ロウバイ 2015-01-14 江戸城(皇居)東御苑
*1786年(天明6年)
9月
・ナポレオン(17歳)、コルシカ帰郷(~1788年1月)。
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・米、負債に苦しむマサチューセッツの農民,ダニエル・シェイズ元大尉にひきいられ反乱.
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9月12日
・モーツアルト、「アレグレットの主題によるクラヴィーアのための12の変奏曲 変ロ長調」(K.500)作曲。
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9月12日
・イギリス、将軍コーンウォリス卿、ベンガル総督に任命。
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9月22日
・オランダの愛国派、総督を罷免し、「共和制度の再建」を5人の委員会に委ねる。
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9月26日
・イギリス・フランス間、通商条約(イーデン条約)、締結。
両国で関税引き下げを実施するが、イギリスの方が利益を得る。イギリスは、織物と鉄をフランスよりも大量に安価に生産しているため。フランスの産業家は条約を結んだフランス政府に対し怒りを抱く。
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10月18日
・モーツアルト、3男ヨハン・トーマス・レオポルト、誕生。11月15日没。
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10月23日
・御三家を中心とする反田沼派は、側衆に大屋遠江守を推薦するとともに、田沼意次の厳罰を要求し、さらに老中上座の松平康福の罷免とその後任に秋元永朝を推薦。
しかし、これらの要求は閏10月15日に田沼派幕閣によって拒否される。
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閏10月5日
・田沼意次、領地5万7千石のうちの2万石と江戸上屋敷、大坂蔵屋敷を没収のうえ、江戸城出仕を禁止され、下屋敷で蟄居謹慎することを命じられる。
申渡しにゆく大目付は、もし意次が仮病をつかって会わないときは、かまわないから寝所に入り、寝ていたら夜具をはいで、顔をはっきり確かめてから申し渡すように命ぜられている。
また、田沼派の勘定奉行松本伊豆守秀持が免職。
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閏10月6日
・将軍家斉の実父一橋治済(はるずみ)、この日付で御三家当主へ、老中の相応しい人物として、松平定信(白河藩主)、酒井忠貫(ただつら)、戸田氏教(うじのり)を挙げ、特に松平定信はその人となりをよく知悉していると推薦。御三家当主たちは、定信について十分に承知していないが、優れた人物と聞いていると答え、治済の意見に賛同。
また、治済は田沼派老中水野忠友を抱き込む工作として、老中適任者(定信)がいると打診するが、「一向ニ相かなわざる様子に相見え」と失敗。
12月15日、治済と御三家は幕閣に対して松平定信を老中に推薦することを申し入れる。(これも拒否される)
天明6年8月に田沼が老中を解任されてから、翌年6月に定信政権が成立するまで10ヶ月余、田沼を欠きながらも、田沼派は中央政界において激しく抵抗。
御三家および一橋治済が、田沼政治刷新を意図し、松平定信の老中就任実現に努力している。
尾張家の記録に見る御三家の藩邸での会合の様子は、1786年10月4回、閏10月7回、11月3回、12月1回、翌87年2月6回。
御三家は、他にも江戸城登城の際にもしばしば会談しており、公私の場の会合を合わせる相当緊密な連繋を保っている事が窺える。
しかし、幕閣中枢は未だ田沼派が占めており、この工作はなかなか進展せず。
田沼派の抵抗
田沼意次は幕閣から追放されたが、なお幕政に対して隠然たる勢力を維持していた。
大老の井伊直幸(なおひで)、老中の松平康福、牧野貞長、水野忠友(1785年〈天明5〉に老中就任)、阿部正倫(まさとも、1787年に老中就任)ら田沼派がそのまま幕閣に残っている。
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11月
・年後半、モーツアルト、三重唱「ここにアマゾンたちの大帝国のありかが」(K.434(480b))(未完)作曲。
この月、イギリス旅行を計画。
4日、「4手のクラヴィーアのためのアンダンテと変奏曲 ト長調」(K.501)、
18日、「ピアノ三重奏曲 変ロ長調」(K502)、作曲。
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11月15日
・田沼派の勘定奉行赤井豊前守忠晶、左遷
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11月17日
・この日付けのレオポルトからナンネルル宛て手紙により、この頃、モーツァルトが英国旅行を計画していたことが知られる(実現せず)。
8月8日のフュルステンベルク侯への申し出と併せ、モーツァルトがこの頃いろいろなかたちで現状打開を模索していたことが理解される。
この頃、何かが変わりつつあった。演奏会もほとんど記録がない。
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11月22日
・宿毛一揆。
財政再建を進める宿毛(7代領主氏篤)、大目三郎左衛門を士分にとりたて再建役に任命。
再建策は、年貢のより厳しい取り立てと増税など。
この日(領主氏篤は隠居、新領主保氏と大目は高知出張というチャンス)、農民千人が土居の門前で口々に訴え。
氏篤側は「新領主と相談してきっと皆の望みを叶えるようにする」と約束。
後、新領主は約束を実行、一揆側からの犠牲者なし。
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