皇居東御苑
*明治30年
孫文の来日
1866年に広東省香山県で生まれた孫文は、字を逸仙、号を中山という。中国や台湾では「孫中山」、欧米諸国では広東音で「Sun Yat-sen(孫逸仙)」と呼ばれるが、最近は日本と同じ「孫文」という呼び方も普及してきた。
10代の頃に兄の住むハワイに渡って英語を勉強し、香港で西洋医学を学んで医師になった。だが政治に強い関心を持ち、革命結社「興中会」を組織して、1895年に清朝政府を打倒しようと広州蜂起を企てた。それが露見して清朝政府から指名手配され、逃走。香港から神戸、横浜経由でハワイへ逃亡し、さらにイギリスへ行った。そして2年後の1897年、改めて日本へやってきた。
孫文(30歳)は、逃亡中のロンドンで大英博物館の希少本を書写している南方熊楠(29歳)と知り合って意気投合し、2ヶ月間毎日行き来して親友になった。医師・孫文と博学・鬼才の熊楠は、科学知識から東洋と西洋の比較、歴史や風俗習慣、アジア民族の救済に至るまで、話題は尽きなかった。
孫文の来日目的は、横浜華僑の馮鏡如らの支援を受けて、中国に近い日本の地で革命の準備を始めるためであった。
横浜の華僑宅に滞在中、犬養毅の特命を帯びた宮崎滔天が来訪し犬養毅との面会が叶った。その晩、平山周と京橋の対鶴館に泊まったが、平山周の回想によれば、宿帳に中国人の名前を書くわけにいかず、通りがかりの日比谷で見た大邸宅、中山忠能侯爵の表門にあった表札を思い出し、宿帳に「中山」と苗字を書き、孫文が「樵」と下の名前を書き添えた。日本名としては少し妙な感じがすると平山は言ったが、孫文は「自分は中国の山樵だから、これでよい」と言ったという。
犬養毅は孫文を気に入り、東京に置くことにして、大隈重信を通じて東京府に申請して許可を受け、宮崎滔天と平山周に命じて住む家を探させた。
最初に引っ越したのは麹町区平河町5丁目30番地だった。しかし中国公使館とは至近距離にあり、孫文は落ち着かなかった。というのも、1年前のロンドン滞在時に、散歩の途中で中国人に話しかけられ、強引に中国公使館へ連れ込まれて監禁された苦い経験があるからだ。そのときは危うく清国に送還されそうになったが、ロンドンのメディアが「清国革命家の監禁事件」として大々的に報じたため救出された。
間もなく、牛込区早稲田鶴巻町40番地(現、新宿区早稲田鶴巻町523番地)にある大邸宅を借りた。松隈内閣時代に山林局長を務めた高橋琢也の所有する700坪の大邸宅である。東京専門学校(現、早稲田大学)から大通りを挟んだ向かい側にあり、馬場下に居を構える犬養毅の邸宅とも目と鼻の先にある。平山周の語学教師という名目にして、孫文の同志の陳少白と3人で住むことにした。表札は「中山」とした。
それ以後、孫文は毎日のように犬養邸を訪問し、政治談議を交わし、夫人の手料理をご馳走になった。風呂好きの広東人らしく、訪ねると真っ先に風呂を所望し、ときには泊まっていくこともあったらしい。孫文は英語が得意だったが日本語はわからず、犬養との会話は筆談であった。
犬養毅は後に鵜飼熊吉のインタビューに答えて、孫文を次のように評している。
孫が初めて日本に亡命したときは三十代の血気盛りで、言うことは理想論が多かったけれども、大局に通じ見識もあり、それに人間が頗る正直で金に奇麗で支那人臭くなく、同志に対しても親切であった。
犬養毅と打ち解けると、孫文支援の輪が広がった。立憲政治を主張する政界の人々と知り合い、福岡・玄洋社の創設者のひとりで国家主義運動の草分け的存在であった頭山満に紹介され、孫文は頭山の主張する「大アジア主義」に深く共感した。生活費も、玄洋社社長で炭鉱経営者の平岡浩太郎が支援してくれることになった。
明治31年
梁啓超の日本亡命
1898年10月、西太后の軍事クーデター「戊戌政変」で清国を追われた梁啓超は、日本へ亡命。船中で漢詩の一節を詠んだ。
鳴呼 済艱乏才兮 儒冠容容
佞頭不斬兮 侠剣無功
君恩友仇両未報 死於賊手母乃非英雄
割慈忍涙出国門 掉頭不顧吾其東
ああ、艱難を救うには才が乏しく、儒学の冠をかぶる者は易きに追随する。
頭をへつらい斬らず、侠士の剣は効なし。
君子の恩も友の仇もふたつとも報いるをならず。賊の手により死す者はすなわち英雄ならんか。
慈を割き涙を忍んで国門を出る。頭をふるって顧みず、われは東へ行かん。
吁瑳乎
男児三十無奇功 誓把区区七尺還天公
不幸則為僧月照 幸則為南洲翁
不然高山蒲生象山松陰之間占一席
守此松筠渉厳冬 坐待春回 終当有東風
ああ、
男子三十にして功もなし。誓ってつまらぬ私が身を天に還さん。
不幸ならば僧の月照となり、幸いならば西郷南洲となろう。
さもなければ高山(彦九郎)、蒲生(君平)、(佐久間)象山、(吉田)松陰の間に一席を占めよう。
松竹の常緑を守りて厳冬を渡り、座して春の巡るのを待ち、いつの日にか東の風に当らん。
梁啓超は広東省新会県の人で1873年生まれ。字は卓如、号は任公。幼時から神童と呼ばれ、17歳で科挙試験の郷試に合格して「挙人」の称号を得る。18歳で康有為に師事して一番弟子となり、清朝の政治改革運動に従う。
1898年夏、光緒帝(27歳)が康有為の提言を容れ、日本の明治維新に倣って政治改革「戊戌変法」を実施したが、守旧派の既得権益に触れて怒りを買い、西太后の画策した軍事クーデター「戊戌政変」により潰されてしまう。光緒帝は幽閉され、改革派は逮捕・処刑されたが、康有為は逃げ延びた。梁啓超も北京の日本大使館へ駆け込み、折から清国訪問中だった伊藤博文に助けられて日本へ亡命した。
天津で戦艦「大島」に匿われ、失意のどん底にいた梁啓超を見るに見かねた艦長が、東海散士『佳人之奇遇』を手渡した。世界7ヶ国の歴史を説いて日本国の危機を訴えたこの政治小説に、梁啓超は夢中になり中国語に翻訳した。
その後、梁啓超は14年間、日本で亡命生活を過ごすが、貪欲な情熱で「日本学」や近代科学を吸収していった。
明治31年10月21日、広島経由で東京へ到着すると、その晩は北京の日本大使館から付き添ってきた平山周に伴われて、麹町区平河町4丁目の旅館三橋旅館(三橋常吉経営)に宿泊した。翌22日、牛込区早稲田鶴巻町40番地の高橋琢也方へ移ってからは、梁啓超は手紙を書くことに没頭する。
まず、伊藤博文に感謝の意を表するのと同時に、光緒帝を救ってくれるよう嘆願して面会を求めた。だが伊藤から返事はなかった。他の政治家たちにも面会を申し込んだが、だれからも反応はなかった。
ようやく外務大臣大隈重信の代理人志賀重昂と再会できることになり、梁啓超は徹夜で「光緒帝救出作戦計画」を作成して持参した。10月26、27日、梁啓超は志賀と筆談で懇談した。志賀は梁啓超の熱意に打たれ、同情の念を示した。だが、退職間際の志賀には権限もなく、期待した日本政府の支援には繋がらなかった。日本政府は形ばかりの機会を設けて話を聞いてやり、それでお茶を濁した。
日本の新聞で「性急な改革が今般の禍を招いたのだ」との改革派に対する批判記事が掲載されたので、梁啓超は、知識界の大御所品川弥二郎子爵に丁重な手紙を書き送り、日本の世論に対する違和感を切々と訴えた。
手紙の末尾には、
「(梁)啓超は敬愛する(吉田)松陰、東行(高杉晋作)両先生にあやかり、いま名を吉田晋と改めました。現住所は牛込区鶴巻町四十番地です。もしお手紙を賜りますれば願ってもない喜びに存じます」と書いた。
日本に来た中国知識人の多くが日本名を名乗っていたのは、この時代の特徴的な現象である。亡命者の場合は安全のためでもあったが、日本と日本人に尊敬の念を抱いていたことは確かだろう。
一方、康有為は香港から宮崎滔天に伴われて日本へ亡命した。10月25日、新橋駅へ到着した康有為を、梁啓超と清朝の若手官僚だった王照が迎えた。
康有為も三橋旅館で数日宿泊した後、10月29日、牛込区市谷加賀町1丁目3番地の柏原文太郎が所有する貸家へ移り、梁啓超も合流した。
康有為と梁啓超は清国再生の提案書をまとめ、日本政府に提出したが、日本は清国政府から「犯罪者を保護している」との抗議を受け、最終的に康有為に国外退去を求めることになる。「光緒帝からの手紙」を持っているとして権威を振りかざす傲慢な康有為に手を焼いたこともある。しかし、梁啓超には「学術研究」という名目で日本滞在許可している。礼儀正しく物静かな梁啓超は、日本政府や日本人から好感を持たれた。
11月11日、梁啓超は横浜華僑の鴻鏡如らの資金援助を受けて、横浜に移り『清議報』(10日毎に発行するミニコミ紙)を創刊した。
この年の冬、梁啓超は「戊戌政変」に関する記事を連載し、後に『戊戌政変記』として1冊にまとめた。この頃から、孫文ら過激な「革命派」に比べて、穏健な梁啓超が「改良派」と呼ばれるようになった。
明治31年
駐清国全権大使矢野文雄が清国政府に継続的な留学生の派遣を説く
(つづく)
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