治承4(1180)
5月22日 頼政挙兵の続き(物語世界での頼政挙兵)
(「競」(きおう)(「平家物語」巻4))
「平家物語」での頼政挙兵あらすじ
16日、高倉宮謀反が知れ渡り、院は占いの意味を悟る。老齢の頼政が決起したのは、宗盛の不用意な言動に因がある。彼の嫡子仲綱は評判の高い名馬を持っており、宗盛がそれを見たいと言う。仲綱は田舎で保養させていると嘘をつくが、事実を知った宗盛は強引に要求。頼政は息子を諭し、馬を送り届けさせると、宗盛はその馬に「仲綱」という名前を刻印、客人の前で散々になぶらせる。そのことが彼の決意を固めさせたという。それにしても思い出されるのは重盛の人徳で、宮中にいた大蛇を指示通り処理した仲綱へ、気の利いた言葉を添えて馬を送ったことがある。
その夜、頼政一党300余騎が三井寺に馳せつける。一行に遅れをとった渡辺の競という郎等は、宗盛に呼び出され、平家への忠誠を誓うが、追討軍に加わりたいと偽り、馬を所望し三井寺に駆け付ける。馬は、尾と鬣(タケガミ)を切られ、「平の宗盛入道」という焼印を押されて送り返される。宗盛は激怒するが、毛も生えず、焼印も消えはしない。
前段で、仲綱の秘蔵する愛馬を巡り、権力をかさにこれを奪う宗盛を、兄重盛の温厚さと対比して描き、重盛の逸話のなかで脇役で登場させた仲綱の郎等競の滝口を後段では主役として、競が宗盛からその愛馬を騙りとり、主君の恨みを晴らす報復譚を展開する。
①頼政挙兵にとり残された競、平家に奉公を誓う。
「さる程に、同じき十六日の夜に入って、源三位入道頼政・嫡子伊豆守仲綱・次男源大夫判官兼綱・六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光以下、混甲(ヒタカブト)三百余騎、館に火かけ焼き上げて、三井寺へこそ参られけれ。
こゝに三位入道の年頃の侍に、渡辺源三(ゲンザウ)競(キホフ)滝口と云ふ者あり。馳せ後れて留りたりけるを、六波羅へ召して、
「など汝は、相伝の主三位入道が供をばせで、留ったるぞ」
と宣(ノタマ)へば、競畏(カシコマ)って申しけるは、
「日来(ヒゴロ)は自然の事も候はば、真先駆けて、命を奉らうとこそ存ぜしか。今度は如何候ひつるやらん、かうとも知らせられざりつる間、留って候」
と申す。宗盛卿、
「これにも又兼参の者ぞかし。先途後栄を存知して、当家に付いて奉公せうとや思ふ。また朝敵頼政法師に同心せんとや思ふ。ありの儘に申せ」
とこそ宣ひけれ。競、涙をはらはらと流いて、
「たとひ相伝の好しみ候とも、如何か、朝敵となれる人に、同心をば仕り候ふべき。只殿中に奉公致さうずる候」
と申しければ、大将、
「さらば奉公せよ、頼政法師がしけん恩には、ちっとも劣るまじきぞ」
とて、入り給ひぬ。
朝より夕に及ぶまで、
「競はあるか」
「候ふ」
「あるか」
「候ふ」
とて伺候す。」
渡辺の源三競:
源融(トオル)を祖とする嵯峨源氏の一族、摂津の渡辺を本拠とする渡辺党の一員。この一族は、一字の名乗りが特徴で、競は頼光の四天王の一人の渡辺綱から4代の末裔といわれる右馬允(ウマノジョウ)昇の子とも、昇の従兄弟省(ハブク)の子ともいわれ、蔵人所にも所属し宮中の警護にあたる滝口の武士である。清涼殿の前庭の東北に引き水を御溝に流し入れる落ち口があり、これを滝口と云い、そこに宮中警護の武士の詰め所があったことから、そこに詰める武士を滝口の武士と称するようになる。中山忠親「山槐記」治承2年閏6月5日、24日条に、前滝口競の郎従伴武道が伊勢初斎院御所である一本御書所を宿衛していて狐を射殺したとの記事がある。治承2年時点で「前滝口」とあることから、既にその職を退いていたようである。
②競、宗盛より愛馬を騙し取り、夜陰にまぎれて三井寺へ駆け付ける。
「日も漸々(ヤウヤウ)暮れければ、大将出でられたり。競畏って申しけるは、
「まことや、三位入道は三井寺にと聞え候。定めて、夜討なんどもや向はれ候はんずらん。三位入道の一類、渡辺党、さては三井寺法師にてぞ候はんずらん。心憎うも候はず。罷り向って択討(エリウチ)なども仕るべき(わたくしも出かけて、めぼしい敵を選り討ちにしようと存じます)。さる馬を持つて候ひしを、此の程親しい奴めに盗まれて候。御馬一匹下し預り候はばや」
と申しければ、大将、
「最もさるべし」
とて、白葦毛(シロアシゲ)なる馬の煖延(ナンレウ)とて秘蔵せられたりけるに、よい鞍置いて歳に賜ぶ。賜はつて御所に帰り、
「早日の暮れよかし、三井寺へ馳せ参り、入道殿の真先駆けて討死せん」
とぞ申しける。
日も漸々暮れければ、妻子どもをばかしここゝに立忍せて、三井寺へと出で立ちける、心の中こそ無漸なれ。狂紋(ヒヤウモン)の狩衣の菊綴大きらかにしたるに、重代の着背長、緋威(ヒオドシ)の鎧着て、星白の甲の緒を縮め、いか物作の太刀を帯き、二十四差いたる大中黒の矢負ひ、滝口の骨法忘れじとや、鷹の羽で作いだりける的矢一手ぞ差し添へたる。滋藤(シゲドウ)の弓持って、煖延に打乗り、乗替一騎打具し、舎人男に持楯脇挟ませ、屋形に火をかけ焼き上げて、三井寺へこそ馳せたりけれ。
六波羅には、競が屋形より火出で来たりとてひしめきけり。宗盛卿急ぎ出でて、
「競はあるか」
「候はず」
と申す。
「すは、奴めを手延にして、謀られぬるは。あれ追つかけて討て」
と宣ヘども、
「競は勝れたる大力の剛の者、矢継早の手きゝにてありければ、二十四指いたる矢では、先づ二十四人は射殺されなんず、音なせそ」
とて、進む者こそなかりけれ。」
③煖延の尾髪を切り、金焼をして、宗盛に返す。
「只今しも三井寺には、渡辺党寄り合ひて、競が沙汰ありけり。
「如何にもして此の競滝口をば、召具せられ候はんずるものを」
と、口々に申されければ、三位入道、競が心をよく知つて、宣ひけるは、
「無下に其の者揃へ搦められはせじ。入道に志深き者なれば、見よ、只今参らうずるぞ」
と宣ひも果てぬに、競つと参りたり。
「さればこそ」
とぞ宣ひける。競畏って申しけるは、
「伊豆守殿の木の下が代に、六波羅の煖延をこそ取つて参つて候へ。参らせ候はん」
とて奉る。
伊豆守斜ならずに悦び給ひて、やがて尾髪を切り、金焼をして、其の夜六波羅へ遣さる。夜半ばかりに門の内へ追入れたりければ、厩に入りて、馬ども囁合ひければ、其の時舎人驚きあひ、
「煖延が参って候」
と申す。宗盛卿急ぎ出でて見給ふに、
「昔は煖延、今は平宗盛入道」
といふ金焼をこそしたりけれ。大将、
「憎い競めを切つて捨つべかりけるものを、手延にして謀られぬ事こそ安からね。今度三井寺へ寄せたらんずる人々は、如何にもして競めを生捕にせよ。鋸で頸切らん」
と、躍り上り躍り上り怒られけれども、煖延が尾髪も生ひず、鉄焼も又失せざりけり。」
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