2020年6月27日土曜日

慶応4年/明治元年記(6) 慶応4年(1868)1月19日~22日 慶喜・ロッシュ会見 赤報隊、美濃・岩手宿着 土佐藩迅衛隊(参謀乾退助)、高松藩開城 青松葉事件(尾張藩の佐幕派粛清) 慶喜、退隠表明、在京列藩主に救解依頼 

慶応4年/明治元年記(5) 慶応4年(1868)1月15日~18日 新撰組、品川着 赤報隊進発(「年貢半減」の高札) 主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免 九州地方、新政府へ帰順 大垣藩恭順 三職七科制 慶喜、箱根・碓氷に目付を配備 勝海舟海軍奉行並 仙台藩ほかに会津藩征討令 三井三郎助ほかに献金命令 草莽隊編成
より続く

慶応4年(1868)
1月19日
・慶喜、諸藩老臣を江戸城西丸に召集、3日以降の事態を説明し自己の心境を述べる。会津容保・桑名定敬は再起を進めるが、「慶喜従はず」(「復古記」)。
・慶喜・ロッシュ会見。慶喜、江戸城でフランス公使ロッシュと会見。
慶喜:徳川家の領地を守るためには、場合によっては戦う。ロッシュ:軍艦・武器・資金援助するので抗戦せよ。26、27日と計3回。
「徳川慶喜公伝」その他で、慶喜の恭順の意は東帰後一貫して不変となっているが、ロッシュがアメリカ公使ファン・ファルケシバークに語ったところによると、第1回会見の際の慶喜の態度は抗戦の意志を秘めたものであった。「第一回の謁見のさい、大君(タイクン)は御門(ミカド)の意志に従う意向を表明したが、同時に徳川家の家長として大君が所有している領地に侵入したり、その領地を剥奪したりする権利は御門にないことをはっきり述べた。大君はこの領地をあくまでも防衛すると主張した。大君はこの戦いが起こったいきさつをくりかえし説明し、・・・御門は監禁状態にあり、決して自分のの自由な意志で行動しているのではないと断言した」(ファルケンバーグよりシェアード国務長官への報告、陽暦3月1日付)。
26日の第2回目の会見で、慶喜は、隠居の身分になって領地防衛に専念する為、徳川宗家の当主の地位を紀伊藩主茂承(17、前将軍家茂の子)に譲ると告げる(同、3月1日付ファルケンパーグ報告)。第3回会見の様子は米公使に話さなかったのか、報告にはない。ロッシュは、「隠居は大政奉還に続く戦略的撤退であり、その地位は日本の歴史に例があるように、その権威を奪うものではなく、むしろ一層自由に影響力を行使し得る。彼は依然として強力な実力者である」とムスティエ外相に報告(陽暦2月24日(陰暦2月2日)付報告)。
この日、ロッシュはオイエ提督と登城し、「建白書」を提出(彼に好意的でないフランス軍事顧問団長シャノアーヌ大尉の本国陸軍省宛報告にも提出したとの記述あり)。
[見解1]この時点で、慶喜は、徳川家の領地を守るため、場合によっては戦うと言い、あわよくば薩長を打倒し、王政復古の時点まで失地を回復しようとの野望が秘められていると考えられる。
[見解2]ロッシュとの会見で抗戦意欲を見せたのは、外国人相手に気張って見せたか、ロッシュの誇張かもしれない。ロッシュの報告には都合のよいことをならべたてる不正確なものが多いという(萩原延寿「遠い崖」)。
・大久保利通、有栖川宮・三条実美(議定)に大阪遷都進言。天皇の在り方の一新狙う。
・乾退助率いる土佐藩兵1,100、高松城接収のため丸亀に到着。京都から樋口真吉が錦旗をもたらす。
「十九日暁、樋口真吉、錦旗ヲ護シ姫(路)駅ニ著ス、昼二字(時)、全軍丸亀ニ達ストアリ」(「高知県史料」)。樋口は幡多郡中村出身、慶応3年5月、容堂ともえ扈従隊目付として高知を出発。錦旗伝達の役目を果した後は、東征軍に加わり、江戸、会津に転戦、翌明治元年11月帰国。
土佐藩兵:大監察小南五郎右衛門、迅衝隊大隊司令乾退助を含む戦闘部隊で、後の江戸、日光、会津攻めの主力。郷士にも元込銃を持たせたので有名。実数600名で、あとは弾薬方、輜重など補給の為の人数。
・赤報隊、美濃・岩手宿(岐阜県不破郡岩手村)着。22日、相楽総三隊、出発。
岩手には竹中丹後守重固の陣屋があるが(竹中は、鳥羽伏見の戦いでは徳川家本軍別軍2つの総指揮者で、若年寄並・陸軍奉行)、丹後守家老児玉周左衛門が苦心して、丹後守の老父竹中図書を同処の香華院へ謹慎させ、家人家士の妄動を抑え、流血騒ぎはなし。また、児玉周左衛門は、有志を募って赤報隊に加入させる(その数は20余とも12ともいう)。
この内、北村与六郎は慶応2年6月、藩主竹中丹後守の命を受け、同僚柵橋新次郎と共に、周防岩国藩吉川家に使いしたことがある程の人物。これは幕府の長州再度目の攻撃の際で、談判は周防玖珂郡新湊で行われ、吉川家と手切れの談判となる。北村は、主家のため身を棄てて赤報隊に入り、後に脱走者が出るが、最後まで赤報隊に踏止まり戦死。
赤報隊は諸所に出張し、会津・桑名その他、徳川家従軍の藩兵が落ちて行くのを訊問し、輜重を没収し、一方では糧米などを窮民に与えるなどする。
桑名藩主松平越中守定敬は、慶喜に従い12日に江戸入り、深川霊岸寺に蟄居謹慎しており、藩士の間に主戦非戦両論があるものの、桑名城は総攻撃をかけないでも、官軍の手に入ることが明らかになっている。そこで、赤報隊は東海道を進むを喜ばず、信州へ入り、甲州を鎮め、東征軍の江戸討入りに協力すべしと決す。相楽総三はその先鋒隊を志願して承諾を得て、22日岩手を出発。2番隊鈴木三樹三郎は遂に出立せず。
1月20日
・土佐藩迅衛隊(総督土佐藩家老深尾丹波・参謀乾退助)ら、丸亀藩・多度津藩と協力して高松藩開城、家老2名切腹。27日、伊予松山藩開城。
・(尾張藩)青松葉事件。尾張藩の佐幕派粛清。
尾張藩(藩主徳川慶勝)、藩内佐幕派の渡辺新左衛門(年寄列、2,500石)・榊原勘解由(城代格、1,500石)・石川内蔵允(クラノスケ、大番頭、1千石)ら3名を斬罪。「年来姦曲の所置」があり「朝命により死を賜う者なり」と言い渡し。~25日に計14名処刑、家老3名含む17名蟄居その他処分。
・徳川慶喜、松本・高崎藩に碓氷関警備命ず。この日、慶喜、鳥羽伏見の負傷者を収容する三田会津藩下屋敷を見舞う。家老梶原平馬(26)が出迎え。
・この頃から、京都で赤報隊に関する「悪い評判」(無頼の徒と如く農商人から金穀を奪う)が広まる。政府が意図的に流す。
・新選組屯所として、鍛冶橋大名小路の元秋月右京亮種樹の屋敷を与えられる。
・小坂騒動(塩飽島)。
・政府、幕府締結の条約遵守確認を各国に通告。
・夜、岩倉の放つ間諜塩川広平、京都からの同行者である中御門家の藤井弥三郎と共に江戸着。
堀江無名子(克之助)、中島蔵人、宮太柱、小倉但馬、川村壱岐守、遠山備後守、宅間朔之助、山岡鉄太郎、中条金之助、松岡万、老中小笠原壱岐守(長行)、松平大和守(直克)、石川熊武、小暮藤太郎、三木七郎、桑名廉助、小津小太郎、小倉庫之丞などと往来し、「関東謀政策」を行う。
1月21日
・外国事務総督東久世通禧、6ヶ国公使に兵器船舶の慶喜とその属臣に販売貸与を禁ずるよう申入れ(局外中立を要請)。具体的には、幕府がアメリカより購入して、現在太平洋を航行中の甲鉄艦を引渡されないようにするのが目的。パークス、サトウの示唆による。
これより先、鳥羽・伏見で戦端が開かれた3日、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、プロシアの各国代表に、薩摩藩の暴徒を嶺圧するために「日本政府」(=幕府)以外には武器・軍艦等を売らないよう要求。
・慶喜、退隠表明。慶喜、再度、在京の徳川慶勝・松平春嶽・浅野茂勲(芸州世子)・細川護久(肥後藩主弟)に書を送り救解依頼。
慶喜は、病気の為隠居を考えていること、鳥羽・伏見のことは素志に反し、朝敵の悪名を負ったが、これまでの厚誼により、朝廷をはじめ列藩へも説諭して、汚名をすすぐよう尽力されたいと、一歩後退した姿勢を示す。
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、明石城で長州軍に伊予松山藩討伐命令出す。長州が報復のため命令を出させる(第2次征長戦の際、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されている)。
・東山道鎮撫総督(岩倉具定)の軍、京都発。その日に大津着。軍資金無く3日間滞在。東山道軍には京都三井家番頭堀江清六が従軍しており、堀江が京都に戻り、三井家が工面した3千両を24日、守山で軍幹部に渡す。しかし、この3千両も美濃大垣で無くなり、軍はここで10日間足踏み。沿道で金穀を募るが、相楽の年貢半減布達のため、思うに任せず。
・木戸孝允、上京。
・土佐藩別軍(総督深尾左馬之助)、高知発。仁淀川上流で先鋒と合流し1600となる(迅衛隊より多い)。26日、伊予松山領入り。27日、伊予松山城を包囲・開城。これより先、大監察小笠原唯八が松山に赴き、藩主久松定昭は恭順の意を表している。
・土佐藩士吉井源馬・山本復輔ら、天草諸島で乱暴を働いた花山院隊を鎮撫。
1月22日
・相楽総三隊、1番隊を率い美濃・岩手宿発。2番隊(鈴木三樹三郎)、後続せず。
・神戸事件下手人処罰は国辱とする備前藩藩論を背景に嘆願書提出される。
・東久世通禧、兵庫鎮台総督に就任。

つづく




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