より続く
慶応4年
1月9日
・長州藩先鋒、大阪城入りし留守居の目付妻木多宮より城受取る。妻木、長州兵入城前に20万両運び出す。
・東上途中の長州藩、備後福山藩を恭順させ、家老に勤皇誓書を出させる。
・近江松ノ尾山妙寿院、東征先鋒隊編成。軍裁鈴木三樹三郎、湯川錬三郎、相楽総三。軍監科野東一郎、篠原泰之進。10日、赤報隊として再編成。
・相楽総三、金輪五郎と京都に向かう。太政官坊城大納言から勅定書下る。15日、松ノ尾山に戻る。相楽の不在中、山科能登ノ介が主導して彦根城(井伊家)より武器を調達。
・鷲尾侍従隊田中顕助の東1番隊、大阪敗兵と遭遇戦。/10.大阪出陣(300)。/13.大阪着。
・土佐藩6番隊40人(隊長箕浦猪之吉、軍監林亀吉)、皇軍総裁仁和寺嘉彰親王護衛のため大坂に向かう。伏見街道を南下。淀城に宿泊。仁和寺宮は枚方に発った後のため、翌日これを追うことにする。
・総裁の下に副総裁を置き、三条実美・岩倉具視が任命される。25日、総裁顧問局設置、木戸孝允・大久保利通が就任(大久保は2月2日小松帯刀と交替)。
・外国事務総裁・外国事務取調掛を設立(総裁、嘉彰親王)。
・大津代官石原清一郎正美、政府参与・東海道鎮撫総督橋本実梁を訪れ、今後は朝廷の御役儀を務め、これまでどおり大津町支配を願い出る。11日、橋本は従来どおり旧管地の管理を石原正美に命じる。3月7日、大津裁判所設置、議定長谷信篤が裁判所総督に就任。閏4月25日、大津県が成立。
1月10日
・大阪城爆破炎上。目付妻木多宮の仕掛けたもの?
・朝敵処分
慶喜・容保・定敬・勝静以下27名の官位剥奪。会津藩・桑名藩の京都藩邸没収。旧幕領を新政府直轄地とする(「農商布告」)。
第1等:徳川慶喜、第2等:会津松平容保・桑名松平定敬、第3等:予州松山松平定昭・姫路酒井忠惇・備中松山板倉勝静、第4等:宮津本荘宗武、第5等:大垣戸田氏共・高松松平頼聴。3等までが重罪で追討・開城・城領地没収。4・5等は藩主が帰順を誓い、上京し先鋒を願い出れば許される。
・東征先鋒隊、赤報隊名乗る。約300人。1番隊長相楽総三、2番隊長鈴木三樹三郎、君側頭取・参謀山科能登ノ介。
・山国隊進発
山国、水口市之進ら会合。農民隊組織決定。11日、東軍・仁和寺宮へ参加27人、西軍・西園寺への参加76人、出発。
・新選組、近藤芳助らの負傷者は富士山艦に搭乗。可動隊士は順動丸に搭乗。
・王政復古の通告。
「明治元年一月十日付 日本国天皇、各国帝王及び其の臣人に告す。さき将軍徳川慶喜政権を帰するを請い、制してこれを允し内外政事これを親裁す。乃ち日く。従前の条約、大君の名称を用いると雖も、今より以後、まさに天皇の称を以て換ふべし。しかして各国交際の職専ら有司等に命ず。各国公使この旨を諒知せよ」。
1月11日
・新政府、内乱発生を理由に諸侯会議を中止し、諸侯に対して国力相応の兵士を率い上京命令(16日、東北諸藩は率兵・上京に及ばず、とする)。
王政復古政府の公議政体派の目指す諸藩連合政権構想を完全に否定。鳥羽・伏見の戦いで、薩長倒幕派と公議政体派との力関係が逆転。2月末には相当数の諸侯が上京。
・神戸事件
備前岡山藩家老日置帯刀隊、西宮警備の途中、神戸居留地(神戸三宮)で外人兵と接触、2人殺害。英米仏陸戦隊と交戦。外国兵神戸占領。2月10日、家老日置謹慎・砲兵隊長滝善三郎の切腹で決着。
事件後、英米仏普、兵庫碇泊の諸藩所有船6隻拿捕、略奪。1/16.に船は戻るが金品は戻らず。1/12.迄。宇治川口、生田口一帯を砲で固め検問、軍事占領状況。
・土佐藩に譜代松山藩・高松藩討伐の勅下る。
・慶喜、幕府軍艦開陽で品川着。
・土佐藩6番隊(箕浦隊)、大坂着。大坂には幕兵はおらず、仁和寺宮も帰京の様子。午後、新任務として堺に向かう指令出る。紀州街道を南下。2時間後、堺元奉行所に到着。
・新選組搭乗の富士山艦ら、兵庫沖を出帆。その夜は紀州由良港へ停泊。
・三野村利左衛門、5ヶ月ぶりに小栗上野介忠順を訪問。
・竹沢寛三郎(阿波の儒教・国学・神道家、草莽志士)、岩倉具視に呼出され、美濃の笠松と飛騨地方を鎮定し王政に帰属させること、岩倉具定らと東山道鎮撫総督に協力するよう口達を受ける。竹沢は即日150余の門弟を率い、自費で戦費を賄い出発。竹沢は正式沙汰書を要求するが、多忙との理由で断られる。後、正式な許可なく、岩倉の個人的了解で、私的に行動したとされることになる。14日、笠松陣屋入り、美濃・伊勢の天領12万石を接収。飛騨に向う。
・清水紫琴、岡山県和気郡に誕生(京都生まれ?)。
景山英子と共に政談演説など女権運動に没頭、植木枝盛・大井憲太郎らと親しむ。古在由直(後、東京帝国大学総長、農学)の妻となる。古在がドイツ留学中主に「女学雑誌」「太陽」等に小説や随筆を書いて文名を上げるが、古在帰国後に小説の執筆を禁じられ、明治34(1901)年1月以降筆を絶つ。昭和8(1933)年7月31日没。
つづく
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