2022年7月20日水曜日

〈藤原定家の時代061〉治承4(1180)5月16日 頼盛、八条院御所で以仁王の子二人を引き取る 宗盛・時忠が園城寺(三井寺)と交渉、不成立 宗盛、清盛に報告 

 


〈藤原定家の時代060〉治承4(1180)5月15日 (続き) 長谷部信連の奮戦 堂々たる弁明(「信連」(「平家物語」巻4))より続く

治承4(1180)

5月16日

・頼盛が八条院御所に派遣され、八条院が御所で育てている以仁王の王子・王女(三条宮姫宮・安井門跡道尊)の引き渡しを求める。八条院の寵臣三位局(高階盛章の娘)を母とする子供たちである。八条院はこの子たちを膝に乗せて遊ばせたり家族同様に接していた。頼盛の妻は八条院の乳母子大納言局で、頼盛も八条院の別当を務めていた。頼盛は八条院御所の事情はよく知っていたので、穏便に引き渡しの交渉を行おうとした。八条院は頼盛に対し、男子は僧籍に入れて命を取らないこと、女子は八条院の手元に残すことを条件に引き渡しに応じる。

引き渡された男子は、以仁王の兄である仁和寺御室守覚法親王が預かることになった。俗人としての将来は断たれたが、仁和寺の高僧として生きていく道が残されていた。この子が、後に安井門跡を起こす道尊である。

女子は後に八条院より早世してしまうが、関白九条兼実を通じて後鳥羽天皇の承認を取り、八条院領の継承者として正式に認められた三条宮姫宮である。清盛は、後白河院政派との関係が険悪になっている状況の中で、八条院まで敵に回したくはなかった。平氏政権は、高倉宮以仁王のみを排除し、八条院が後継者と考えていた三条宮姫宮を政争の圏外に置くことで、衝突を回避した。

藤原定家は、これらの情報を外祖母の法性寺の屋敷で聞き、5月22日以降はここに住む。

「・・・宮の御息の若宮八條院に御坐すの間、池中納言(頼盛)、入道相国の使いとして、精兵を率い八條御所に参り、若宮を取り奉り六波羅に帰る。」(「吾妻鏡」)。

「現代語訳吾妻鏡」

「十六日、丁卯。晴。今朝、再び検非違使たちは宮(以仁王)の御所を取り囲んだ。天井を破り、板敷きをはがして捜したが見つけることはできなかった。八条院の女房である三位局〔(高階)盛章の娘〕に生ませた、以仁王の御子息の若宮が八条院にいらしたので、池中納言(平)頼盛が使者として精兵を率いて八条院の御所に参上し、その若宮を六波羅に連れて帰った。洛中は終日騒がしく、京外での乱暴は数えきれぬほどであったという。」

○若宮:

以仁王が、伊予守高階盛章の娘で八条院の女房三位の局との間にもうけた王子。八条院の御所で養育されている。その後、王子は、三井寺の円恵法親王(以仁王の兄弟)に預けられ、後に北陸に隠れ北陸宮と称する。寿永2年、後鳥羽天皇践祚に際し、源義仲はこの宮の践祚を主張する(「玉葉」寿永2年8月14日)。

○頼盛(1131天承元~86文治2)

平忠盛の5男。母は修理大夫藤原宗兼の娘(池禅尼)。清盛の異母弟にあたり、常陸介・安芸守・三河守等を経て、中納言。六波羅の池殿に住んだため、池殿・池中納言と呼ばれた。妻は八条院大納言で、ともに八条院にも奉公。この頼盛の妻の母は八条院の乳母。また頼盛邸は八条院御所に近い。のちの平家一門の都落ちに際しても頼盛は一人京都に残り、後白河から「八条院辺ニ候ヘ」と命じられている。

「(十六日)隆職宿弥三条宮配流ノ事ヲ注送ス。其ノ状カクノ如シ。

 源以光(本ノ御名以仁、忽ニ姓ヲ賜ヒ名ヲ改ムト云々)、宜シク遠流ニ処シ早ク畿外ニ追出セシムベン。

 高倉宮配流ノ事、仰セ下サルル状カクノ如シ。但シ官符ヲ作ラレズトイヘリ。配流ノ人官符ヲ作ラズ何ノ例ゾヤ。然レバ上卿ヲ仰セラルべカラザルナリ。

 始メ以光王土左国ニ配スべキ由宣下スト云々。而ルニ後改メ仰セラルルカ。只今奉行史申ス旨カクノ如シト云々。伝へ聞ク、高倉宮、去夜検非違使未ダソノ家ニ向ハザル以前、窃ニ逃ゲ去り三井寺ニ向フ。カノ寺ノ衆徒守護シ将ニ天台山ニ登セ奉ルベシ。両寺ノ大衆謀叛ヲ企ツベシト云々。又件ノ宮ノ子若宮(八条院ニ候フ女房ノ腹ナリ。所生ノ時ヨリ女院養育セラレ、即チソノ宮中ニ祇候ス)、逐電ノ由ソノ聞ヘアリ。仍ツテ武士等カノ女院ノ御所ヲ打チ囲ミ、ソノ中ヲ捜シ求ム。コレヨリ先女院ノ御一身ニ於テハ、頼盛卿ノ家ニ出シ奉り(即チ件ノ卿ノ妻参上シ相具シ奉ル)了ンヌトイヘリ。即チ件ノ若宮、女院ニ求メ出シ還御卜云々。素ヨリ隠シ置カルル、太ダ以テ愚カナルカ。愚意コレヲ案ズルニ、ワガ国ノ安否只コノ時ニアルカ。伊勢大神宮、正八幡宮、春日大明神、定メテ神慮ノ御計ラヒアルカ。一身ニ於テハ、中心過無シ。憑ム所只仏神三宝ノミ。後ニ聞ク。八条院他所ニ渡御、謬説ナリ。女院ヲ居ヱ奉りナガラ、頼盛父子参入シ、一所残ラズ捜シ求メシムト云々。」(「玉葉」)。

「五月十六日。丁卯。九坎。今朝伝へ聞ク。三条宮配流ノ事、日来(ヒゴロ)云々。夜前検非違使、軍兵ヲ相具シ、彼ノ第ヲ囲ム<源氏ノ姓ヲ賜ハル。其ノ名以光(モチミツ)卜云々>。是ヨリ先、主人逃ゲ去ル<其ノ所ヲ知ラズ>。同宿ノ前斎宮<亮子内親王>又逃ゲ出デ給フ。漢王出ヅルニ、成皐縢公卜車ヲ共ニスルガ如キカ。巷説ニ云フ。源氏園城寺ニ入ル。衆徒等鐘ヲ槌キ公ヲ催スト云々。平中納言、八条院ニ参ジ、御所ノ中ヲ捜検、彼ノ孫王ヲ申シ請フ。遅々タルニ依り、捜求ニ及ブト云々。良々(ヤヤ)久シクシテ、孫王遂ニ出デ給フ。重実(越中大夫卜称フ)、一人相随フ。但シ納言相具シ白川ニ向ヒ、宮出家卜云々。一昨日、法皇鳥羽ヨリ八条坊内鳥丸ニ渡リオハシマス。」(「明月記」)。

5月16日

・八条宮円恵(エンエ)法親王(以仁王の兄弟)が、穏やかに事件を収めるべく、以仁王が三井寺にいること、三井寺から京に戻すように衆徒と交渉していることが宗盛に伝えられると、宮を引き取るべく平時忠(検非違使別当、時子の兄)の使者が派遣され、宗盛からは武士50騎が付けられるが、衆徒はこれを拒む。宗盛は、この事を円恵に伝えると、大衆が俄に態度を変えて私の房を破壊した、と言い訳し、今においては我が力に及ばず、と申し送る。宗盛は、三井寺の王への強い支持を悟る。

宗盛は福原の清盛に事態を報告し、その意向を尋ねた後、三井寺の僧綱(ソウゴウ)10人を六波羅に呼び出す。これに応じたのは7人で、これらに対し改めて宮を引き渡すように衆徒と交渉させる。次に、山門(延暦寺)には、座主明雲を召して、山僧に対して王に同意せぬよう制するよう命じる(「山槐記」)。また藤原邦綱の報告によると、以仁王は叡山の無動寺に引き籠ったという。同寺の検校覚快法親王(鳥羽院皇子)は、寺の僧侶から王に与力せぬ旨の請文を出させる(「玉葉」)。

「伝聞、昨日巳の刻ばかりに、八條宮(圓基法親王これなり)、使者を以て宗盛・時忠等の卿に示すと。高倉宮の御座す所、三井寺、平等院なり。・・・時忠卿、彼の御迎えの為人を進す。また宗盛卿武士五十騎ばかりを彼の使に着け副えこれを遣わす。即ち八條宮下法師原三人これを相具す。秉燭に首途す。子の刻彼の寺に到る。但し寺中に入らず、小関外に群集す。先ず以て下法師達御迎えに参るの状を證示す。即ち帰り来たりて云く、今日日没以前、大衆三十人ばかりを相率い、京の御所に渡御しをはんぬ。早く帰らるべしと。仍って別当並びに武士等、八條宮に参り、先ずこの由を申す。(中略)この状を聞き、事の次第を宗盛・時忠等の卿に示す。その後重ねて沙汰の趣を聞かず。」(「吾妻鏡」)。

「(十七日)伝へ聞ク、昨日巳ノ刻許り、八条宮(円恵法親王コレナリ)、使者ヲ以テ宗盛時忠等ノ卿ニ示スト云々。高倉宮オハシマス所、三井寺、平等院ナリ。京ヲ出デラルベキ由、沙汰スル所ナリ云々トイヘリ。コレニ因り時忠卿、カノ御迎へノタメ人ヲ進ラス(内匠助某、実名尋ヌベン)。又宗盛卿武士五十騎許リカノ使ニ着キ副ヒコレヲ遣ハス。即チ八条宮ノ下法師原三人コレニ相具ス。秉燭首途、子ノ刻カノ寺ニ到ル。但シ寺中ニ入ラズ。小関外ニ群集シ、先ヅ以テ下法師達御迎へニ参ル状ヲ示シ証ス。即チ帰り釆タリテ云ハク、今日日没以前、大衆三十人許り相率ヰ、京ノ御所ニ渡御シ畢ンヌ。早ク帰ラルベシト云々。仍ツテ別当使並ニ武士等、八条宮ニ参り、先ヅコノ由ヲ申ス。宮答へラレテ云ハク、出洛セラルベキ由、衆徒相議シ申ス所ナリ。而ルニ忽チニ思ヒ変ジ、己二凶徒ワガ房ヲ切り了ンヌ。ソノ事隠レナシ。今ニ於テハ、カノ及ブベキ所ニアラズ。上ヨリ法ニ任ヒ沙汰アルペシト云々。コノ状ヲ聞キ、事ノ次第ヲ宗盛時忠等ノ卿ニ示ス。ソノ後重ネテ沙汰ノ趣聞カズ。大略武士ノ卑陋、言フニ足ラザル事カ。凡ソ昨日ノ朝、カノ宮逐電ノ由、福原ニ聞エ進ラセ了ンヌ。ソノ使京二帰ルベシ。ソノ後毎事沙汰アルペシト云々。使者ヲ以テ邦綱卿ノ許ニ遣ハス。昨今所労ニ依り今ニ院ニ参ラズ。ソノ恐レヲ謝センタメナリ。ソノ次ニ示シ送りテ云ハク、高倉宮ノ登山、無動寺ニ引籠ラルベキ由風聞ス。仍ツテカノ山ニ申サレ、七宮(覚快)ヲ検校ノ処、与力スべカラザル由、件ノ寺ノ住侶等、請文ヲ進ラセ了ンヌ。仍ツテ七宮ノ辺殊ナル恐レアルベカラズト云々。武者云ハク、諸国ニ散在スル源氏ノ末胤等、多ク以テ高倉宮ノ方人トナリ、又近江国武勇ノ輩、同ジク以テコレニ与ミスト云々。凡ソコノ間巷説縦横真偽知り難シ。」(「玉葉」)。


つづく

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