より続く
慶応4年(1868)
1月23日
・(新2/16)旧幕府の職制改め、徳川家の「家職」の組織とし、陸軍総裁勝海舟・会計総裁大久保一翁・外国事務総裁山口直毅・海軍総裁矢田堀鴻・海軍副総裁榎本武揚(旧海軍頭)ら登用。譜代大名の職を免じ、直参旗本を登用。幕府が日本を支配する政府であることを制度的に諦める。中島三郎助(48)、両番上席軍艦役となる。
総裁・副総裁:①陸軍:勝安房守(海舟)・藤沢志摩守(次謙、梅南)。②海軍:矢田掘讃岐守(鴻、景蔵)・榎本和泉守(武揚、釜次郎・梁川)。③会計:大久保越中守(忠覚、一翁)・成島大隅守(惟弘、柳北)。④外国:山口駿河守(直毅)・河津伊豆守(祐邦、三郎太郎)。
・新政府、由利公正建議により会計基金300万両決定。小野・三井・島田組、11.5%負担し、会計局付き御為替方として募債協力。
小野組:旧幕時代から禁裏出入りを許され、御所や仙洞(上皇の御所)の用達を勤める。「小野組の総理」西村勘六の隣家は、たまたま大納言家の雑草を兼ねた社家(神職)で、その縁により由利公正と知り合い、軍用金調達について相談をうける。早速、勘六は、三井三郎助と島田八郎左衛門に話し、夫々1千両ずつ持参。更に、鳥羽・伏見の戦が始ると3家で1万両を献金。
・新政府、各国代表に局外中立を要請。
・大久保利通、朝廷改革を目的として、岩倉・木戸の同意を得て、大阪遷都意見書を朝議に提出。太政官会議で否決、但し、天皇自ら兵を率い大坂親征することは28日の朝議可決。3月21日、大坂行幸。
17日、大久保は内国事務掛に任命され、同日、総裁有栖川宮熾仁の諮問に応じ、天皇の石清水八幡宮と大坂行幸を強く訴える。目的は、「朝廷の旧弊御一新、外国御所置(大坂の外国公使館との交渉に便利)」にあり、親王も趣旨を理解(「大久保利通日記」上)。翌18日、大久保は、同僚広沢真臣に遷都が内国事務掛の仕事で「当務の急」だと相談して同意を得、副総裁岩倉具視も賛意を表し、親王と副総裁三条実美にも提案するよう助言される。19日、親王・三条に提案すると、特に反対もなく、広沢・後藤象二郎と相談して、朝議に付すことに決める。23日、遷都の建白書を太政官代に提出、公卿・諸侯で構成される議事所で持論を展開。大久保は、「復古の鴻業(コウギョウ)はまだ道半ばである。朝廷が一時の勝利をたのんで永久の治安が実現すると思っているならば、北条という前姦(ゼンカン)の跡に足利という後姦(コウカン)が生じ、(建武の)覆轍(フクテツ)を踏むことは必然である」(「大久保利通文書」2)と主張、南北朝内乱にたとえて、天皇親政の崩壊の危機を訴える。大久保の危惧は京都の存在にある。京都は「数百年来、一塊したる因循の腐臭」を放っている。これを一新して、「一天の主(シュ)」(天皇)と「下蒼生(シモソウセイ)」(国民)の「国内同心合体」を実現すべきで、その為に「大英断を以て挙げ玉ふべきは遷都にあるべし」とする。人民の為の天皇(絶対君主)を核に、「万国に御対立」(=「万国対峙)」)を実現するには、天皇は京都の「玉簾(ギョウクレン)」の中に閉じ篭らず、国民の前に姿を現すべきだと言う。
大久保の大坂遷都論は保守的な公家には過激に映り、支持を得られず、この日は、「衆評決せず」(大久保日記)。26日、大久保は岩倉から遷都反対の中心人物は久我建通(タケミチ、前内大臣)と聞かされる。久我らの主張は「遷都の事、薩に奸謀(カンボウ)これあり、是を期にして薩長相合し、大いに私権を張り候」(「大久保日記」)という。
①戊辰戦争遂行上の戦略として天皇親政(征)をアピール、②大坂の富商からの資金調達、③王政復古を宣言しつつも、新しい政権を作るという宣言。寺社・公家などの伝統的旧勢力からの脱却、イメージ、薩長で天皇を囲い込む。
「朝廷上に於て一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則ち北条の跡に足利を生じ、前姦去て後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たるべし。これに依り深く皇国を注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、国内同心合体、一天の主と申し奉るものは斯く迄に有難きもの、下蒼生といへるものは斯く迄に頼もしきもの、上下一貫、天下万民感動涕泣いたし候程の御実行挙り候事、今日急務の最も急なるべし。是迄の通、主上と申し奉るものは、玉簾の内に在し、人間に替らせ玉ふ様に、纔に御職掌には乖戻したる訳なれば、此の御根本道理適当の御職掌定りて、初て内国事務の法起る可し。右の根本推窮して大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし。如何んとなれば、弊習といへるは理にあらずして勢にあり、勢は触視する所の形跡に帰す可し。今其の形跡上の一二を論ぜんに、主上の在す所を雲上といひ、公卿方を雲上人と唱へ、竜顔は拝し難きものと思ひ、玉体は寸地を踏玉はざるものと、余りに推尊し奉りて、自ら分外に尊大高貴なるものの様に思食させられ、終に上下隔絶して、其の形今日の弊習となりしものなり。敬上愛下は人倫の大綱にして論なき事ながら、過れば君道を失はしめ臣道を失はしむるの害あるべし」(「大久保利通文書」)。
・新政府、理由の如何を問わず暗殺を禁止する触れを出す。
・アーネスト・サトウ、公使館付医官ウィリス、大坂着。25日、ウィリス、入京。相国寺養源院収用の100人の薩摩傷兵に外科手術。礼金500両は公使館付医官の義務として受取らず。ウィリスは2週間滞在。サトウは兵庫に呼び戻され26日、西郷と会見。
・相楽総三、再度太政官に建白(赤報隊への錦幟の下賜、東山道軍の附属とする)。意見上申というより東山道侵攻の決意表明。この頃、政府の征東政策は大きく転回。当初の兵力不足状況から、関東以西諸藩の帰順が決まり、動員された諸藩兵中心の組織原理に展開(=草莽隊不要、切捨て方向)。また、新政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面に押し出すこともなくなる。
速やかに東征軍を進め、赤報隊に「錦幟」を下賜されたいと歎願。東山道筋は「兵威モ不張」、「好藩」も多く、是非とも東山道で朝廷の為に働きたい、その為にも東山道軍附属として欲しいと要望。同時に、信州、甲州、武蔵、相模、両毛、両総、奥羽に同志が居り、官軍出陣の時には決起することになっているとも述べる。相楽は、かつての関東地方での擾乱工作や同志糾合の実績を背景に、東山道進攻の決意表明ともいうべきもの。
しかし、政府の征東政策は大きく転回しつつある。当初は、兵力不足の為、相楽ら草莽も兵力として期待され動員される。しかし、1月末迄に、関東以西諸藩の新政府帰順という大勢が明らかになり、征討軍は動員された諸藩兵中心の組織編成原理となる。つまり、諸藩兵を正規軍とし、相楽ら草莽隊を切り捨てる方向をとるようになる。
次に、鳥羽・伏見戦争以降、民衆の政府支持をとりつける策として年貢半減令を一時採用していた。しかし、三井・島田・小野・鴻池ら京阪の大特権商人から軍事費献納を受ける代償に、彼らに対し、年貢米取扱を特権的に保証し、米相場を掌握することによる利潤確保を保障する必要に迫られ、新政府の年貢半減令がその障害となってくる。1月下旬以降、政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面には押しださなくなる。三井らが、軍事費調達の代わりに、年貢半減令取消しを政府に迫ったと推測できる。
・赤報隊綾小路侍従隊、22日に岩井を発ち、この日、加納着、ここで赤報隊に関する悪い噂を聞く。参謀山科能登ノ介は阿部十郎を上京させ事実無根と陳弁させる。
江州松ノ尾村に滞在中の赤報隊士と称する強盗が附近の豪家を襲い、金を強奪したとの浮説。しかし、目的をもって作られた噂であり、弁明も効果なし。
29日、相楽は布達を発す。「此度滋野井殿綾小路殿御人数御下向被成侯挙動ニ乗ジ、宿々村々無賃ニ而人足ヲ申付、或ハ手当無之泊リ等イタシ候モノ有之趣、以之外之事ニ侯、右者偽リ者ニ付、右横ノモノ宿々村々竹槍等用意イタシ置、突殺侯様急度可致候、決而遠慮無之事ニ候、若差扣(ヒカエ)其儘致シ置候ハバ、其宿其村役人共不調法ニ候間、他日急度御沙汰有之事ニ侯以上。 辰正月 官軍一番隊 相楽 総三」。
・庄内藩の府内取締りが廃止。
・1/10の騒擾事件で備前藩家老日置帯刀家臣滝善三郎、米人の目の前で作法通りに切腹。
・鍛治橋大名小路の酒井飛騨守役宅を新選組屯所に当てられる。
・河井継之助ら、大坂を去る。長岡藩兵、江戸に帰着。
・細井半之助、幕臣戸川伊豆守から託された徳川慶喜より山内容堂宛の救解依頼書を京都に届ける。25日、山内容堂、徳川慶喜からの救解依頼書を朝廷に提出。
1月24日
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、姫路着。27日、大坂に戻る。
1月25日
・各国(6ヶ国)代表、局外中立宣言。幕府と天皇政府を対等な交戦団体と認める。天皇政府には有利。幕府にとっては、正当政府が交戦団体に格下げされたことになる。
各国代表は連日会議を重ね、25日、局外中立を布告。各国は、鳥羽・伏見戦後の日本の国内情況を、幕府と天皇政府が国土を2分していると捉え、この戦争を幕府政権と天皇政権との間の戦争と規定、居留民の利益と安全、戦乱長期化に伴う国内市場荒廃を回避する為に、厳正中立を保つ事を決意。
これは、幕府と天皇政府が対等な交戦団体と認めた事を意味し、戦争は薩摩藩の反乱とする幕府の主張は退けられる。しかし、条約を対外諸国と結んでいる日本側当事者は幕府であり、列国側からすれば依然、日本を代表する「正当政府」は幕府の筈であるが、在日各国代表は本国政府の指令なしに、新政権(天皇政府)を幕府と対等な政治権力であると承認。天皇政府にとっては旧幕府と対等の国際的地位を承認される利点が、旧幕府にとっては正当政府から交戦団体に格下げされる不利がある。
・木戸準一郎(桂小五郎)、太政官の徴士、総裁局顧問となる。伊藤博文(28)、参与に抜擢。
・綾小路侍従、鵜沼で信州入りを断念、赤報隊先鋒相楽に戻るよう指示。相楽従わず。綾小路、2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)率いて引き返し、27日、名古屋着。
相楽は、「今、急に進軍して、一方は甲府を一方は碓氷峠を扼さないでは官軍の不利となります。譬え、後に軍令に反したといわれても、実利の要地を押えないでどう致しますか、相楽は名聞も栄達も考えていません、徳川氏が信州甲州の嶮を扼し、錦旗に抗したら日本はどうなりますか、今は区々たる一身のことを考慮するときではありません」といって引返しに応じず。
・赤報隊相楽総三に帰洛命令。相楽は潔白を弁明するために京都に戻る。詳細は不明であるが、相楽は28日、美濃大久手宿の相楽隊に合流。
・赤報隊(滋野井隊)を捕縛し鎮圧せよとの命令が下る。
・丹波山国隊組織。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜入り、慶喜追討の「大号令」・「農商布告」・「制札」3件を小浜藩重役に示し、朝命に従う旨の請書を出させる。
・箱館の飛脚屋島屋方に「上方大変」で始まる書状届く。鳥羽伏見の戦い、4日の仁和寺宮出馬までの情報。28日、「大政復古の大号令」の詳細情報も届く(箱館奉行杉浦兵庫頭の日記「日次記」)。
1月26日
・ロッシュ、幕府新任の陸軍総裁勝麟太郎ら諸役と面接。慶喜、ロッシュに宗家当主を紀州藩茂承(前将軍家茂の子、17)に譲ると告げる。
・サトウ、兵庫で西郷吉之助と会談。開国和親布告条文について議論。条約改正議論。
つづく
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