【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その5)「〔4日頃」安田邸の下流100メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パッと血潮が吹き上がる。またたくうちに河水が朱に染まって、血の河となった。.....それから目と鼻の先に安田邸の焼跡がある。.....その南門のところに、〔略〕5、6人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。.....」
より続く
大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;墨田区/菊川橋・錦糸町・亀沢〉
湊七良〔労働運動家〕
〔4日?〕本所区亀沢町都電車庫の焼跡に針金で後手に縛られて30歳位の美男の青年が、座っていた。2人の憲兵がそれを護っている。自警団は渡してくれと交渉している。この美男鮮人は毒を投じたというのだ。やがて憲兵はどこかに連れ去った。
〔略〕大島3丁目などは焼土化から免れた。私が仮宿していた友人の家の近くに、中華民国の当時苦力と呼ばれていた労務者が大勢居住していた。鮮人の虐殺を見て帰途、錦糸堀に来ると、路上に浅黄の中国服を着た若者の死体が転っていた。大島3丁目の中国人寮にいる人だ。
当時は江東方面の川といわず、いたるところ死屍がごろごろしていた。錦糸堀終点の馬車の中に、真黒焦げになって死んでいる人が沢山焼電車に乗ったままになっていた。この中華民国の苦力の死は勿論、地震によってまねいた自然死でなく、自警団の犠牲によるものである。この死体の腰に、大きなウナギが針金でぶら下げてあったのが印象的であった。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年記念号」、労働旬報社)
〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
近藤三次郎〔当時カスケート麦酒醸造元日英醸造会社勤務〕
鮮人に対する一般の反感は非常なもので、青年団等は急造の竹槍等を以て多数の鮮人を刺殺したり。ことに向島の白鬚橋等には多数の鮮人が倒れているのを見ました。死体や負傷者等は手のつけようもないと見えて私が発った4日の正午頃まではそのままとなっておりました。
(「鮮人に対する反感加わる」『北海タイムス』1923年9月7日)
〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉
内田良平〔政治活動家〕
4日午後両国国技館内警察署へ捕われたる3名の鮮人あり〔略〕その内1人は群衆の為に殺され、2人は拘置せられたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
浦辺政雄〔当時16歳〕
4日には何万人も死んだという被服廠跡にも行ってみた。中に入ると、死体の山に足がすくんだ。それまで多くの死体を見てきたが、被服廠跡のすごさには比べようがなかった。
そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けポックイで押さえて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口ぐちに「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。
〔略〕帰り道、三ツ目通りの角で、一人石責めにあっていました。体半分が石に埋まって死んでいるのを、「こいつ、こいつ」って。〔略〕一つ投げたから、「お父さん止めてくれ」って。2発目を投げようとするから、「死んだもんに投げたってしかたないじゃないか」って、止めさせましたがね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
愼昌範
〔荒川堤防、京成鉄橋辺で〕4日の朝2時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」 「朝鮮人を殺せ」などの声が聞こえました。〔略〕間もなく向こうから武装した一団が寝ている避難民を一人一人起し、朝鮮人であるかどうかを確かめ始めました。私達15人のほとんどが日本語を知りません。そばに来れば朝鮮人であることがすぐ判ってしまいます。
武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で日本刀をふり降し、又は鳶口で突き刺して虐殺しました。一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かっだのが、林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語はほとんど聞きとることができません。自警団が彼の側まで来て何かいうと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張りあげました。その言葉が終るやいなや自警団の手から日本刀がふり降され、彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。
このまま坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟〔愼〕勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。
とびおりてみると、そこには5、6人の同胞がやはりとびおりていました。しかしとびおりたことを自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで私達は泳いで川を渡ることにしました。すでに明るくなり、20〜30メートル離れた所にいる人も、ようやく判別できるようになり、川を多くの人が泳いで渡っていくのがみえました。
さて、私達も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまにきこえ、泳いで行く人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで、近くの葦の中に隠れることにしました。しかし、ちょうど満潮時で足が地につきません。葦を束ぬるようにしてやっと体重をささえ、わなわなふるえていました。
しばらくして気がつくとすぐ隣にいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張りあげだしました。声を出せば私達の居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れてはいてもすでに夜は明け、人の顔もはっきり判別できる程になっています。やがて3人の自警団が伝馬船に乗って近づいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐ろしい形相でした。
死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今までの恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しく燃え上がりました。今はこんなに貧弱な体ですが、当時は体重が二十二頁五百〔約85キロ〕もあってカでは人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持ちで一杯でした。私は近づいてくる伝馬船を引っくり返してしまいました。そして川の中で死にもの狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一隻の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕えられて岸まで引きずられていきました。
びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふりおろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にださつき日本刀を奪ってふりまわしました。私の憶えているのはここまでです。
それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ、竹槍で突かれて気を失ってしまったのです。左肩のこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右脇のこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれは何で傷つけられたものか、はっきりしません。頭にはこのように傷が4カ所もあります。
これは後で聞いたのですが、荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架に乗せて運ばれたのではなく魚市場で大きな魚をひっかけて引きずっていくように2人の男が鳶口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この2カ所の傷は私が気絶したあと馨察まで引きずっていくのにひっかけた傷です。私はこのように引きずられて寺島警察署の死体収容所に放置されたのでした。
私の弟は、頭に八の字型に傷を受け、義兄は無傷で警察に収容されました。どれほど経ったかわかりませんが弟達に「水をくれ」という声が、死体置場の方から聞こえたそうです。弟は、その声がどうも兄(私)の声のようだと思いその辺を探してみたけれど、死体は皆泥だらけで判別がつきませんし、死体の数も大変多く魚を積むようにしてあるので、いちいち動かして探すこともできなかったとのことです。その後豪雨が降り、そのため死体についた泥が、きれいに落ち始めました。3、4時間後弟は水をくれという声を再び聞いて、又死体置場に行き、とうとう私を探し出し、他の死体から離れた所に運び、ムシロをかぶせて置きました。
〔略〕朝鮮に帰ってみると、私の故郷(居昌郡)だけでも震災時に12名も虐殺された事が判り、その内私の親戚だけでも3名も殺されました。
(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
『浅草区史』
〔4日午後〕折しも今戸方面に鮮人大挙来襲の報に接したる。〔略〕その頃より鮮人に対する流言蜚語甚しく恐怖と不安一層その度を昂め、各町の夜警者は鉄棒又は白刃を提げ何人を問わず誰何する有様にて、その危険名状すべからず、しかも安寧秩序維持公安保持の職務にある警察官吏に依って一層この流言を昂張せしめ不安を愈々大ならしめ、心窃かにこれを憂い鮮人必ずしも不逞の行動をなすに非ず、十分保護を差加え本土人の義と侠を示し出来得る限り愛護を加え、その妄動を戒告するも恬として聞き入るべくもあらず、取敢ず各事務所に向って〔在郷軍人会〕正会員が訓練なき地方民に伍し軽挙盲動を戒むべしと通告し、又一面不安防遏の手段として差當りその範を示す為、向柳原町全体に亘り南元町警察署の諒解を得て分会長監督の下に正会員を基幹とする自衛団を組織せしめて終夜交代、11月20日までこれを継続せしめ偉大の効果と実績とを挙げ付近地方民のひとしく賞讃して措かざる所なり。
(浅草区史編纂委員会編『浅草区史・関東大震災編』浅草区史編纂委員会、1933年)
つづく
現在、以下の資料により【増補改訂Ⅳ】を準備中。
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