2022年7月21日木曜日

〈藤原定家の時代062〉治承4(1180)5月17日~20日 園城寺から延暦寺・興福寺へ働きかけ(「山門牒状」「南都牒状」(「平家物語」巻4)) 園城寺長吏房覚らの以仁王引渡し工作、失敗   

 


〈藤原定家の時代061〉治承4(1180)5月16日 頼盛、八条院御所で以仁王の子二人を引き取る 宗盛・時忠が園城寺(三井寺)と交渉、不成立 宗盛、清盛に報告 より続く

治承4(1180)

5月17日

・醍醐の辺で清盛を調伏する祈藤が行われたとの噂が伝えられる。

5月18日

・朝廷の命で、三井寺僧綱たちが寺に派遣され、以光(以仁王)を寺から追放するようにと説得。効果なし。

5月18日

・右大臣兼実、後白河院に伺候。後白河院の憂愁深い。

(十八日)所悩軽カラズト雖モ、不忠ノ恐レヲ謝センタメ新院ニ参ル。上皇出御ス(御小直衣小袴等ヲ着御ス)。竜顔憔悴シ、気力衰へ給フ。去冬以来、御悩隙無ク、重キニアラズト雖モ、旬月ヲ積ム間、筋力疲レ給フカ。尤モ不便。今日門徒ノ僧綱ヲ三井寺等ニ遣ハシ、ソノ左右ヲ申スト云々。隆李、時忠等ノ卿参上ス。頃(シバラク)之アリテ余退出ス。ソノ後神心弥悩マン。」(「玉葉」)。

5月18日

・三井寺から延暦寺と興福寺への働きかけ。

□三井寺側からの牒状工作(「山門牒状」、「南都牒状」(「平家物語」巻4))。

18日付の山門(比叡山)宛の牒状。「(前略)入道浄海欲しいまゝに王法をうしなひ、佛法をほろぼさんとす。愁嘆きわまりなきところに、さんぬる一五日の夜、一院第二の王子(以仁)、ひそかに入寺せしめ給ふ。ここに院宣と号して出したてまつるべきよし(後白河法皇の命令だといって、以仁王を引き渡せといってきた)、責めありといへ共、出したてまつるにあたはず。よって官軍を放ちつかはすべきむね、聞こへあり。当寺の破滅、まさにこの時にあり。・・・」。三井寺は六波羅の攻撃をうける危険にある、「門跡二に相分るといヘども、学するところは是円頓一味の教門」であるから、「年来の遺恨を忘れて当寺の破滅」を助けられたいと訴える(本来同じ天台宗で、兄弟のよしみがあると訴える)。

山門側は前年秋のクーデター時に座主を明雲に替えてあり、平家側からの事前工作が入っている(清盛から、近江米2万石、北国の織延綿3千疋が届き衆徒に配布される)。大勢としては三井寺の牒状に冷ややかな反応を示す。「こはいかに、当山の末寺でありながら、鳥の左右の翅のごとし、また車の二の輪に似たりと、おさへて[低くみて]書くでう奇怪なり。」として、結局、三井寺へは返答せず。

□興福寺(藤原氏の氏寺)に向かっては、清盛を王法・仏法破滅の首魁として責め、関白基房の官を奪って「罪なき長者を配流」したことの無法を強調し、同心して「悪逆の伴類」を退けん、と呼びかける。

21日付け興福寺の返事:

三井寺の呼びかけの2倍半の長さ。平氏が微賤より成上り、身のほど知らぬ僭上と専権とに朝廷・貴族を悩まし、ことに「太上皇のすみかを追捕し、博陸公の身ををしなが」し、「反逆の甚しいこと誠に古今にたへたり」と攻撃し、われわれは「鬱陶をおさへて光陰を送」っていたところであった、そこへ三井寺から「青鳥飛び来って芳翰を投げ」、「数日の鬱念一時に解散」したと返答。

返事の書き出しに「抑清盛入道は平氏の糠糟、武家の塵芥なり」と書いたのは興福寺の学匠、信救得業であるという。これが清盛の知るところとなり、指名手配され、容貌を変えて南都から逃れ、後に源義仲に属して大夫房覚明と称して書手を勤めたと伝えられる。興福寺は、平氏と真正面から対立・対抗し、この年12月の南都の大災厄に繋がる。

5月19日

安徳天皇の護持僧を務める園城寺長吏房覚(ぼうかく)が、園城寺に対して以仁王引き渡しの交渉にあたる。房覚が寺内の大衆を説得して以仁王の引き渡しに成功すれば、厳しい責任追及は行わず、数人の悪僧を流罪にするだけで落着させた可能性が高い。

以仁王の側は、後白河院第二王子の立場から平氏政権の悪政を批判することで、今回の事件を正当化しょうとした。平氏の人々も以仁王も、この段階では嗷訴によって決着がつくだろうと判断していたので、八条院を巻き込まない形で事件を処理しょうとしている点では利害が一致している。園城寺が、嗷訴の手順を踏んで南都北嶺の権門寺院に協力を呼びかけている以上は、誰もが嗷訴と考えるのは当然である。

平氏政権は、園城寺長吏房覚をはじめとした高僧を通じて以仁王引き渡しの交渉を進める一方で、園城寺の仇敵延暦寺に協力を要請し、兵粮米の提供を約束した。園城寺の嗷訴に延暦寺が同調すれば、京都の政局が容易ならざる事態に陥るのは明らかである。平氏政権は、延暦寺が少なくとも中立、好意的に動いてくれるのであれば、提携して園城寺を追い詰めようともくろんでいた。

5月19日

・昨日三井寺に派遣された僧綱は誰も宮中に出仕せず、大僧正房覚のみ報告に伺候。三井寺の大衆は、宮を出し奉る訳にゆかぬと云い切った、大衆の張本人の名もわかった、とのこと。また、朝廷から、山門が王に与力せぬよう再び命令が出る。三井寺が南都に牒状を送ったとの噂が流れるが、真実のほどは不明。三井寺の反逆的態度により、円恵法親王には、検非違使の監視が付けられる。

5月20日

・噂によると昨日派遣の僧綱が、三井寺の大衆に、王を寺の外に出すよう申し入れ、大衆はこれを承諾。円恵法皇親王が迎えの人を派して、王を受けとろうとすると、王は憤然として、「汝、我を捕へんと欲すとも、更に手にかゝるべからず」と言う。同時に、武装した悪僧7~8人が使僧を追い帰す。

「(二十日)人伝ニ云ハク、留守スル所ノ僧綱、子細ヲ衆徒ニ示ス。衆徒各宮ヲ出シ奉ルベキ由承諾ス。仍ツテ昨日八条宮御迎へノタメ人ヲ進ラセラル(有職二人並ビニ房官等相副へラルト云々)。カノ宮ノ在所ニ就キ出シ奉ラントスル処、宮色ヲ作シテ云ハク、汝ワレヲ搦メントス。更ニ手ヲ懸クべカラズト云々。爰ニ甲冑ヲ着クル恵僧七八人出デ来タリ、カノ有職己下ヲ追ヒ散シ、殆ド凌礫ニ及ブト云々。仍ツテ空シク以テ帰洛ス。事ノ体僧綱ノ制止ニ叶フベカラズト云々。又云ハク、在京ノ武士等、懼悚保極マリ無シト云々。」(「玉葉」)。


つづく


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