北の丸公園 2014-11-19
*寛治2年(1088)
この年
・鳥羽殿北殿、造営。
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・越前守源清実、醍醐寺円光院領越前大野郡牛原荘の縮減を図る。
越前牛原荘の内検帳作成される(「醍醐雑事記」)。
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・イングランド、ノルマンディ公ロベール支援バイユー司教・ケント伯オドを中心にウィリアム2世に対する反乱。
ウィリアム2世が先手をうつ。
ヨーク市とリンカン市の王党派軍、北部で反乱準備するダラム司教ウィリアムの居城ダラム市を奇襲・占領、すぐに軍を退き各々の城の守備を固める。
これを機に反乱軍はイギリス各地で一斉蜂起、北はノーザンバラ州、南はイギリス海峡、東はイースト・アングリア地方、西はウェールズに及ぶ。
ノーフォーク州ではロジャー・ビガットがノリッジ市を奇襲・占領、ここを基地として周辺地域を略奪、中部ではレスターのシェリフがレスター州・ノーサンプトン州で襲撃を繰り返す。
ノルマンディ公ロベールの支援確保の為、ノーザンバーランド伯ロバートとクータンス司教ジェフリーがブリストル港を占領、シュルズベリ伯ロジャー配下がサセックス州アランドル港を、マーティン伯ロベールが同州ペヴェンシー港を押さえる。
バイユー司教オドはケント州タンブリッジ市・ロチェスター市を確保、また彼の許にはノルマンディーからも援軍が来援、ノルマンディー公ロベールも反乱軍支援の軍動員を請け合う。
シュルズベリ伯ロジャーはウェールズ境界地帯の反乱勢力を糾合、グロチェスター州を襲撃し北上、王党派拠点ウースター市に向う。
ウースター市にはウースター司教ウォルフスタン率いる王党派軍が駐屯し、反乱軍がセバーン河を渡河し市に接近してきたところを奇襲、反乱軍を打ち敗る。
西部の反乱軍はこの敗北により離散。
以降、反乱軍は集結して野戦軍を編成するのではなく、各々が城に籠もり、城を拠点として周辺地域に遊撃戦を展開する方針でウィリアム2世に対抗。
ウィリアム2世はロンドン市で軍を編成、反乱中枢のケント州攻撃のため南下、タンブリッジ市を強襲・占領。
バイユー司教オドのウィンチェスター市へ向かうが、彼はペヴェンシー港にいるとの情報によりペヴェンシー港に向いこれを包囲。
ノルマンディ公ロベールはペヴェンシー港救援艦隊を派遣するが、途中でイギリス艦隊に迎撃され壊滅。ペヴェンシーは6週間後に陥落、バイユー司教オドは捕虜。
ウィリアム2世はオドにウィンチェスター市明け渡しを約束させ、市へ護送するが市守備隊の逆襲によりオドを奪回された為、市を包囲。数ヶ月に渡る抵抗の末、ノルマンディ公の救援もなく、オドは降伏。オドと反乱諸候達はフランスへ逃亡。
南を制圧したウィリアム2世は、北転しダラム市に至りダラム司教ウィリアムに降伏勧告。ダラム司教ウィリアムは降伏し、司教職とダラム市を放棄してノルマンディーへ追放。
この段階でイギリス各地の反乱は終息。
ウィリアム2世は反乱諸候の領地を没収、王党派諸候に与える。
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・トゥールのベレンガリウス(89)、没(ベレンガル、999?~1088)。
フランスのスコラ学者。トゥールの聖マルティヌス学院長。アンジュー伯フルク・ルシャンの庇護を受ける。聖餐における「キリストの実在」を論証しようとして異端宣告を受ける。
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・クリュニー修道院完成(ロマネスク式) 。この頃、「ロマネスク建築」盛ん。
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・自治都市ボローニャにボローニャ大学設立。後、ヨーロッパ有数の法学研究のメッカとなる。1262年学生数1万超。
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・アマルフィ、アプーリア公ロゲリウス・ボルサ(ロベール・ギスカール息子)より離反
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・セビーリャ王ムータミド、東南部のキリスト教徒主要根拠地アレードを襲撃、少数のキリスト教徒に敗北。モロッコに行き再度ムラービト朝ユースフに援助を依頼。ユースフ、スペイン征服を決意。
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1月
・白河・堀川2代天皇の御祈僧を務めた賞により、摂政藤原師実が法琳寺阿闍梨宣慶に越前封戸45戸を法琳寺仏供灯明料として与える(「太元秘記」)。
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・源義家、陸奥守を罷免させられ、藤原基家と替任。
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2月22日
・白河上皇が高野山に行く。
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3月12日
・テラティーナで教皇ウルバヌス2世(46)、選出(位1088~1099、1042年、北フランス・シャンパーニュ生れ、1070年クリュニー副修道院長、1078年オスティア司教・枢機卿)。
ドイツ:教皇派司教は5人のみ。
イタリア:殆どの司教が教皇派(教皇派はトスカナ伯マティルダ、南イタリア・ノルマンディ諸侯と同盟 )。
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・アラゴン王兼ナバーラ王サンチョ・ラミーレス(位1063~1094)、教皇ウルバヌス2世に教皇就任祝いの書簡送付。スペインへの十字軍に感謝、臣従を更新、定期的貢納を約束。
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7月24日
・この日以降40日間地震が続く。餓死者多数。
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9月1日
・東大寺、若狭封戸からの米80石の代物の仮納返抄を出す。
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11月17日
・五節舞で越前守源清実が舞姫を献じる。車が越前守のもとに送られる(「中右記」「帥記」)。
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11月19日
・権大納言源経信、越前守源清実に絹30疋送る(「帥記」)。
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11月30日
・前太宰大弐藤原実政、宇佐八幡の神輿を射た罪で伊豆に流される。
実政は途中、近江国で出家するが、赦されず伊豆に追い下され、配所で没す。
前年(白河が堀河に譲位して2年目)12月、神輿を射たとして大宰大弐藤原実政の配流を求めて宇佐官神人が大挙して院御所に強訴。
この年2月以降、摂政師実の指揮のもとで陣定が何度も開かれ、11月30日、白河院の比叡山登山に供奉していた公卿たちは、下山するとすぐに参内して陣定を開く(登山中に、院から陣定開催を命じられ)。
陣定では公卿間の意見の隔たりは大きかったが、この陣定の直後、実政の伊豆配流が決まった。
白河院は、一年たっても明確な結論を示し得ない陣定を見限って自らの意思で決定した。
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12月14日
・摂政藤原師実、太政大臣に任命。
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12月22日
・参議右大弁正三位藤原通俊に越前権守を兼任させる(「本朝世紀」では25日)。
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