2018年5月3日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート21 (明治39年)

皇居東御苑
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「旗争い」について
明治39年秋~冬、同盟会は武装蜂起と新国家についての戦略や方針を議論し、「革命方略」をまとめていた頃、新国家で用いる旗をめぐって、孫文と黄興の意見が対立した。孫文は自分が設立した興中会の「青天白日旗」を主張し、黄興は漢民族を象徴する周代の井田制による「井字旗」を主張した。その背貴には、孫文の国際的指向に対し、黄興側の民族主義的指向という、革命路線の違いがあった。両者は互いに譲らず、果てしなく争った。
そして翌年2月28日頃、孫文は最終的に「青天白日旗」と決定する。その結果、黄興は同盟会を脱退したいとまで言い出す。

宋教仁の日記も2月27日、28日によると・・・
黄興はその年1月初め、中国での組織化と蜂起のため急遽帰国したが、政府の警戒が厳しく、手も足も出せずに2月15日に日本に帰ってくる。その間、同盟会庶務部長の仕事を宋教仁が引き継いでいたが、黄興が戻ったことから、2月27日、宋が孫文に辞職したいと申し出た。孫文は、2人で相談するようにと言った。翌28日、その話を黄興に伝えるために宋は民報社にやってきた。以下の引用での黄慶午は黄興のことであり、逸仙は孫文のこと。

「七時、民報社に行って黄慶午に余の辞職の件を話した。慶午は承知しなかった。そうこうしているとかれが突然(同盟会を)脱会して関係を断ちたいといい出した。その原因は ー (原文不明、逸仙?)が自分の思い通りに新国旗を制定したので、慶午は(その国旗は)適当でないと思って改めるよう求めたが、逸仙は固執して譲らず、その上不遜の言葉を口にした。そのため慶午は怒って会場から去った」と。(カッコ内は訳者松本英紀の補注)

このあと宋教仁は、その原因を、長い間に黄興の中に鬱積してきたものが、これを機会に爆発したのだろうと分析し、自分も独断専行の多い孫文に対してわだかまりの感情を抱いているので、黄興の脱会はあえて止めないと書く。そして自分も庶務部長を辞任すると決意し、翌朝孫文を訪ねて、その旨を伝えている。

この「旗争い」は、個性と意見の違いが、革命という切迫した状況を前に鋭い形で表面化する、その一端を示した事件だった。せっかく大同団結した同盟会が、分裂するかもしれない危機をはらんでいた。卓は、何かと行き違うことの多い孫文と黄興が、この問題でこじれることを恐れて、自分の腰巻きをなどと言い出したのだ。それは、とがった空気を一時和らげ、孫文も黄興も笑ったに違いない。

卓は論争を聞かれてもいい人物としてその場にいた。彼女の話には孫文も黄興も耳を傾けた。卓は彼らに同志として信頼されていた。そして後年、森田草平のインタビューに、そうしたエピソードをしゃあしゃあと笑い話として語るのが卓なのだ。

ここに前田卓という女性の真骨頂を見る。
『草枕』の那美さんが、「ささだ男もささべ男も男妾にするばかりですわ」と言い放ち、ほととぎすの鳴き声に「あれが本当の歌です」と断定する気転とユーモアのセンス。このエピソードにも、その呼吸がある。

明治39年9月
雑誌『革命評論』と前田卓
孫文と黄興らの中国同盟会設立に尽力した宮崎滔天は、日本人が側面からバックアップすることを願って雑誌を創刊する。
明治39年8月12日、滔天は萱野長知、清藤幸七郎、和田三郎、池亨吉と共に発行を決定し、9月5日に創刊号を発刊する。月2回発行、タブロイド判8ページの小冊子である。滔天は、神田区美土代町の革命評論社事務所(萱野良知宅)に通い、来訪者などを記録している。その記録の中に、卓の来訪が頻繁に記されている。

創刊号発刊日には、卓は3人の来訪者の筆頭に出てくる。翌日以降も卓はたびたび訪れ、10月6日には黄興が革命評論社同人を招いた宴席にも出席している。11月1日には、退院の決まった宋教仁を連れて訪れている。民報社と革命評論社との間の連絡係をしていたのではないだろうか。

雑誌の送付先にも、民報社と同じ新小川町の住所で民報社とは別に前田卓子の名前がある。245人の購読者名簿の中で、女性はたった3人である。
送付先には、頭山満、犬養毅、幸徳伝次郎(秋水)、堺利彦、大杉栄、徳富猪一郎、北輝次郎(一輝)、民報社とともに、熊本市塩谷町の前田下学の名前もある。数年前には裁判沙汰まで起こして互いに対立した兄もまた、卓、滔天と槌とともに中国革命に関わっている。

明治39年12月2日
民報発刊一周年記念大会
明治38年夏に結成された中国同盟会の会員は1年間で1万人となり、当初3千部だった『民報』の発行部数も半年で1万部を超え、最高時には4~5万部に達した。
翌年12月2日に神田の錦輝館で開かれた「民報発刊一周年記念大会」の盛況のありさまを、宋教仁は日記に書いている。

「晴。九時、宮崎氏とともに(神田の錦輝館で開かれる)《民報》『発刊』記念大会に赴いた。着くともう開会後だいぶたっており、来会者はすでにいっぱいで入口に立っているものが千余人いた。余らは入ることができずそこで傍らの窓から蛇行しながら入った。会場の側にたどりついて見渡すと、場内はすでにいっぱいで立錐の余地もなく、場内に入ろうとしてもとうてい入ることができなかった」。
宋はそこで「特別招待の来賓の方が来られたので、どうか少々おゆずり下さい」と叫びながら、滔天を案内してやっと会場に入ることができたらしい。演壇の近くにたどりついた時は、履き物がなくなっていたという。その時ちょうど孫文が演説をしていたが、万雷の拍手で聴き取れないほどだった。
孫文の後は、数人の会員のほか滔天や北輝次郎(一輝、23歳)ら日本人来賓も演説。
宋は「拍手の音、万歳を叫ぶ声がじつにうるさくて、余は耐えられないほどであった」と書く。
「ある人が《民報》の経費への寄付を提案すると、みな賛成した。ちょっとの間にお金を投じるもの、冊子に名前を署するものはどれくらいいたか知れない。しばらくして終え、やっと散会した。散会のとき《民報》臨時増刊号の贈呈券を一人一人手渡し、計五千余枚を出した。その他券を渡すことが出来なかったものと入場できなかったものを合わせると、おそらく一万人に近かったであろう」。
1軒の旅館に5千人もの人が集まったとは思えないが、1年前の「孫文歓迎集会」をはるかに超える人数が集まったのは確かだろう。

この1周年記念大会の翌々日の12月4日、同盟会が指揮する最初の武装蜂起が江西で起こった。宗教仁の日記には、それが湖南省に広がる様が、連日日本の新聞でも報道されたと書いている。蜂起は失敗し、劉道一もこのとき処刑されている。そのことがさらに留学生たちを高揚させた。

(つづく)


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