より続く
慶応4年(1868)
1月27日
・太政官代を二条城に移す。
・深尾左馬之助が率いる土佐藩兵2ヶ小隊、松山藩入城。翌28日、四条隆謌命による長州藩兵2ヶ大隊、三津浜上陸。四国地方はさしたる争闘なく鎮定。大体において、正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う。
これより先、宇和島藩主伊達宗城が藩兵を派遣、13日松山城を接収。
軍事参謀兼中国四国征討総督四条前侍従は、21日、明石城で長州軍に伊予松山討伐の命を発す。第2次長幕戦で、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されるが、長州藩はこのことへの報復のため、四条に働きかけて松山討伐命令を出させる。
松山藩は、土佐・長州・宇和島3藩に狙われ、陸上は土佐(2月27日迄1ヶ月滞陣)、海上は長州に制せられる。宇和島は土佐を「応援」ということになっているが、何を得たか明らかでない。
・慶喜、フランス公使ロッシュと会見。ロッシュ、「建白書」提出。
・勝海舟、シャノワン少佐を訪問。薩長を撃つ事について議論。松本良順へ100両支払う
1月28日
・朝廷、東征の軍を起すと議決。諸藩は軍が集結するに従い出発。
・政府軍、桑名城接収。桑名藩留守家老酒井孫八郎が城を明け渡す。下級藩士の多くは江戸へ走り松平定敬の跡を追うように越後・会津・庄内と転戦、流浪の軍隊といわれた。
・土佐迅衛隊、京都着。乾(板垣退助)、東山道先鋒迅衛隊総督就任。
・サトウ、初めて大久保一蔵を訪問。
・相楽総三、美濃大久手宿で再び相楽隊に合流。翌日、中津川に進む。2月4日、信州飯田入り。この時、相楽は自ら「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る。東山道進軍、「官軍先鋒きょう導隊」の名乗りは、政府の許可なく相楽の独断。
・赤報隊四日市事件、赤報隊最初の犠牲者。
滋野井侍従を中心に綾小路隊に合流するべく松ノ尾山から出発した赤報隊、桑名城下で宿泊のところを捕縛され、四日市で8名が殺害される。滋野井は京都送りとなる。
28日、滋野井侍従の一行は桑名城下の南にある安永村の青雲寺に宿泊。この時、亀山藩の進藤百助が一隊を率い桑名城下外れに敗残兵に備えて進駐しており、偽公卿と強盗=赤報隊の宿泊を知る。岩倉具視から出たと思われる「赤報隊は偽官軍、公卿を擁しているが、それは偽物、見当りに討て」との命令に従い、青雲寺の滋野井侍従以下十数人を捕縛し四日市へ連行。滋野井を偽物と信じてはいたが、嘘でも公卿なので処置を差控え、数人の生掃りと共に大垣の東征軍本営に引渡し、京都へ送る。
捕縛の際に闘ったのは、赤木小太郎のみ。亀山藩士志方小弥太は腿に銃創をうけ死亡。亀山藩の隊長進藤百助は、捕縛した者の中に、川喜多真彦(国学に精しく、号は櫪国、庄村貞甫と「文苑名家紀年大成」を編む。進藤百助はその門人)がいるのを知り、助命運動にかかるが、藩の力ではどうにもならず、四日市を貫流する三滝川(御嶽川)河原で、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵3人を斬首。その他の者は、青雲寺を逃げ出したところを近所界隈の者が、棒や竹槍で追い廻して殺害。
・嘉彰親王、大坂から京都に移る。征討府は「大坂裁判所」となる。
1月29日
・新政府、京大坂の大商人百数十人を二条城に集め、戦費に充てる会計基立金300万両の募集を命じる。
三井・小野・島田の御為替方三組の33万両はじめ、京大阪の一般商人の応募が7割以上で、285万両余、ほぼ目標額に達する。
・板倉周防守勝静、老中を退く。
・綾小路侍従と2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)、名古屋発、午前11時、桑名着。ここで、滋野井侍従一行の悲報を知る。2月1日四日市、2日坂ノ下、3日水口、4日大津、5日京都着。
大原宰相重徳の家人北川大膳が名古屋に来て、綾小路・滋野井両卿とも至急帰洛せよとの命を伝える。綾小路名で先発の相楽隊に、「帰洛せよ」と使者を出し、京都引き返しの準備にかかる。
桑名で、山科能登ノ介は、大和十津川出身の前川鏡之進から、前日、四日市で「滋野井侍従と称するものを擁して、旗をたてて進んでゆく、それらの中の主なものが殺された」と聞く(松ノ尾山金剛輪寺から進軍した者が殺されている)。前川は、「本物でも構わん、附属のものの中で頭立ったものは斬れということになっています。さあ早く逃げてください」と促される。
山科能登ノ介は、武田文三らと相談し、東海道征討総督橋本少将実梁・副総督柳原前光綾小路を会わせ、問題は氷解、至急帰洛となる。入京後、新撰組脱退組の鈴木三樹三郎・新井陸之助・篠原泰之進は御親兵取締所に喚ばれ、拘禁され大津の元石原獄に入れられるが、1週間で放免となる。
京都で解隊した赤報隊は、「徴兵7番隊」として採用されることになる。山科能登ノ介は東伊佐男の変名を棄て、朝廷の医家に戻る。綾小路は、前に綾小路家から離別されており、実家に復し大原重実を名乗り、海軍先鋒総督となる。大原重実の子重朝と、滋野井公寿は、後に伯爵を授けられる。
「徴兵7番隊」は3小隊編制で、半隊長が阿部十郎・宮川次郎・児島一郎、監察は西本祐準・油井錬三郎(武田文三)・多賀啓蔵。のち宮川次郎が病死し、後任は速水湊、吉仲直吉も後に半隊長になる。5月18日京都発の甲州鎮撫総督四条少将隆謌に随行、6月1日遠州自須賀で甲州平穏を聞き東京へ向う。四条少将は奥州平潟ロ総督に任ぜられ、品川から万里九で、22日朝磐城小名浜に上陸。8月7日の大坪の戦闘、9日は相馬領目尻ロの戦闘、11日は菅谷ロの戦闘、その後、9月6日仙台入り、30日に仙台発、11月14日東京凱旋。この時、「7番隊」と行を共にした四条少将直属の小宮山勝蔵は、黒駒の勝蔵のこと(よって世間に伝わる次郎長対勝蔵の明治元年駿府一件なるものは誤謬である)。「徴兵7番隊」は、筑波、相馬、伊予、芸州の各藩兵と合同して戦い、戦死7名、負傷者は馬淵虎吉他17名を出す。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿