6月2日
・福原行幸(遷都)。
3日、荒田の平頼盛邸が内裏とされ、安徳天皇は頼盛邸へ、高倉上皇は平野の平清盛邸雪御所へ、後白河法皇は平教盛邸へ、摂政は安楽寺の別当安能の房に、一旦は落ち着く。
4日、高倉上皇、平頼盛邸へ移る(6月4日~7月28日。後、平重衡邸へ)。安徳天皇、平清盛邸雪の御所(本皇居)へ移る。
11日、頼盛の家で遷都の議定を行う。しかしその場では決まらず、兼実を呼んで意見を聞くように清盛が求めたため、兼実が14日に到着するのを待つ。
福原行幸は、平氏政権が南都北嶺の権門寺院が嗷訴や実力行使に訴えることを警戒し、安徳天皇を平氏の根拠地に退避させる一時的処置。
清盛の狙いは福原に新都を建設する遷都であったが、高倉院は福原京を副都とする複都論を主張し、議論は平行線をたどる。
8月になってようやく清盛の意見が通り、福原京を官人が勤務する本務地と定めた遷都が決定。しかし、福原京は、西日本への交通は発達していても、東日本への移動には不便であった。福原遷都は、頼朝挙兵に始まる東国の動乱への対応が後手に回る大きな要因となる。
2日、どうして福原へ行くのか噂が飛び交い、遷都説が有力となる。京に留まる者は罪科を蒙るとの噂さえ飛ぶ。人々が不安気に見守るなか、数千騎の武士の護衛により遷幸の一行は福原に向かう。
九条兼実は「仰天の外他無し」と驚く。また、3日の予定が2日に早まり、付き添う公卿も2~3人、殿上人は4~5人に限るとされる。乱世に生まれ合わせ、このようなことを見るのは宿業である、と兼実は記す。兼実は、福原に供をする人物は清盛の意中の人物だけであるとを知ってはいたが、前日、赴くべきかどうかを清盛に尋ねると、寄宿する所がないので遠慮するように、との返事。
「卯の刻、入道相国(清盛)の福原別業に行幸す。法皇(後白河)・上皇(高倉)同じく以て渡御す。城外の行宮、往古その例有りと雖も、延暦以後すべてこの儀無し。誠に希代の勝事と謂うべきか。敢て由緒を知らんとする人無し。疑うらくは南都を攻めらるべき〈大衆猶蜂起す。敢て和平無しと云々。〉の間、不慮の恐れ有るべきか。・・・或る説、遷都有るべしと。」(「玉葉」同日条)。
この日卯刻(午前6時頃)、安徳天皇(3)の輿には、乳母の帥典侍(時忠の妻)が同乗、中宮徳子・後白河法皇・高倉上皇以下が八条邸を出立。八条通から南下して草津(伏見区横大路)に至り、そこから舟で淀川を下り、この日は大物浦(尼崎市)泊、翌朝福原に赴く。「玉葉」「山槐記」によれば、炎旱のため川の水が干上がり、船や筏が停滞して思うにまかせなかったという。
福原での宿所は、内裏には頼盛邸が、上皇は清盛の別荘(雪見御所)、法皇は敦盛邸があてられ、摂政基通は安楽寺別当の安能房があてられたという。頼盛はその賞により正二位となる。しかし、その他の者は、「道路に立つ(座す、とも)が如し」という。
「平家物語」巻五「都遷(ミヤコウツシ)の事」には、法皇の御所は、四面を板塀で囲み、入口は一つだけで、三間(正面が柱間三つの建物)の板屋を作って押籠め、守護の武士に原田大夫種直ばかりが伺候したので、蔭では「籠(ロウ)の御所」と呼ばれたとある。清盛は高倉宮の謀反に激怒し、一度は解放した法皇を再度監禁する。
「玉葉」によると4日夜には安徳天皇は頼盛邸より清盛の別荘に移る。その割注に「太上皇御所也、則ち居替り給う云々」とあり、それまで清盛邸にいた高倉新院(「玉葉」はこれを太上皇=後白河法皇とするが聞き誤りと推測できる)と入れ替ったということになる。
「山槐記」7月28日条に、頼盛邸の新院が逐日憔悴のためこの夜重衡の宿所に移るとあり、新院が頼盛邸に移っていたことが判る。
□「平家物語」(巻5)では・・・
「都遷(みやこうつり)」:
遷都は、平氏悪行の極まり、滅亡への先触れとされる。
「一天の君、万乗のあるじだにもうつしえ給はぬ都を、入道相国、人臣の身としてうつされけるぞおそろしき」。
物怪之沙汰(もつけのさた):
遷都以来、平家の人々は夢見も悪く、怪異現象が続く。なかでも清盛の眼前には、「ひと間にはゞかる程の物の面」や「死人のしやれかうべ」が出現するが、清盛に睨まれ消え失せる。源中納言雅頼に仕える青侍(せいし)は、平家が滅び源氏に移り、その後藤原に天下が移る夢を見る。
(物語としては、都を中心に平家の悪行を見てきた読者の目を東国の頼朝に向け、源平合戦の第2段階へ入る舞台廻しの位置にある)。
「又、治承四年水無月の比(コロ)、にはかに都遷り侍き。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実(ゲ)にことわりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣・公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ世に余(アマ)されて期する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。
その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音常にかまびすしく、しほ風殊にはげし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ。なほむなしき地は多く、つくれる家は少し。古京はすでに荒て、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にをるものは、地を失ひてうれふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠・布衣なるべきは、多く直垂を着たり。都の手振里たちまちに改まりて、たゞひなたる武士に異ならず。世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく、日を経つゝ世中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民のうれへ、つひにむなしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給にき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきて、その軒をだにとゝのへず、煙の乏しきを見たまふ時は、限りあるみつぎ物をさへゆるされき。是、民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。」(「方丈記」)。
△中山忠親の福原での邸宅建設。
家ができるまで別の宿所にて、その宿所から給地(班給された宅地)に出かけて家作を監督。一旦、京都で家屋を造り、これを分解して堀川~淀川で運び福原で組立てる。また、そのために大工を連れて福原に下向。そして、やっと出来上ると、京都への還幸が言われ始める。
「八月十三日、卯刻輪田原を歴覧し、家人らを居らしめんがため、小松原二、三町ばかりを点ず。」
「二十三日、給地に向い歴覧し、丈尺を打たしむ。」
「二十四日、今日巳刻始めて給地を曳かしむ。」
「二十五日、卯刻給地に向い見回る。」
「二十七日、早旦給地に向い歴覧す。」
(二十八日帰洛)
「九月六日、福原宿所の棟門一字を旧都において造りおわんぬ。今日堀川より下しおわんぬ。」
(十月五日福原に下る)。
「十月七日、辰刻給地に向い、宿所を木作せしむ。このたびは工(大工)十余人を相具すところなり。」
「十日、給地に向い作事を見る。」
「十一日、早旦給地に向い作事を見る。」
「十三日、今日福原宿所上棟なり。」
「二十一日、早旦新造の宿所に向う。今夜この新造の宿所に移徒のことあり。旧都より将軍方に当るによりこの地を井戸次郎長房に譲与す。よってかの所今夜渡るところなり。」。
(十一月二十四日還都-上洛)。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿