2020年6月21日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月6日~10日 「10日ほど過ぎて、私たち朝鮮人労働者4人は死体処理にかり出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人に取り囲まれて、江東の砂町方面にいきました。 錦糸堀には相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といって、貧しい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人々はほとんど殺されたようでした。.....小さな子供まで、殺されていました。」 (増補改訂Ⅲ 終)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月5日(その2)「5日の日であった。「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、5、6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通りがかりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。 死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。.....」
より続く

大正12年(1923)9月6日
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
伊藤一良
〔6日、吉原を見た帰途〕吉原土手のお歯黒どぶに、電線で十重二十重に縛られて投げ込まれた死体を続けて2体見たが、流言蜚語からあんな無惨なことになったのかと思った。
(目白警察署編『関東大震災を語る - 私の体験から』目白警察署、1977年)

鹿島龍蔵〔実業家、鹿島組理事、当時田端在住〕
9月6日〔略〕今戸の建具屋木村来り、自分の避難の話から、不逞鮮人(ママ)の話に及ぶ。鮮人(ママ)を殺した事を自慢していた。これ等の輩にも困った物だと思う。
(武村雅之『天災日記 - 鹿島龍蔵と関東大震災』鹿島出版会、2008年)

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
桜井鯛吉〔新潟県小出町より調査のため上京〕
〔9月6日、上野で〕自警団は樹影草中に潜みて突如として誰何闇を破りて現われいずれも竹鎗日本刀を携え言尖り検問を受く5回これを破りて至る。〔略。精養軒の近衛歩兵第四連隊第一大隊本部で〕本部退出のとき歩哨に水を乞い同軒前の井に歩を進むれば歩哨曰くその井は主義者の婦女毒薬を投ぜしを知らずして精養軒コック1名悶死せしものなりとて庭内に案内を受けしに復哨にしてしかも隠哨なるより慄然たるの感あり。
(桜井鯛吉『復刻・関東震災救護上京概況 - 大正十二年九月壱日:小出町救護班』小出町教育委員会、1998年)

〈1100の証言;場所不明〉
青柿善一郎〔労働運動家〕
〔6日、東京からの汽車の屋根で〕私の周囲には、群馬県から災害のあと始末に来ていたという消防たち、鳶口をかついだ連中が20〜30名も乗っていた。汽車は時々鮮人がおるなどといって止めさせられ、泣き叫ぶ朝鮮人を引きずり出してひどいめにあわせたりした。〔略。たまりかねて抗議すると〕「おのれも社会主義者じゃな、そんなことをいうやつは主義者にきまってる。わしらはもう1週間も東京で防火と救援の仕事をやってきたが、どの町でも自警団によって鮮人の襲撃が伝えられていた。だから自警団と警察と消防団によって東京の秩序が維持されているのじゃ。おのれは主義者か鮮人か・・・」
(「大震災と抗議運動」『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社、)

9月7日
〔1100の証言:品川区/品川・北品川・大崎〕 
後藤甚太郎 〔7日頃〕私たちは品川駅を出発する時、駅前通りの東海道で異様な光景を見た。地方から東京に出てきている人の親族が、身内の安否を気遣い、馬車に物資を積んで、続々と東京に乗り込んで来ていた。その積み荷の上には、ほとんどの人が護身用として、竹槍や棒を積んでいた。警察は駅前に 検問所を設け、それらの凶器を全部押収し、山積みにして焼却していた。 朝鮮人の暴動騒ぎのデマがこれほど早く地方にまで広がっていたことに、非常に驚いた。また恐ろしいことであると思った。 (後藤甚太郎『わが星霜』私家版、1983年)

〔1100の証言:杉並区・中野区〕 
井伏鱒二〔作家〕 〔7日、高円寺で〕大通りの四つ角には、鳶口を持った消防団員や六尺棒を持った警防団貝が、3人4人ぐらいずつ立って見張をつづけていた。蟻の這い出る隙もないといった警戒ぶりである。高円寺の消防と中野の消防は互に連絡を取っている風で、自転車に乗った消防が中野の方に向って走って行き、それと反対の方に走って行く消防がいた。この人たちの着ている印半纏の赤い線が頼もしく見えた。〔略〕 阿佐ヶ谷駅はホームが崩れて駅舎が潰れていた。荻窪駅では線路の交叉している場所に、大きな深い角井戸があって、そのなかに鉄道の太い枕木が2本も3本も放り込まれていた。何かの呪ではないかと思われた。 〔7日夕〕中央線の大久保駅まで歩いて行くと、街道に暴動連中の警戒で自警団が出ているので、大久保から先は線路伝いに歩いて行った。〔略。中野駅付近で野宿しようとしていると〕「お前さん、日本人か」と私を咎める者があった。見れば、六尺棒を持って草履脚絆に身をかためた40前後の男が、枕元に立っていた。私は日本人だと答え〔略。その人の家に泊めてもらった〕。 (井伏鱒二『荻窪風土記』新潮社、1982年)

9月8日
〈1100の証言;北区〉
島村米蔵
何分、自警団と称する者ども自体が逆上しているのですから手がつけられずこんな騒ぎは随所に突発していて、その後〔8日以降〕、幾分秩序が回復した時ですら、客車の下から朝鮮の人がひきずり出され、衆人のリンチ寸前に、警官に保護されるのを赤羽駅で目撃したこともあります。
(島村米蔵『春愁秋思』私家版、1973年)

9月9日
〈1100の証言;北区〉 
桜井鯛吉〔新潟県小出町より調査のため上京〕 9月9日〔略。田端駅で〕夕景避難民に配給中群衆の中に怪しき鮮人を認め直ちに捕えて検せしに、右腰に竹槍にて突きさし10センチ大の創2ヵ所にありて、出血を厭わず大風呂敷を有す故憲兵をして査えしに、食麪包約四貫匁程ある故鮮語にて尋問するも答えず、日本語にて訊すも口を緘して答 えず、故に連隊に引き渡したり (桜井鯛吉『復刻・関東震災救護上京概況 - 大正十二年九月壱日:小出町救護班』小出町教育委員会、1998年)

9月10日
〈1100の証言;墨田区/菊川橋・錦糸町・亀沢〉 
金字文 10日ほど過ぎて、私たち朝鮮人労働者4人は死体処理にかり出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人に取り囲まれて、江東の砂町方面にいきました。 錦糸堀には相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といって、貧しい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人々はほとんど殺されたようでした。 私達が処理した死体には、火にあって死んだ人やトビロや刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別されます。虐殺された人は、身なりや体つきで同胞であることが直感的にわかるばかりでなく、傷を見れば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さな子供まで、殺されていました。 あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。 (朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

以上で、
 西崎雅夫編『関東大震災朝鮮人虐殺の記録〜東京地区別1100の証言』(現代書館)
による【増補改訂Ⅲ】を終える






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