2026年7月2日木曜日

大杉栄とその時代年表(829) 1909(明治42)年3月14日 「森田さんのお話では、『草枕』に登場する「志保田の嬢様」那美さんのモデルとなった前田つな子のおもかげと、おえんの容貌との間には、どこか似かよった所があったとかで、後年、寺田寅彦さんが、つな子の若い頃の写真を見て、『あの顔はいい。あれなら先生も気に入ったろう。きっと先生色気があったもんだから、余り口がきけなかったんだね』と云ったそうである」(夏目伸六『父・夏目漱石』)

 

ポン太とおえん

大杉栄とその時代年表(828) 1909(明治42)年3月9日~12日 「窓をあけて見ると、雨の中に無数の燈がみえる。ぬれた、さびし気な光だ、その間に電車停留場の青い火、赤い火がみえる、それは泣いてるやうだ。 ああ、自分は東京に来てゐるのだ、といふ感じが、しみじみと味はれた。そして妻や母のことが思ひ出された。(略)大きい都会、その中に住んでゐる人は皆生命がけに働いてゐる。……その中に自分もまぎれこんでゐる。……ああ、自分は働けるだらうか、働き通せるだらうか! 雨の音がわびしい、そのわびしさを心ゆくまで味はつて、そして、出来ることなら自分の身についてのすべてのことを泣いてみたい様な気がした。」(啄木日記) より続く

1909(明治42)年

3月14日

〈鰹節屋の御神さん〉

漱石宅から神楽坂への途中に宗柏寺があり、その隣に鰹節屋がある。その鰹節屋の御神さんは漱石の好きなタイプだった。

 

明治42年3月14日の日記

「今日も曇。きのう鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着ていた。派手に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をしている方が感じが好い」

4月2日の日記

「散歩の時鰹節屋の御神さんの後ろ姿を久振に見る」

4月3日の日記

「鈴木禎次曰く。夏目は鰹節屋に惚れる位だからきっと長生をすると。長生をしなくても惚れたものは惚れたのである」

4月11日の鈴木三重吉宛の手紙

「今日散歩の帰りに鰹節屋を見たら亭主と覚しきもの妙なる顔をして小生を眺めおり候。果たして然らば甚だ気の毒の感を起こし候。その顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れていることと存じこれからは御神さんを余り見ぬことに取極め申候」

好きなタイプであると門人・知人に話しているので、思い詰めていたという程ではないにしても、おそらく漱石好みの姿形をしていたと思える。

森田草平が見た鰹節屋のお上さんは、帳場が暗くてよくは見えなかったが、「瓜実顔のしとやかな、どこか弱々しい所のある女」だったと認識している。

〈漱石の好みの「うりざね顔」;おえん、前田つな子〉


漱石の次男夏目伸六『父・夏目漱石』で、漱石は生涯、女道楽や遊蕩には走らなかったと述べ、でも例えばこんな女を好んでいたという話をしている。

明治42年頃、漱石は、おえんという当時有名な新橋芸者のブロマイドをわざわざ買ってきて、机上に飾り、ときおり疲れた目を休ませていたという。そしてその顔が、前田卓の面影と似ていたという。

「森田さんのお話では、『草枕』に登場する「志保田の嬢様」那美さんのモデルとなった前田つな子のおもかげと、おえんの容貌との間には、どこか似かよった所があったとかで、後年、寺田寅彦さんが、つな子の若い頃の写真を見て、『あの顔はいい。あれなら先生も気に入ったろう。きっと先生色気があったもんだから、余り口がきけなかったんだね』と云ったそうである」と書いている。

二人の面影が似ていると寺田寅彦が指摘し、森田草平がその言葉を伸六に伝えた。

このエピソードは、森田草平『夏目漱石』の「漱石と寺田博士」にも出てくる。

昭和10年10月24日、このころ森田は、『漱石全集』の「月報」に載せる「言行録」のことで、たびたび寺田宅を訪れていた。この日は寺田が病床についたと聞いて、見舞いに行った(これが寺田寅彦との最後の面談になった)。寺田はやつれてはいたものの元気に起きてきて、その月に第1回配本のあった『漱石全集』第4巻と、卓の談話と写真がのった「月報」の「言行録」の話題になった時、寺田がこう言ったという。

「『あれはインテレクチャルな好い顔で、これなら先生も気に入ったろう。僕もこの顔は好きだ。あの話の中に、山川〔信次郎〕さんはよく話しをなさるが、先生は滅多に口を効かれなかったとあるね。あれは先生、自分が気に入っていたものだから、色気があるので口が利けなかったんだね』と、寺田さんは又顔中皺苦茶にして笑われた」。


「その頃、新橋に、ぼんた、おえんと称する名妓がいて、どうも感じが、絵葉書屋の店頭に飾ってある、このおえんの顔に似ていたようだとも語っている。もっとも、ぽんたの方は、当世風の丸顔が、父の趣味に合わなかったせいか、帝国座で公演された『人形の家』に招待された時、偶然来合わせたこのぽんたを見て、父は、『存外よくない女である』と、日記のうちに書き込んでいる。つまり、父の嗜好に合った顔立は、むしろ古風なおえんの容貌であって、現に、そのブロマイドをわざわざ買い求めて来た父は、これを机上に飾って、時折疲れた眼を楽しませていたのである」とある。

明治44年(1911)11月28日、漱石は文芸協会から招待を受け、帝国劇場で上演されるイプセンの芝居『人形の家』を見に行き、そこで評判の新橋芸者ぽんたを見かけた。

ぽん太は丸いタヌキ顔で、「西に大阪宗右衛門町の富田屋八千代、東に新橋のぽん太」といわれた新橋の名妓。才能と美貌で評判になり、絵葉書(今のブロマイド)や明治屋のビール広告にも使われた。略奪愛の形で写真家の鹿島清兵衛の後指導で家計を助けた。森鷗外は、ぽん太夫婦をモデルにして小説『百物語』を書いている。

このぽん太と仲が良かったのがおえんで、おえんは、鹿島清兵衛の弟・清三郎の妾になっている。おえんは下膨れの瓜実顔で、まさしく漱石の好みのタイプであった。


3月14日

(漱石)

「三月十四日(日)、夕方、大久保から戸山が原(豊多摩郡戸塚町、現・新宿区戸山)散歩する。

三月十五日(月)、曇後晴、後曇。散歩の時、鈴木春吉に逢い、共に靖国神社の梅を見る。本多直次郎(嘯月)、留守中に来る。ツルゲーネフの手紙読む。トルストイとフローベルに感服する。

三月十六日(火)、朝、若杉三郎来る。寺田寅彦、昨日郷里から帰ったと、するめと鰹節持って来る。西村誠三郎(濤蔭)来る。鏡、小宮豊隆の下宿に行くが留守である。

三月十七日(水)、朝、雪九センチほど積っていたが、正午少し前にやむ。朝、渋川柳次郎(玄耳)、二人曳人力車で来る。二十日(土)に世界一周に出発するための暇乞いである。宝生新来ない。森田草平『煤煙』の後、与謝野鉄幹書くことを取り決める。(七月頃)靖国神社から下町の雪景色眺める。ダヌンツィオについて感想語る。(推定)

三月十八日(木)、春冷え。木曜会。野村伝四・飯田政良(青凉)来る。野村伝四、茶の間で鰻飯を馳走になる。飯田政良、短篇二篇持って来る。心理学専攻の菅原教造来る。心理学について質問したが、要領得ぬ。野村伝四と共に銭湯に行く。浴後散歩する。夜、松根東洋城・高浜虚子・西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆来る。寺田克彦の送別会に謡の会催すことになる。小宮豊隆は、「レオニド・アンドレイエフ論」を高浜虚子に渡す。小宮豊隆泊る。」(荒正人、前掲書)


3月14日

「三月十四日 日曜 晴 暖

午前は独逸語でおくる。

うららかに晴れた、春らしい天気だ、午後金田一君と、久振りに興に乗つて文学のこと社会問題などを論じた。予は岩野君を激賞した。

そして四時頃から二人で散歩に出かけ、浅草に行つて活動写真を見、それから塔下苑をどこといふこともなくあるいた。三軒許り入つて茶をのんで出た。友はしきりに或る昂奮の状態を示してゐた。帰つたのはモウ十二時過ぎ、広小路の牛めし屋でいくたの自由思想家の酒をのんでるところで飯をくつて来た。

日曜らしい日曜だつた。


三月十五日 月曜 晴

一寸与謝野氏へ寄つてゆく。大学館へ約の如く行くと、まだ読まないから読み次第当方から通知するといふ。予は怒つた、然し何ともすることが出来なかつた!

夜は独逸語で十二時まで、


三月十六日 火曜 曇

空は曇つてゐて、少し寒い日であつた。九時半頃に並木君におこされた。予は何故か愉快でなかつた。並木君帰つて藤岡長和君が来た。藤岡君帰つて昼飯。

イヤな気持に捉へられて起ちたくないのを無理に出社した。五十回券の残りがあるからよいやうなものの、一昨夜スツカリつかつて了つて財布には鐚一文ない。」(啄木日記)


つづく

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