳酷な仕打ちに憤慨し、隊伍を組んで脱営。

18日、大阪歩兵第62連隊でも兵卒13人脱営。

3月3

露、墺に対抗してドナウ・アドリア海間鉄道計画を発表。

3月5

宮下太吉、「大阪平民新聞」訪問。大阪平民社にはその他、三浦安太郎・岡本頴一郎・武田九平など大逆事件連座者が関係する。

3月5

日本初の美人コンテスト優勝者発表。ヘラルド・トリビューン社企画、時事新報社募集の美人写真の1等の末広ヒロ子は学習院女学生で退学処分に。のち、乃木学習院長の仲人で結婚。

3月5

荷風、横浜正金銀行より解雇の命を受ける。

3月20日、父より帰国命令が届く。「余は判断することかなわず」と言い、命に従って帰国することになる。

3月末、帰国までの2ヵ月ほどパリに遊ぶ。モーパッサンら文人の由緒を巡り、4月には上田敏と知り合う。

「巴里滞在は文学者として僕の生涯で一番幸福光栄ある時代であらう。僕もさう思つて目ざましく活動する覚悟であるが自分は折々云ふに云はれぬ寂寞を感じてやるせがない。花の巴里の花のやうな女も美しいとは思ひながらもう馬鹿を演ずる気力の乏しくなった事には驚く」 (同四月十七日付、西村恵次郎宛)

5月28日パリを去りロンドン経由帰国の途につく。

3月6

清国、英間に150万ポンドの滬杭甬鉄道(ここうようてつどう、上海(滬)、杭州(杭)、寧波(甬)を結ぶ全長約470kmの鉄道路線)借款成立。

3月6

警視庁、田川大吉郎ら届出の普通選挙国民大会開催禁止。

7日、会場の日比谷公園に警官数百人配置警戒。

3月6

横須賀重砲旅団第1連隊兵士16名集団脱走。

3月7

青函連絡船運航開始

3月7

夕方~9日夕方、北海道釧路地方で暴風雪(家屋倒壊により釧路町で19人、昆布森村で18人圧死)

3月7

(漱石)

「三月七日(土)、雪後雨。夜、小宮豊隆来る。小宮豊隆の誕生日祝いをする。赤飯・鯛の刺身・鯛の味噌焼・鯛の目玉の椀などを出す。鈴木三重吉来たので、二人で謡をやる。鈴木三重吉、酒を飲み端唄をうたう。小宮豊隆・鈴木三重吉泊る。並んで寝て猥雑な話をする。

三月八日(日)、午後、鈴木三重吉・小官豊隆帰る。」(荒正人、前掲書)


つづく

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