2022年7月24日日曜日

〈藤原定家の時代066〉治承4(1180)5月23日~25日 源頼政・以仁王ら軍兵、三井寺を出て、逢坂の関~山科~大和街道から奈良に向おうとする。平家軍はこれを追撃

 


〈藤原定家の時代065〉治承4(1180)5月23日 三井寺衆徒の六波羅夜討ち(未遂) 「三井寺の衆徒等城を構え溝を深くす。平家を追討すべきの由、これを僉議すと。」(「玉葉」23日条) 「永僉議」「大衆揃」(「平家物語」巻4) より続く

治承4(1180)

5月23日

・藤原定家(19)、父俊成と共に外祖母藤原親忠妻の法性寺邸に移る。

5月24日

・六波羅では、山門・寺門・興福寺方面などの状況を窺い以仁王の行方を探り、各方面の情報を集めている。夜1時頃、頼政の菩提樹院の堂が焼ける。頼政方が焼いたと伝えられる。また山の座主明雲が延暦寺に登って三井寺攻撃を勧めると、大半承諾したとのしらせも来る(「玉葉」「山槐記」)。

「今夜丑剋許りに、頼政入道の菩提寿院、火を放つと云々。河原の家の如く自らこれを焼かしむるか」(「山槐記」5月24日条)

「二十四日、乙亥。入道三品(源頼政)の中山堂および山荘が焼け落ちた。」(「現代語訳吾妻鏡」)。

5月25日

・源頼政・以仁王ら軍兵、三井寺を出て、逢坂の関~山科~大和街道から奈良に向おうとする。平家軍はこれを追撃。

・この日夜、以仁王は源頼政以下の武者と園城寺に集まった大衆を率いて南都へ向かって出立。以仁王は、延暦寺が平氏政権と結んで園城寺焼討ちを決定したと聞いて、園城寺では防ぎ切れないと判断し、園城寺が提案した嗷訴に協力を約束した興福寺への移動を決定した。

この段階で、以仁王の行動は明確な軍事行動となり、嗷訴の中心人物を逮捕するために編成した追捕使ほ、謀反人を討つ追討使に改編されている。以仁王と源頼政の動きは平氏政権に対する挙兵となった。

源頼政は、延暦寺が軍勢を勤かすとの情報を得てから合流したので、合戦を覚悟していた。しかし、以仁王も園城寺も興福寺も、あくまで嗷訴のつもりでいたので合戦まで考えが及んではいなかった。ただし合戦となると合戦に慣れた源頼政が主導権を握ることになる。頼政はこの事件に巻き込まれた人物であったが、結果的に事件を主導する役回りとなった。

この時の以仁王の軍勢を、『平家物語』は300余騎と伝え、『玉葉』などは50騎程度と記す。「騎」は騎馬武者の数で徒歩の従者や歩兵は数えていない。50騎は、源頼政の軍勢を主力とした武者や、同宿の者を多く引き連れて参降した院主、坊主(院・坊の大衆の指導者)を数えている可能性が高い。園城寺には、義が子の覚義(かくぎ)を入門させて創建した金光院がある。『平家物語』は以仁王側の大衆として金光院の六天狗を記している。河内源氏とつながりの深い園城寺には、その一族や郎党の子弟が集まっていた。僧侶の姿をしていても、心は武者という武芸に秀でた大衆が数多く混じっていた。

以仁王の軍勢の足並みは、遅かった。以仁王が乗馬に慣れず、宇治までの間に六度も落馬したと『平家物語』は伝える。『源平盛衰記』に記された移動経路は、園城寺から逢坂山を越えて、鵠坂(くぐいざか)、神無森(かみなしのもり)、醍醐、木幡(こわた)、宇治である。この経路沿いに、以仁王一行が宇治に向かった道と伝える古道「頼政道」がある。

「三井寺ニ座(オハ)ス宮、頼政入道相共ニ、去夜半バカリ、逃ゲ去リ南都ニ向フ」(「玉葉」5月26日条)。

「謀反ノ輩、三井寺ノ衆徒ヲ引率シテ、夜中ニ山科ヲ過ギ南京ニ赴ク。官軍之ヲ追ヒ、宇治ニ於テ合戦ス」(「明月記」)。




つづく


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