2019年2月27日水曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(11) 柿手春三、寺田政明、古沢岩美、上京。松本竣介(16歳)盛岡中学絵画倶楽部に入部。佐伯祐三(30歳)パリで死去

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(10) 「靉光は、利行の絵に接したために迷いが生じ、それからしばらく二科に落選しつづけた。」(『池袋モンパルナス』)
からつづく

1928年(昭和3年)
柿手春三、広島から上京
「柿手はむかし池袋のちかくの長崎町に住み、井上長三郎、寺田政明、古沢岩美、吉井忠らとともに「池袋モンパルナス」のなかでも、もっとも個性的といわれた”長崎派”の一員でもあった。」

「柿手は汽車で夜をすごして朝、東京につき、滝野川の次兄の家で荷をとき、その翌日にはもう太平洋画会研究所の門をくぐった。この研究所の性格を知っていたわけではない。雑誌「みづゑ」でみた画塾の広告のなかでいちばん目だち、かつ兄の家からちかいのがこの研究所だったのだ。面倒くさい受験勉強をして、官立の東京美術学校をねらうほどの心の余裕は柿手にはなかった。・・・・・」(『池袋モンパルナス』)

1928年(昭和3年)
松本竣介16歳
春、盛岡中学に絵画倶楽部が創部され入部。
5月20日、市内中学生の水彩・油絵スケッチ競技会に参加、油絵の部2等に入賞。
8月、その入賞作品の裏面に作品批判の自記を残す。
12月17日、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載される

1928年(昭和3年)
寺田政明、本格的な絵の勉強のため上京を決意し、この年上京、小林萬吾の同舟舎絵画研究所に通う。

1928年(昭和3年)
古沢岩美、上京して岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品。

1928年(昭和3年)
吉井忠、第9回帝展に《祠》で初入選。翌年より太平洋画会展に出品を始め、また第10回帝展に《雨の日》で入選する。
31年第27回太平洋画会展に《荒れの後》を出品して弘誓賞受賞。
翌年の同展に《信濃の春》などを出品して中村彝賞を受賞する。
太平洋画会研究所で学んだ、対象の再現描写を重視する写実的な画風が世に認められるものとなったと言えよう。

1928年(昭和3)
佐伯祐三30歳
2月、荻須、山口、横手、大橋とパリ東郊のヴィリエ=シュル=モランに写生旅行。
3月、雨天の中での制作がたたり、風邪を引いて寝込む。29日、病床につく。
4月、南仏への転地療養を考えたが病状が悪化。
6月20日、失踪しクラマールの森で自殺未遂。23日、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。
8月16日、同病院で死去。30日、6歳の彌智子がオテル・デ・グランゾムで病没。

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」






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