皇居東御苑
*大正6年
卓、中国に渡る
大正6年秋、卓は前年に没した黄興の一周忌に出席した。『婦人世界』昭和7年9月号)の「草枕のヒロイン ー 那美さんを訪ふの記」(松岡譲が夏目鏡子夫人とともに行った熊本と松山の旅のレポート)にこのことを伝える記事がある。「漱石のあとを訪ねて」の熊本編にで、記者が卓にインタビューしたもので、『草枕』に関する話や民報社や養育院での話題にもふれ、当時の卓のおもかげも伝えている。
「那美さんは支那へも渡った、大正六年の九月である、黄興の一周忌に上海に行った。其処で那美さんが感じた哲学は、『あたしの身体は日本より支那の方が適して居る』だ。で、もし脳溢血を起したり養嗣子すら長逝しなかったら恐らく又々支那へ出掛けたかも知れぬ - と云う元気振りだ」。
『東京朝日新聞』(大正6年11月1日付)には、10月31日の「上海特電」として「黄興追弔会」と題し「今日は黄興の一周年忌なるを以て当地の旧宅にて盛大なる追弔会を行う」とある。
養子利鎌(33歳、東京工業大学教授)は、このインタビューの1年前に没していた。
黄興が没したのは、大正6年10月31日。その時の卓の様子を伝える記事がある。『東京朝日新聞』(11月1日付)は第3面のほとんどを使い、「黄興氏病死す▽胃潰瘍にて多量出血」という見出しで、6段にわたる大きな記事を掲載、紙面中央には家族の写真も掲載し、「今朝四時遂に逝けり」と、死亡の模様と彼の中国革命にかけた人生を紹介し、死を悼んだ。その後、法学博士寺尾亨の「支那の大西郷」、犬養毅の「未来の大総統」という二つの談話と、黄興が袁世凱らからの勲章を辞退したことなどについての美和作次郎の証言につづいて、「母も夫人も死を知らぬ」「刑事を撒くが上手だった黄氏」という見出しで、卓の談話が掲載されている。
「明治三十八年黄興が早稲田大学に籍を置いて傍(かたわら)革命党の機関誌民報を刊行して居た時分から黄の世話をしていた宮崎滔天夫人の姉卓子は語る」として、
全く急なので茫として仕舞ました。実は三十一日朝、目白に住居の黄の母堂黄端氏と第一夫人淡氏の許へ 「スグキコクセヨ」との電報がありましたので、母堂や夫人も予てから病状を大変に心配して、二、三日中には立つ事になっていたのに続いて死んだとの電報なのです。此の電報ばかりは、まだ母堂と夫人には帰国迄知らせぬ事に相談致しました。それでなくてさえ気が転倒する様に心配しているのに、此の事を知らせたら帰国前に何んな事になるか知れません。しかし暁星中学二年に行っている黄の次男厚端だけには、宮崎宅で夜八時ごろに知らせることになっていますが、厚端はもう出入りが激しいのに気がついたらしく、心細そうに私共を眺めて居ますので、いじらしい様でした。
・・・・・
お話すればいくらでもお話がありますが、間断なしに尾行する刑事を撒くことは非常に巧みでしたよ。しかし一旦断りさえすれば、刑事に自宅の離れを借(ママ)してビール等を振る舞い、オイ今出かけるからついて来給えと言った具合でした。
寺尾博士や犬養毅の談話が、思い出や黄興を顕彰する言葉を礼儀正しく語り、哀悼の意を表しているのに対し、卓のこの談話は生々しい。卓や滔天夫妻が黄興と家族ぐるみのつきあいをしていたことをよく示している。
このとき滔天は10月10日の国慶節に招かれていて既に中国に渡っていた。当日は上海で共に祝おうと黄興と約束していたが、滔天はその前に杭州に行き、そこで大酒を飲んで国慶節には上海に戻れなかった。11日に戻ったものの、その酒がたたって体調を崩したところに、黄興喀血の報せを受けた。すぐには見舞えず、29日に駆けつけるが、その2日後に黄興は亡くなった。見舞ったとき、黄興は滔天の体を心配したといい、長男一欧に見舞金を届けさせたりしている。
11月4日、槌が母親・夫人らとともに上海に渡り、6日に到着。槌はその後病気になり、上海で療養することになる。
黄興の死亡時、母親や第一夫人たち家族は、革命後の不安定な状況から遠ざけるため日本にいた。
辛亥革命後の道のりは単純ではなかった。
1912年1月に臨時大統領になった孫文は、清王朝の退位を交換条件に、その地位を袁世凱に譲った。すると袁世凱は、民主革命の約束をことごとく反古にし、自分自身が皇帝になろうとして、宋教仁を暗殺。孫文らはふたたび兵を挙げるが失敗し、孫文は日本へ亡命、黄興はアメリカに渡ったのち翌13年8月頃、日本にやってきた。
この再度の亡命期間、九二四郎が黄興の世話をした。
「支那亡命客ノ動静ニ関スル件」乙秘資料の8月27日付乙秘第157号の「午後三時半前田九二四郎来訪同四時退出」を皮切りに、ほぼ連日のように黄興宅を訪れている。8月29日には午後1時~4時まで滞在し、再び夕方6時~10時40分まで訪れている。人を雇って邸を掃除させるなど、黄興の家政に尽力していたようだ。9月23日付では、九二四郎が自動車で黄興邸に行き、黄興とともに犬養毅を訪れ、「奥座敷にて密談する所あり」ということもあった。
卓が利鎌を養子に迎えたのは、黄興に勧められてのことだった。「かねがね黄興深く彼〔利鎌〕を愛し、姉卓子の養子とすべき事をすすめ居りしが、黄興アメリカよりの帰途日本に立ち寄りしを幸い、ついに時至り、卓子の養子として入籍」と、利鎌年譜の大正4年の項にある。
大正10年ころ
卓(53歳)の縁談
滔天から熊本県玉名郡大潟村の富田正雄宛の2月27日付の手紙。
「御申越しの件に付、早速つな子姉に申聞け候所、御厚意は千万黍なく候えども最早嫁入りすべき年ならず、殊に身内のものの子供も預かり養育いたし居候事に候えば、再縁の考え毛頭これ無き候間、左様あしからず御思召被下されます様申し上げ呉との事にござ候〔略〕。本人は申し上げるまでもなく、槌その他一同貴下ご夫妻の親戚を思い給う御高志に対し感涙存じつかまつり候。」(『宮崎滔天全集第五巻)
故郷の親戚の富田夫妻が、卓に縁談話を持ち込んだようだが、卓は即座に断ったようである。
昭和3年
『婦人倶楽部』に対して訴訟を起こす
昭和3年2月1日発売の講談社発行『婦人倶楽部』が、「文豪漱石の初恋の女性 - 名作『草枕』の女主人公との隠れたる物語」という噂話をもとにした創作に近い記事を掲載した。目次に大きな赤い文字で記された6ページにわたるこの号のメーン記事である。
内容は、漱石が卓に恋をし、3年余りのあいだ何度も小天に通ったというもの。
冒頭、「漱石逝いてすでに十年、氏が明治文学史上に遺した偉大な功績は今更呶呶(どど)するまでもないが」とあり、しかし、その漱石にも秘密があったのだとしてこう続ける。
「まことに漱石先生ほど一生涯を通じて自己の尊厳を保持し得た人も少なかったであろうが、しかしこの漱石先生に、何人も奇異の目を見張らずにはいられない、恐らく全生涯を通じてたった一度のローマンスが秘められているのであります」。
そして、そのロマンスは、『草枕』のヒロイン那美のモデルである前田卓〔文中では「おつなさん」〕とのあいだにあったことであり、それも漱石の一方的な恋慕だったという。
漱石は、ある年の夏、4~5人の青年たちと小天の前田案山子の隠居所を訪れて滞在した。「それ以来毎年夏冬の休暇は勿論、その間でも学校が休みだと言っては、三里の山路をものともせず」通ってきた。おつなさんに会いに来たのだ。「この嬌(あで)やかなおつなさんを慕って三ヶ年に亘り、幾度となく足を運んだ氏の湯の浦への旅は『草枕』にあるような非人情なものでなく、頗る有人情な旅であったことは言うまでもありません」。そして、おつなさんが散歩をするとその後を追い、彼女にからかわれて間違った道を教えられて迷ったり、八久保の本家に二人で遊びに行った帰りには「『先生これを持って頂戴よ』との彼女の言葉に三四百もあろうと思われる蜜柑の大きな風呂敷包みを、丁稚背負いに背負わされた」。
那美と卓を重ね、「実在のおつなさんという女性にも、可なりこうした無遠慮でコケティッシュな性格を多分に持ち合せていたことは事実でした」として、その奔放な卓に漱石が翻弄される、さまざまなエピソードを並べたてる。
「こんな風で夏目さんが、愛人おつなさんに払われた生真面目一方の熱情と努力は容易ならぬもので、当時、世間狭い村人の間にいろいろと取り沙汰されたものです。けれどもこんなことに一向無頓着な夏目さんは、おつなさんのある所には必ず影身のように添っていた」。
「一代の文豪漱石先生なればこそと思われる珍しい話が、九州の山奥に今なお村人の語り草となって伝えられています」。
「記者は特にこの興趣深きロマンスを産んだ土地に残る伝え草を精査し、またそのモデルと目されている当の前田つなさんにも親しく会見して草したのがこの一編であります」。
(記者が小天を訪れて様々な噂話を採集し、それに尾ひれをつけ、『草枕』の内容や漱石の俳句と織り交ぜて仕立てた)
卓にも取材したと断っているが、「これはおつなさんの直話ですから間違いはありますまい」とか「おつなさんの実話によると」として出てくるのは6ページ中の2ヶ所だけ。しかもその内容は、峠の茶屋の老婆のことや鏡が池についてなど、「月報」や『婦人世界』に答えたこととほぼ同じである。
さらに、卓の「直話」は文末の一つだけである。そこで卓はこう語っている。
「往訪の記者におつなさんは 『今更そんなことを・・・もうそんな若い時分のことなど覚えてやしませんよ。それに私が先生にお目にかかったのほほんの数える程で、世間で取り沙汰される程問題ではありません。小説はどこまでも小説で、草枕のお那美さんはやっぱり那美さん、私は私です。そんな古い話を持ち出されては困ります』」。
つまり、実際のインタビューでは卓は、漱石が卓に恋をし、3年も通ってきたなどは語っていないし、認めてもいない。
この記事に対して、鏡子夫人も「迷惑千万」と怒ったが、卓は怒りだけですまさなかった。
「月報」の森田草平のインタビューで、卓は次のように具体的に語っている。
「或年の或婦人雑誌に、何でもわたくしが先生の初恋の女でもあったかのようなことを書いたことがあります。しかも、それがわたくしの口から出たように書かれているのだから堪りません。わたくしはもうその予告の出た時から雑誌に注意を与えて置きましたが、いろいろ詫びて来ながら、とうとう出してしまいました。で、私もかんかんに怒って、利鎌の友人で弁護士になっていらっしゃる下川さんにお願いして、とうとう訴訟を起しました。〔略〕法廷では、先方の弁護士はただもうあやまる一方でしたが、判事さんの仲裁で、雑誌には取消しの記事を載せるが、新聞に広告することだけは勘弁するということで妥協しました」。
「予告」(新聞広告)を見て卓は、すぐに記事の掲載を止めるように抗議した。それでも記事は掲載された。卓はただちに利鎌の友人下川芳太郎を弁護士に立て、訴訟を起こした。理由は、自分のためだけでなく、同じような被害者が出るのを止めたいという気持ちもあった。「わたくし一人なら構いませんが、これから後わたくしの様に迷惑を蒙る方が何人あるか知れないと存じまして、女だてらにそんな事もする気になったのでございます」。
双方の弁護士が立ち会っての示談の話し合いがもたれ、雑誌に謝罪広告を出すことで和解した。卓側は新聞への謝罪文掲載も主張したが、それは見送られた。
卓は、著名人の恋愛話をスキャンダラスに書きたてるジャーナリズムに対して、「女だてらに」といいながら、少しも逡巡を見せずに行動した。下川弁護士のバックアップがあったとはいえ、この顛末には卓の意志の強さ、並々でないプライドの高さを見ることができる。
昭和3年
卓と鏡子夫人・娘婿松岡譲らとの交流
この年、鏡子夫人と松岡は、『漱石の思い出』をまとめるために熊本と松山を旅行した。初めて訪れた小天も、小説どおりの、大変いいところだと書いている。
松岡もその著『漱石先生』に、「漱石のあとを訪ねて」と題してその詳しい同行記を収めた(『婦人世界』昭和7年9、10月号に「熊本編」「松山編」として連載)。熊本編では九州日々新聞社の記者等とともに、小天や熊本市の旧居、熊本五高などを訪ねたことを記している。
小天行きは熊本入りの初日で、村長らの歓迎を受け、当時すでに水本家の所有になっていた別邸の、漱石が宿泊した部屋で、『草枕』をめぐる座談会を開いたり、古老の話を聞いたりした。
この旅の段取りに、卓はひと役買っていた。
漱石ゆかりの別邸も鏡が池の別邸も、そして本邸跡もすべて他人の手に渡っていたが、売り渡した先は周知の間柄である。鏡子夫人が訪れるにあたって、卓は彼らに連絡をとった。鏡が池のモデルとされる別邸の持ち主で、その当時は村の郵便局長をしていた田尻準次に案内を頼んでおいた。ところがちょっとした行き違いで、準次は彼らに会えなかった。
「小天の本村に入って、先ず郵便局長の田尻さんを訪ねる。〔略〕前田さんの方から私達が行くから案内を頼むと言ってある方だ。庭には蜜蜂が飼ってある。折ふし老主人は私達の来訪を待ち兼ねて、恐らく明日か明後日かになるであろうから、迎え旁々打ち合わせに様子を見てくるとあって、熊本へ出られた後だという。してみるとすっかり行き違いになった訳で恐縮だ。それでは私がとあって、若主人が先に立って案内される」。
卓からの連絡を受けて、一行を心待ちにしていた準次は、様子を見に熊本に出かけてしまった。ところが日程が1日早まって行き違いになってしまった。親戚筋の田尻準次は、前田金儀とともに案山子につねに付き従ってきた人物であり、卓もよく知り、漱石にも会っている。鏡子夫人に話したいことは山ほどあったはずだ。その準次が不在だったため、座談会は、「微かに覚えているようだという水本老母以外、小天に於ける漱石を知ってる者がないので、話は自然他の方へそれた」という残念なことになった。
松岡は、同行カメラマンに指示して別邸の写真を何枚も撮り、案山子の墓前での記念撮影も行った。松岡は、「卓子さんにいい土産だ」と記す。卓らにとって、もはや帰る家もなくなった故郷だが、父親の業績を伝える大きな基が立派に残っている。老い先短くなった卓に見せたら、どんなに喜ぶだろうという、松岡譲の優しい思いやりだ。
昭和6年1月
異母弟利鎌(33、東京工業大学教授)、没。
昭和7年
『婦人世界』(昭和7年9月号)記者の描く卓
「夏目漱石の『草枕』の中に出て来る、あの魅力ある那美さん(本名前田卓子女史)は、今、東京市外池袋大原一三九〇に当年取って六十五歳〔数え年〕の身に相変わらずの、しっかりさで前田家大政所として暮らして居る」
「那美さんの現在の風貌は、かなり近代的感覚がある。先ずロイド眼鏡だ。丁度記者が訪問した時は軽い脳溢血を起して臥床中だったので喫煙姿は見るを得なかったが煙草も好きだと言う。成程、文豪漱石をしてあの作を書かしめるだけの容貌は今尚『若かりし頃はなあ』と感嘆させる上品な美くしさだ」。
『草枕』に描かれた那美さんは「かなりなモダンガールだ」が、「しかし記者の面接した感想を率直に言うと、成程、聡明と溌剌さとはあるけれども人柄そのものは、もっと道徳的で温和な女性だ」。
昭和10年
森田草平のインタビューを受ける。
昭和13年9月6日
卓(70歳)、赤痢のため板橋区豊島病院で没。
宮崎蕗苳(滔天と槌の孫)、前田佑子(下学の孫)、竹中彩普(九二四郎の孫)らの証言による晩年の暮らしぶり。
槌とは毎日行き来した。時折、利鎌を葬った平林寺のお墓に参ったり、千葉にいる甥の前田学太郎(長兄下学の息子。佑子さんの父)の家を訪ねた。平林寺にはお弁当を持って一日がかりで出かけた。お供したことのある蕗苳さんは、「大きな座敷に案内されて、ていねいにもてなしていただきました。お弁当もそこで食べさせていただきました」という。熱心に参禅していた利鎌の母親ということで、寺側としては大切に扱ったのだろう。一方、学太郎の家にもちょいちょい泊まりがけで出掛けた。「入ってくると部屋がパッと明るくなる」にぎやかなお卓おばさん。「父(学太郎)とは姉弟みたいでしたね。お互いに言いたいことを言っていましたよ。ある時、手ぶらで来たおばさんに父が文句をいうと、次のときは山のようにお土産を持ってきたり」。
(おわり)
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