2018年5月27日日曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート01 (明治4年、明治29年)

*
『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート

はじめに

辛亥革命前後の一九〇〇年代初頭から二〇年代にかけて、日本の年号でいえば明治から大正初めの頃、日本には中国人の留学生があふれていた。明治維新を成し遂げた日本はアジアでいち早く近代化を実現した国であり、清国で「日本ブーム」が巻き起こったからである。日本の成功に学ぼうとやってきた留学生は、最も多い時期には一万人近く日本に滞在し、その九割が帝都東京に住んでいたという。
その一方、清朝の若き皇帝・光緒帝を戴いて、衰退の一途をたどる国政を改革しようと試みて失敗した「改良派」の知識人も亡命してきた。
「改良派」の中で、私は梁啓超(りょうけいちょう)が一番好きだ。日本で十四年も亡命生活を送った彼が自分でつけた日本名は「吉田晋」という。尊敬する吉田松陰と高杉晋作をくっつけた名前だ。広東省から日本へ呼び寄せた家族にも日本名をつけている。それほど日本に惚れこんだということだろう。
やがて孫文や梁啓超の次の時代を担う者たち - 中国共産党を作った陳独秀や李大釗(りたいしょう)、それに周恩来、李漢俊(りかんしゅん)、董必武(とうひつぶ)といった中国共産党の主要メンバー、魯迅、郭沫若、郁達夫(いくたつふ)ら文学青年たちも留学生活を送るようになった。

かつて、早稲田界隈にはチャイナタウンがあって、旅館や料理店、床屋の店先に清朝の国旗・黄髄旗が翻っていたという。神田には清国留学生のための日本語学校や留学生クラブがあり、郷土料理を出す食堂があった。神楽坂や飯田橋界隈には、革命家たちが密談を交わした料亭があり、中国同盟会が生まれたのは虎ノ門のホテル・オークラ本館がある場所である。

早稲田、神田、本郷を散策しつつ、かつて中国革命に夢を描いた彼らが見た帝都東京の風景を想像し、彼らの情熱に思いを寄せながら、往時の歴史をゆっくり堪能していただきたい。本書を散策のお伴にしていただければ幸いです。

私は、「散策のお伴」というよりは中国人留学生群像としてこれを読ませて戴いた

[目次]

はじめに

I 早稲田
第一章 黄龍旗がはためく街——清国チャイナタウン
第二章 頭をふるって顧みず、われは東へ行かん——梁啓超の悲しみ
第三章 知られざる天才——憲政の祖・宋教仁
第四章 戸山の軍人学校——蔣介石の夢と憧れ
第五章 芥川龍之介より日本語がうまい帝大生——社会主義者・李漢俊

II 本郷
第六章 清国人最初の日本語学校——弘文学院
第七章 中国の西郷隆盛——黄興の暮らしぶり
第八章 朝顔の咲く家——魯迅の思い出
第九章 関東大震災(一)——日華学会のなりたちと留学生支援
第十章 関東大震災(二)——本郷、麟祥院に今も眠る留学生たち

III 神田
第十一章 慈愛の宰相——周恩来の目立たない日々
第十二章 最大規模の日本語学校——東亜高等予備学校
第十三章 留学生の憩いの場——清国留学生会館と女傑・秋瑾
第十四章 留学生の胃袋、そして知恵袋——神保町の書店街
第十五章 辛亥革命の後背地——日本各地に孫文伝説

おわりに 三田の話

1872年(明治4年)
清国留学生のアメリカ派遣
清国人最初の留学生だった容閎が名門校イェール大学を卒業して帰国後、アメリカ留学政策を立ち上げて、アメリカ留学は1872年から始まり総勢120名の清国留学生をアメリカへ派遣した。だが平均年齢12歳という幼年留学生たちはアメリカ生活に順応し過ぎたことや、アメリカ政府が陸軍士官学校、海軍兵学校への入学を拒否したことで、清国政府は怒って全員を引き上げた。ヨーロッパの陸海軍への留学生派遣も不首尾に終わり、1880年代には留学制度そのものを停止した。

明治29年(日清戦争終結の翌年
警務学堂から選抜した清国官費留学生13人の日本派遣
この年、清国の総理事務衙門(外務省)は、駐日公使裕庚を通じて日本の外務大臣(兼文部大臣)西園寺公望に留学生の受け入れを要請。西園寺が旧知の嘉納治五郎に相談を持ちかけると、嘉納は即座に快諾し、自宅近くの神田区三崎町に民家を借り、東京高等師範学校教授の本田増次郎を主任に指名して、寺子屋方式で日本語を教えた。理科、数学、体操などの科目は、高等師範学校の教室や設備、校庭を使った。教育期間は3年と決めた。すべてが手探り状態だったが、嘉納は嬉々として教育した。

20世紀初頭の日本は、清国の青年たちの強い興味を引いた。欧米の文化と近代科学を吸収して近代化を成し遂げ、無血革命ともいえる明治維新を実現した国であり、アジアで唯一、欧米列強と肩を並べる近代国家だったからだ。とりわけ注目したのは、明治28年、日清戦争に日本が勝利したことだった。小国ニッポンがなぜ大国の清国に勝ったのか、その秘訣を知りたい。日本が輸入した西欧の近代科学も学んでみたい。おまけに日本は「安・近・単」 - 欧米諸国へ行くより費用が安く、距離的に近く、同じ漢字圏だから勉強するのも簡単そうだ。西欧の書物を辞書を引きながら読むよりも、日本語に翻訳されたものを読むほうが効率的だろうという安易な想像も手伝って、清国留学生が増加していった。

(つづく)

0 件のコメント: