より続く
慶応4年(1868)
1月4日
・朝、仁和寺宮嘉彰親王が軍事総裁職から征討大将軍に就任、東寺に進発。官軍の成立。午後、諸藩に征討の旨令・軍令下す。前日夜に軍事参謀に任命された議定伊達宗城は同行せず。
大久保が京都の妻(おゆう、一力亭の娘)に錦の帯地を買わせ、「日」と「月」を貼り付けて錦旗を作る。
薩長連合軍(新政府軍)は「官軍」、幕府軍は「賊軍」となる。
・鳥羽・伏見の戦い(2日目)。
鳥羽方面の戦い。
旧幕軍は伏見方面から回った幕府歩兵第11、12連隊が先鋒となり進軍。薩長軍も伏見方面から薩摩軍3中隊相当(城下士小銃1、3番隊・3番遊撃隊)・長州軍第6中隊(第2奇兵隊)を鳥羽方面に向わせ、増強された両軍が鳥羽方面で激突。この日、幕府歩兵第11連隊隊長佐久間信久と第12連隊隊長窪田鎮章が勇戦、一時は薩長軍を圧倒するが、乱戦の中で2人が戦死し、旧幕軍は前日に引き続再び富ノ森陣地に撤退。薩長軍は追撃するが、富ノ森陣地手前で大垣軍と淀から援軍の会津軍の伏兵に側面を突かれ、富ノ森陣地の伝習隊の射撃を受け撤退。
伏見方面の戦い。
この日、薩長軍に土佐軍3小隊(山田平左衛門・山地忠七ら、迅衝隊7、8、9番隊)・同砲兵隊が容堂の発砲禁止令を無視して薩長側に参戦。薩長土軍の攻撃に、前日に拠点を失っている旧幕軍は一方的に撃破され、淀方面に撤退。
・西本願寺3千両、東本願寺1千両の献金を新政府に行う
・各道毎に鎮撫総督を任命。山陰道鎮撫総督西園寺公望(18)。5日、東海道鎮撫総督橋本実梁。9日、東山道鎮撫総督岩倉具定・同参謀前野久米之助(土佐藩)。北陸道鎮撫総督高倉永祜・副総督四条隆平、任命。
・夜、相楽総三と同志、山崎到着。
・備前岡山藩家老日置隊340、西宮警備のため岡山発。慶3年12月28日、備前池田藩へ伊予大洲藩に代り西宮警備命令発令。
・会津藩家老梶原平馬(26)、藩士安部井政治・堀藤左衛門を前橋藩に派遣、前橋藩の意向を確認。この頃、平馬、幕府との協議で江戸に下っている間に鳥羽伏見の戦いが勃発し、大坂へ戻ろうとするところへ敗戦の報が入り断念。
・水野行蔵(50)、獄中で獄吏によって毒殺。庄内藩出身の勤王家。鶴岡本鏡寺に葬られる。
1月5日
・午前8時頃、総督宮、東寺の本営を進発、鳥羽街道を下鳥羽から横大路へと錦旗をなびかせ進む(錦旗を擁する官軍)。
・鳥羽・伏見の戦い(3日目)。
鳥羽方面の戦い。
午前7時、薩長軍は薩摩軍4中隊相当(城下士小銃3、5、6番隊・外城2番隊)・1、2番砲兵隊・2番砲兵隊と長州軍第3中隊(整武隊)等を主力として桂川沿いを南下(前軍は薩摩3番隊(篠原国幹)・2番砲隊(大山弥助))、旧幕軍の富ノ森陣地を攻撃。守備する幕府歩兵隊・会津軍・桑名軍も勇戦し暫く一進一退の攻防、激戦の中で薩摩軍城下士小銃6番隊隊長市来勘兵衛は戦死。しかし、攻防戦の末、旧幕軍は富ノ森陣地を放棄、後方の納所陣地に後退。薩長軍は今度は納所陣地を攻撃、旧幕軍は抵抗せずに淀小橋を渡り淀城目指し撤退。
伏見方面の戦い。
薩長土軍は薩摩軍6中隊相当(城下士小銃2、4、12番隊・遊撃隊2、3番隊・私領2番隊)と長州軍第1中隊(奇兵隊)・第5中隊(振武隊)、更にこの日新たに鳥取軍半大隊相当(唯武次郎、砲兵含む)を加え宇治川沿いに進軍、淀城を目指す。旧幕軍は淀城北東の湿地帯の千両松付近で、会津軍・伝習隊・新選組・遊撃隊等が各個独自にこれを迎撃。新政府軍は、湿地帯の為に思うように行動が取れず難儀して、薩摩軍城下士小銃隊12番隊隊長伊集院与一、長州軍第1中隊半隊司令藤村英二郎・第5中隊石川厚狭助が戦死するなどの大打撃を受ける。しかし、福田侠平の指揮のもとに長州軍第1中隊が突撃し橋頭堡を確保、新政府軍が全面攻勢に移り旧幕軍を撃破。会津軍別選隊や新選組は壊滅的打撃を受る(会津藩佐川隊隊長佐川官兵衛負傷。新撰組井上源三郎・京都見廻組頭佐々木只三郎他多数、戦死。新撰組山崎烝ら、重傷者多数)。旧幕軍は淀小橋を渡り、これを焼き落として淀城方面に撤退。
新政府軍の鳥羽方面軍・伏見方面軍共に旧幕軍を撃破して前進、淀城の近く合流し淀城攻撃に向う。富ノ森・納所・千両松原で敗れた旧幕軍は籠城・反撃拠点として淀城を目指す。
しかし、夕方、淀城(譜代、藩主(老中)稲葉正邦は不在)は、旧幕軍の淀城篭城を拒否し新政府軍に恭順、新政府軍を入城させる。旧幕軍は、後方の八幡・橋本陣地を目指し木津川に掛かる淀大橋を渡り、これを焼き落として八幡・橋本陣地に撤退。新撰組の負傷者は大坂八軒家の京屋に入る。
・相楽総三、京都東寺の薩摩本陣の西郷隆盛訪問(江戸で別れた金輪五郎と再会)。江州坂本で東征軍先鋒隊結成する公卿綾小路俊実・滋野井公望を援助するよう依頼され、6日夜半、坂本へ向かう。
・山陰道鎮撫総督西園寺公望(19)、薩長兵300人と水尾越の間道より旗本杉浦氏の馬路役所到達。6日、亀山藩開城。7日、園部藩・丹波篠山藩・福知山藩。21日、宮津藩。2月上旬、鳥取藩。下旬、出雲松江藩。丹波・丹後・但馬の三丹地方と山陰地方は無血平定。
・松平春嶽のこの日付け福井藩主茂昭宛て書簡。公議政体路線の挫折を嘆じる。
「三日已来之景況却而一大変遷、危急存亡在眼前、天慶・応仁之喪乱今日ニ目撃す」(5日付)。「方今之形勢不容易次第、干戈頻動、皇国之安危ハ勿論宗家之存亡此秋ニ迫り、実ニ苦心難堪日夜悩慮之至ニ候」(6日付)。
1月6日
・鳥羽・伏見の戦い(4日目)。
旧幕軍は、進軍する新政府軍を迎撃するため八幡山(男山)と旧幕軍本営の橋本に布陣。新政府軍は薩摩・長州・土佐・鳥取4藩に加え、この日から芸州藩も参戦し攻撃開始(但し、この日鳥取軍は不参加)。①右翼軍(橋本と西側から八幡山を攻撃):薩摩軍12中隊相当(城下士小銃3、7、8、9、12番隊・外城2、3、4番隊・遊撃隊1、2番隊・兵具隊1番隊・私領2番隊)・大砲隊1、2番隊、②左翼軍(正面より八幡山を攻撃):長州軍第1中隊(奇兵隊)・第3中隊(整武隊)・第5中隊(振武隊)・第8小隊(膺懲隊)・岩国藩日新隊1小隊・徳山藩山崎隊、③薩長芸合同による別働隊(迂回して八幡山を東側から攻撃):薩摩軍城下士小銃1番隊・外城1番隊・長州軍第6中隊(第2奇兵隊)・芸州藩兵4小隊(南部健介)が、木津川を渡河し橋本陣地・八幡山を攻撃。
旧幕軍は果敢に抵抗するが、世良修蔵率いる薩長芸編制の別働隊が、八幡山の旧幕軍陣地を突破。旧幕軍は動揺し、更に昼近く、橋本陣地の淀川(桂川)対岸に布陣する津藩(準譜代藤堂家32万石)砲兵隊が、新政府軍の恭順工作を受け淀藩についで旧幕軍を裏切り、突如対岸の橋本陣地の旧幕軍を砲撃。旧幕軍の橋本砲台はこれに反撃し淀川(桂川)を挟んでの砲撃戦が始るが、新政府軍への砲撃が弱くなり、これを機に新政府軍右翼軍が猛攻を加え、旧幕軍は力尽き大坂目指し撤退開始。新撰組は、大阪天満の八軒家京屋忠兵衛方へ退陣。
・西郷の使者谷干城、土佐の乾退助に討幕戦開始伝える。
・高野山鷲尾侍従のもとに勅書・錦旗届く。五条代官所降伏。
・多田隊の召集。摂津国川辺郡の多田院(現、兵庫県川西市)に5日付庶民隊編成の「沙汰書」が届く(岩倉具視の執事の添書)。翌日、20ヶ村の家人約80名は幕軍が支配する大坂を避けて北回りで京都に向う。宿舎は荒神口の「付武家屋敷」(他に、山科隊も同じ宿舎)。中世の身分(武士)回復が彼らの動機。
・慶喜、開陽丸で江戸へ。
夜10時頃、大阪城脱出。元京都守護職会津藩主松平容保・元京都所司代桑名藩主松平定敬・老中姫路藩主酒井忠惇・備中松山藩主板倉勝静・大目付榎本道草・外国奉行山口直毅ら、従う。一旦、アメリカ艦に乗り、翌7日朝、開陽丸(副艦長沢太郎左衛門)に乗り移り、この日は船内に潜み、8日夜、天保山沖から出航。10日暁、強風のため八丈島北5~6里沖まで流され、夕方浦賀着。11日、品川着。
1月7日
・慶喜の逃亡を知った幕府軍将兵、大坂城を捨てて逃亡。開陽丸艦長榎本武揚、慶喜居室から書類・什器・武器の類を運び出し、御金蔵の御用金(18万両)も艦隊の富士山丸に積み込む。負傷兵も艦隊の船に収容。
・徳川慶喜追討令
朝廷、徳川慶喜・松平容保の他27人の官位を剥奪・領地没収・徳川慶喜追討令を発す。朝敵・賊軍。諸侯の去就問う。11日に慶喜追討令制札も出る。
「去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。兵端既に相開き候上は、速やかに賊徒御平治、万民塗炭の苦を救せられ度き叡慮に候間、今般仁和寺宮征討将軍に任ぜられ候に付ては、是迄偸安怠惰に打過ぎ或ひは両端を抱き候者は勿論、仮令賊徒に従ひ譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有り候輩は、寛大の思召にて御採用在らせらるべく候。戦功により、此の行末徳川家の儀に付歎願の儀も候得ば、其の筋により御許容これ有るべく候。然るに此の御時節に至り、大義を弁えず賊徒と謀を通し、或ひは潜居致させ候者は、朝敵同様厳刑に処せらるべく候間、心得違これ無き様致すべく候事」(「復古記」)。
・新選組、大坂城二の丸に入るが、火災により京屋に移る。
・相楽総三と同士、鈴木三樹三郎・山科能登ノ介らの京都派と合流、坂本着(前日、西郷吉之助から小銃百丁を受け取る)。間もなく滋野井公寿・山本太宰らが坂本着。
・河井継之助ら、大坂を去る。
1月8日
・和戦派土佐藩隠居山内容堂、征討令請書提出。
・土佐藩、乾退助、仕置役復活。迅衛隊(600)大隊司令就任。右半大隊司令片岡健吉・左半大隊司令祖父江可成・大軍監小南五郎右衛門・小軍監谷干城・隊員大半は土佐勤王党員。/13.京都に向かう。
・相楽らの一行、愛知川在の松ノ尾村に到着。
・陸援隊、侍従鷲尾隆聚をかついで、篭っていた高野山をおりて、五条の町を占拠。紀州藩は接触を恐れて、岩出(紀ノ川中流右岸)に撤退。7日、西郷隆盛は、いま暫く高野山に自重せよと勧告するが、これを無視。陸援隊は土佐藩激派と各藩脱藩士100名の倒幕激派集団で、西郷は軽挙盲動を恐れた。
・塩川広平(武州賀美郡元安保村ー現、埼玉県児玉郡丹ノ庄村)の関東謀攻策を岩倉に建策。容れられ密偵として京都発。旧幕臣間に非戦主義者を作り、武力を弱める目的。
つづく
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