鎌倉 古我邸
*明治42年
「西洋婦人の地位人生の羨ましく、日支婦人の地位人生の味気無き」
スイス生まれの日系混血児坂井八三郎の回想記「滔天宮崎寅蔵と私」(『祖国』昭和29年5月1日号)。
「明治四十二年六月十七日、母の三回忌を済ませた自分は、其年の十月スイスへ帰ることになり、〔略〕 いよいよ離日と滔天夫人に決別するや、同夫人それから姉上は口を揃え、西洋婦人の地位人生の羨ましく、日支婦人の地位人生の味気無きものなるの事を訴えられた」(『宮崎滔天全集』第5巻、解題)
40歳前後の卓・槌姉妹が、ヨーロッパに帰る友人に向かって、「日支婦人の地位人生の味気なさ」を訴えた。卓も槌も、中国の革命家たちと関わり、彼らの行状を見ていたが故の「日支婦人」である。自分たち自身の体験だけでなく、革命指導者である孫文や黄興らも、当たり前のように第二夫人を持っていた。卓と槌が長いこと抱いて生きてきた無念を端的に示している。
そして、この嘆きは、彼女たちの中に男女同権意識が深く根を下ろしていたことの証しでもある。強い同権意識があったからこそ、現実との摩擦を敏感に感じることになった。そしてそれは、男性民権家によって養われた自由と平等の権利意識だけでなく、女性民権家たちが唱えた男女同権論の影響だった。
明治42年
漱石好みの新橋芸者おえんと卓、森田草平、寺田寅彦
漱石と卓の間には『草枕』の画工と那美のような淡い心の交流があったように思う。男と女として一歩を踏み出すことはおそらくなかったが、心と心は確かに触れあったのではないか。
漱石の次男夏目伸六『父・夏目漱石』の中のエピソード。
漱石は生涯、女道楽や遊蕩には走らなかったが、でも例えばこんな女を好んでいたという。
明治42年頃、漱石は、おえんという当時有名な新橋芸者のブロマイドをわざわざ買ってきて、机上に飾り、ときおり疲れた目を休ませていたという。そしてその顔が、卓の面影と似ていたという。
「森田さんのお話では、『草枕』に登場する「志保田の嬢様」那美さんのモデルとなった前田つな子のおもかげと、おえんの容貌との間には、どこか似かよった所があったとかで、後年、寺田寅彦さんが、つな子の若い頃の写真を見て、『あの顔はいい。あれなら先生も気に入ったろう。きっと先生色気があったもんだから、余り口がきけなかったんだね』と云ったそうである」と。
寺田寅彦が、おえんと卓の面影が似ていると指摘し、森田草平がその言葉を伸六に伝えた。
このエピソードは、森田草平『夏目漱石』の「漱石と寺田博士」にも出てくる。
昭和10年10月24日のこと。この頃、森田は、『漱石全集』の「月報」に載せる「言行録」のことで、たびたび寺田宅を訪れていた。寺田が病床についたと聞いて、森田が見舞いに行った日、これが寺田との最後の面談になったのだが、寺田は元気に起きてきて、その月に第1回配本のあった『漱石全集』第4巻と、卓の談話と写真がのった「月報」の「言行録」の話題になった。
寺田寅彦がこう言った。
「『あれはインテレクチャルな好い顔で、これなら先生も気に入ったろう。僕もこの顔は好きだ。あの話の中に、山川〔信次郎〕さんはよく話しをなさるが、先生は滅多に口を効かれなかったとあるね。あれは先生、自分が気に入っていたものだから、色気があるので口が利けなかったんだね』と、寺田さんは又顔中皺苦茶にして笑われた」。
また、鏡子夫人『漱石の思い出』には、この旅で無口だった漱石が、実は卓と話し込んだというエピソードもある。
「ある時なんかは何か用があってちょっと来てくれ」と卓が呼ばれて、部屋に行った。卓が食べかけのみかんを持ったまま出向いたところが、「たいへん長い話で、終わって放免になった時には、蜜柑の皮がバリバリするまでにかわいていたなどということもあったと申します」。
このエピソードは、後年卓が鏡子夫人に語ったことである。漱石没後、鏡子夫人と卓は親しくつきあっていた。
漱石は、ウマが合う友人、山川とは風呂に入るのを忘れるほど話し込んだ。漱石は卓もウマが合ったのだと思える。用事を言いつける、あるいは苦情をいう、初めはそんなことだったのかもしれないが、それからそれへと話が弾んだことを、このエピソードは物語っている。
そして卓もまた、ウマの合う漱石に心ひかれた。
上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」は、卓が晩年共に暮らした弟九二四郎の息子の妻、花枝さんの言葉を伝えている。「一生のあいだ、ロクな男には出会わなかったが、夏目さんだけは大好きだったよ」と。またこの花枝さんは、漱石と卓の二人だけの写真も見ていると上村に証言したという。傘をさした浴衣姿の夏の写真だとか。
漱石と山川が小天を訪れたあと、彼らと卓はけっこう親しく交流したらしい。「月報」の森田草平のインタビューの中で卓は、ときどき熊本の山川の下宿を訪ねたことや、狩野の下宿の世話をしたことを次のように話している。
「わたくしは故郷におります時分に、山川さんとは極くご懇意に願いまして、ちょくちょく熊本のお宿元へも伺いました」。その時には、いつも襖を開け放ち、あくまで友人としての訪問だったと断っている。また、「その外狩野さんが初めて赴任していらしった時も、わざわざ三里の山越えをして、熊本まで出掛けて下宿のお世話までいたしたような次第ですが、夏目先生のお宅へは、奥様もありましたし、何となく気兼ねで一度もお伺いしたことがありませんでした」。
狩野が熊本に到着したのは、漱石と山川が小天から帰った明治31年正月のことで、漱石は1月7日に狩野を旅館に訪ねている。下宿探しはそれから間もなくのことだろう。
山川とは友人としてのつきあいだったことの強調と、漱石の家に対する気兼ねというこの言葉のニュアンスに、卓の秘めた思いがあるように思える。
(つづく)
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