2022年7月28日木曜日

〈藤原定家の時代070〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その3) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入 源三位頼政の最期。宮方壊滅 

 

源三位頼政の墓(京都、宇治、平等院)

〈藤原定家の時代069〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その2) 「橋合戦」(「平家物語」巻4) 平家の反撃(上総守忠清の迂回提議と足利又太郎忠綱の馬筏による渡河提言) 馬筏による強行渡河 より続く

治承4(1180)

5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その3) 

□「宮御最期」(みやのごさいご)(「平家物語」巻4):

(概要)

若武者足利又太郎忠綱の強行渡河によって、戦況は大きく転換。劣勢な宮方は、陸続と攻めかかる平家の大軍に圧倒され、主だった人々次々と討死し壊滅。頼政の次男源太夫判官兼綱が上総の太郎判官の矢に射られ、つづいて嫡子伊豆の守仲綱が討死。養子の六条の蔵人仲家父子、主将の頼政は防戦につとめるが負傷し、辞世の歌「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける」を残して自害、首は郎等の手で宇治川に沈められる。盟主高倉の宮は奈良へ逃れる途中、追撃する飛騨守景家の軍勢500余に討たれる。

①流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入。宮方の防戦。高倉宮を奈良に立たせる。

「こゝに伊賀・伊勢両国の官兵等、馬筏押破られて、六百余騎こそ流れたれ。萌黄(モヨギ)・緋縅(ヒヲドシ)・赤縅、色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは、神南備山の紅葉葉(モミジバ)の、峯の嵐に誘はれて、龍田河の秋の暮、堰(アセキ)に懸かりて、流れもあへぬに異ならず。

其の中に緋縅の鎧着たる武者三人、網代に流れ懸りて、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、伊豆守見給ひて、かくぞ詠じ給ひける。

伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代に懸りぬるかな

これ等は皆伊勢国の住人なり。黒田後平四郎・日野十郎と云ふ者なり。中にも、日野十郡は、古兵(フルツハモノ)にてありければ、弓の弭(ハズ)・岩の狭間にねぢ立てて、かき上り、二人の者どもを引上げて、助けけるとぞ聞こえし。

大勢皆渡して、平等院の門の内へ、攻入り攻入り戦ひけり。此の紛れに、宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留って防矢射けり。」

②源三位頼政の最期。宮方壊滅。

「源三位入道は、七十に余って軍(イクサ)して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引退く所に、敵(カタキ)襲ひかゝれば、次男源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、白月毛なる馬に、金覆輪(キンプクリン)の鞍置いて乗り給ひけるが、父を延ばさんが為に、返し合せ防ぎ戦ふ。

上総太郎判官が射ける矢に、源大夫判官、内甲(ウチカブト)を射させてひるむ処に、上総守が童、次郎丸と云ふ大力の剛の者、萌葱匂(モヨギニホヒ)の鎧着、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづいて、源大夫判官に押並べて、むずと組んで、どうど落つ。源大夫判官は、大力にておはしければ、次郎丸を取って押へて頸を掻き、立ち上らんとする処に、平家の兵ども、十四・五騎落ち重なって、終に兼綱を討ちてげり。

伊豆守仲綱も、さんざんに戦ひ、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。其の頸をば下河辺藤三郎清親取って、大床の下へぞ投入れたる。

六条蔵人仲家、其の子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦ひ、一所で討死してげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。然るを、父討たれて後、孤(ミナシゴ)にてありしを、三位入道養子にして、不便にし給ひしかば、日来(ヒゴロ)の契約を達へじとや、一所で死ににけるこそ無漸なれ。」

兼綱の奮戦ぶりは、宗盛の使者として参院した検非違使源季貞からの戦況報告を書き留めた右大臣九条兼実「玉葉」治承4年5月28日条にも、「敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと云々。其の中に兼綱の矢前に廻る者無し。宛(サナガ)ら八幡太郎の如し云々」とあり、兼綱のの弓勢を恐れて矢先に廻る者なく、八幡太郎義家に匹敵する者として称賛されている。

「下河辺藤三郎清親」(兼綱の兄伊豆守仲綱の家人)、勇戦のすえ負傷して平等院釣殿で自害した仲綱の首を御堂の大床の下に投げ入れて隠す。下河辺氏は、秀郷流藤原氏の流れを汲む小山氏の一族で、武蔵国北葛飾郡下河辺庄の住人、秀郷から7代目の小山政光の弟行義が下河辺圧を領して「下河辺庄司」を称して以来、代々その称を継ぐ。頼政の父仲政が下総守として子の頼政と共に任地に下向した際、下河辺庄が仲政・頼政父子を介して鳥羽院あるいは美福門院に寄進され、平治の乱には下河辺行義は頼政の郎等として従軍(「平治物語」)。「吾妻鏡」治承4年5月10日条では、行義の子の行平が伊豆の頼朝に頼政挙兵の計画を報じている。

六条(八条の誤り)の蔵人仲家とその子蔵人の太郎仲光は、帯刀先生義賢(タテワキセンジョウヨシカタ)の嫡子、木曽義仲の異母兄。「帯刀」は、太刀を帯びて仕える職で、皇太子の身辺警護に当たる武官で、舎人のなかから武術に優れた者を選んでこれに任じ、特に刀を帯びて護衛役に従事させた。「先生」(センジョウ)はその首長。義賢は、源為義の次男で、皇太子の躰仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊に属し、帯刀先生の職にあった。久寿2年(1155)8月、義賢は所領争いから甥の悪源大義平に殺害され嫡男仲家は孤児となる。同族の頼政に引きとられ、養子として養育されたので、多年にわたる養育の恩義に報いるため、養父頼政の挙兵に加わった。4ヶ月後の9月初めには弟の義仲が木曽で挙兵するが、その日を見ずに討たれまことに無残であると「平家物語」は嘆く。


つづく

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