治承4(1180)
5月25日
・興福寺に対して、高倉院や摂関家が、事情を説明するよう使者を派遣したが、聞き入れられず。
5月26日
・宇治川の合戦
源三位頼政(76)ら、追尾する平氏の軍と宇治川に戦って敗死。
朝廷の派遺した追討使が鳥羽作道(つくりみち)から南都に向かって南下する道と、以仁王の軍勢が園城寺を出発して南都に向かう道の合流点が、宇治である。頼政はこの地を最期の場所と定め、平等院に陣を構え、対岸の追討使を足止めしようとした。以仁王には護衛をつけ、興福寺に向けて先行させた。『平家物語』は、宇治橋をめぐる攻防となったことから、この宇治川の合戦を「橋合戦」と呼ぶ。
平等院に本陣を構えた頼政は、宇治橘の橋桁を落として守りを固め、追討使を待つことにした。頼政の軍勢は、頼政とその子仲綱・兼綱がそれぞれに郎党を束ねた一隊を編成し、園城寺の大衆が一隊を編成する4隊。
追討使は、平知盛・重衡・行盛以下平氏の武将9人が大将軍となり伊藤忠清をはじめとした平氏の家人が侍大将となっている。
官軍としての体裁を保つため、追討使には河内守源康綱など在京する源氏を加えている。公家の日記に記された合戦記録を見ると、美濃源氏の源重清(しげきよ)が渡辺加(くわう)以下5人を討ち取っている。『吾妻鏡』は、内裏大番役で上洛していた東胤頼(とうたねより、千葉介常胤の子)ら在京していた武者が編入されたと伝える。
〈合戦の概況〉
追討使第一陣の上総介伊藤忠清が300騎で宇治橋の橋上の正面から攻撃。これを頼政方の先頭、園城寺の大衆浄明房明俊(じょうみょうぼうみょうしゅん)が同宿の僧20人を率いて奮戦。忠清の軍勢が攻めあぐんでいるのを見て、第二陣が強引に前に出ようとして、橋上は更に混乱し、追討使の被害が拡大した。
この状況を見た下野国の豪族足利忠綱は、自分の軍勢は利根川を挟んだ合戦で大河を渡ることに慣れているといい、秀郷流藤原氏の人々をはじめとした下野・上野・武蔵の武者200騎で馬筏(渡河戦用の陣形)を組んで宇治橋の下流を渡る。これを見た追討使の軍勢が同じように馬筏を組んで渡ったことで、追討使の騎馬隊は橋を中心に布陣していた頼政の軍勢を北側から襲う位置を確保した。この展開により、勝敗は一気に決した。
〈頼政の死〉
『平家物語』は、頼政が平等院の扇の芝で自害したと伝える。頼政の介錯は、渡辺長七唱(わたなべのちょうしちとなう)が務めたと伝える。嫡子仲綱もまた、頼政が自害の準備を始めたことを知り、下河辺清親の介錯によって自害。仲綱の頸は清親が平等院の板敷に隠したが、血痕から後日発見されたと伝える。兼綱は以仁王に合流しようと平等院を脱出して南下を試みだが、上総判宮忠綱に射落とされ、側にいた童部(わらわべ)が頸を落とす。養子の源仲家・仲光父子も、頼政とともに自害。頼政とともに戦った武者の名前は、摂津国の渡辺党の人々、内藤守助・重助父子、下総国の下河辺清親、伊豆国の工藤四郎・五郎兄弟、因幡国の埴生盛兼、八条院判官代として在京した下野国の足利義清などが伝えられる。
合戦に加わった頼政の子の中で、頼兼は美濃国に逃れる。郎党の下河辺氏は、「あまたありけるも、みな落ちにけり」(長門本『平家物語』)と、軍勢としてのまとまりを維持したまま東山道を退却。伊豆国の工藤氏は、船に乗るべく、伊勢国の大湊をめざして落ちていった。因幡国の埴生盛兼は、戦場を逃れても畿内に潜伏した。園城寺の大衆は、戦場から思い思いに落ちて寺に帰っていった。近江・美濃への脱出に成功した人々が、以仁王・源頼政の戦いを継続していくことになる。
頼政は、美濃に拠点をおき、伊豆国を知行国として東国に勢力をのばしていた。頼政の縁者や郎党は、美濃・遠江・伊豆・武蔵・下総と東国に広がっていた。宇治合戦を戦ったのは、この時に在京した人々であるが、参加した武者の地域分布を見ても、平氏に次ぐ規模を持っていたことが確認できる。
頼政の辞世の句は「埋木(うもれぎ)の 花さく事も 無(なか)りしに みのなるはてぞ 哀(かなし)かりける」(『平家物語』)で、自らの生涯を埋木と表現した。大内守護は、御所の宿直(とのい)が中心であり、朝廷官人として表舞台に出る機会の少なかった頼政の心を詠み込んでいると推測できる。天皇を直衛する立場から、保元・平治の乱では御所に留まって後詰めに回り、最後の合戦となる宇治合戦でも以仁王を逃がすために追討使を足止めする戦闘に徹した。
埋木は、重代の職である大内守護と、武人としては二番手の扱いを受けた悔しさの二重の意味をかけた辞世である。
以仁王の最期
頼政が宇治の平等院で追討使を足止めしている間に、以仁王は南都の興福寺をめざして逃走。男山(石清水八幡宮)を遥拝し、贄野(にえの)の池を通り、綺田(かばた、京都府木津川市)の光明山寺(廃寺)の鎮守の鳥居の前までたどり着いた。以仁王の乳母夫藤原宗信は、乗っていた馬が弱く、この逃走の中で落伍したと伝える。
追討使の侍大将藤原景高は源頼政が以仁王を逃すための時間稼ぎをしていると気づき、軍勢を分けて南都へ急行させた。以仁王の一行は綺田で追討使に追いつかれて合戦となった。護衛には園城寺の大衆が付き従っていたが、以仁王は流れ矢が腹に当たって動けなくなり、最後まで従っていた人々が身柄を隠して頭を落としたと伝える。その頭が発見されなかったことが、生存説のささやかれる原因となった。
綺田と南都大衆の先陣が到着していた木津は、ほんの数kmの距離である。
(「いま五十町ばかりまちつけ給はでうたれさせ給ひけん、宮の御運のほどこそうたてけれ」(「平家物語」))
頼政の軍勢は、総大将が自害するとの情報から敗北を確認し、各自の判断で戦場から退いていった。以仁王に合流しようと試みたのは源兼綱のみである。
午前11時頃、兼実が上皇の宮に出仕すると、時局について上皇の諮問があった。三井寺・興福寺衆徒が謀坂に与同したについて、その末寺・荘園を廃すべきや否やを合議すべき旨の命であった。この詮議の最中、午の刻(12時頃)、検非違使源季貞が宗盛の使者として参院。検非違使別当平時忠が報告を受け取り、頼政以下党類すべて誅したとのこの報告を院に披露。
「謀反ノ輩、三井寺ノ衆徒ヲ引率シテ、夜中ニ山階ヲ過ギ南京ニ赴ク。官軍之ヲ追ヒ、宇治ニ於テ合戦ス」(「明月記」5月26日条)。
「飛騨守景家・上総守忠清等宇治ニ発向スルノ間、宮先ヅ橋ヲ渡り給フ。彼方ノ甲兵橋ヲ引ク」(中山忠親「山槐記」)
☆「山槐記」著者中山忠親(従二位権中納言)は平維盛自身に取材して、三井寺に赴いた頼政の軍勢は50余、追討に向かい馬筏を組み宇治川渡河したのは200余とする。「平家物語」「源平盛衰記」は追討軍2万8千、頼政軍1~2千とする。
「山槐記」は、26日の閣議で報告された内容を書き留める。飛騨守景家が頼政を、上総守忠清が兼綱を打ちとる。その外、平等院廊下に自害者3人の死体があり、そのうちに浄衣を着て頚のないのがあって何人とも判定がつかなかった。頼政の子の仲綱の消息は不明、以仁王は南都に入る、とこの段階では伝えられる。この合戦中に、後詰の重衡・維盛軍が宇治に到着。南都攻撃が議論されるが、藤原忠清が、地理不案内の南都に暗くなってから到着して合戦するのは危険なので、攻撃は見合わせた方がよいと主張。結局、30余の首を持って帰京した。
平等院の殿上の廓に自殺した者3人ありとの報があり、内1人は首がないので以仁王ではないかということになる。「愚管抄」は、「宮ノコトハ確カナラズトテ、御頸ヲ万ノ人ニミセケル」と、宮を知る人にその首を見せたところ、宮の学問の師日野宗業(ミネナリ)が宮であると見定めたという。「吾妻鏡」は、宮は光明山の鳥居の前で討死と記す。
「小時アリテ平等院ノ執行良俊、使者ヲ奉り申シテ云ハク、殿上、廊内、自殺ノ者三人相残ル。ソノ中具サニ首無キ者一人アリ。疑フラクハ富力ト云々。王化猶地ニ堕チズ。逆賊遂ニ擒り殺サレ了ンヌ。啻ニ王化ノ空シカラザルノミニアラズ。又コレ入道相国ノ運報ナリ。」(「玉葉」26日条)。
□「卯の刻、宮南都に赴かしめ給う。三井寺無勢の間、奈良の衆徒を恃ましめ給うに依ってなり。三位入道の一族並びに寺の衆徒等、御供に候す。仍って左衛門の督知盛朝臣・権の亮少将維盛朝臣已下、入道相国の子孫、二万騎の官兵を率い、宇治の辺に追い競い合戦す。三位入道・同子息(仲綱・兼綱・仲宗)及び足利判官代義房等を梟首す(三品禅門の首、彼の面に非ざる由、謳歌すと)。宮また光明山鳥居の前に於いて、御事有り(御年三十と)。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」
「丁丑。快晴。卯の刻に宮(以仁王)は奈良へ向けて出発された。三井寺だけでは軍勢が足り興福寺の衆徒をあてにしてのことである。三位入道(源頼政)の一族と三井寺の衆徒が御供に参じた。そこで、左衛門督(平)知盛朝臣・権亮少将(平)維盛朝臣をはじめとする入道相国(平清盛)の子や孫は、二万騎の官軍を率いて競って一行の後を追い、宇治の辺りで合戟となった。頼政とその子息仲綱・兼綱・仲家、および足利判官代義房らの首がさらされた。しかし頼政のものとされた首は頼政ではなかったという噂が立った。以仁王もまた、光明山の鳥居の前で御最期を遂げられた。享年三十歳という。」。
□「(二十六日)三井寺に坐す宮、頼政入道相共に、去る夜半ばかりに逃げ去り南都に向かう。その告げを得るに依って、武士等追い攻めると。・・・午の刻、検非違使季貞前の大将の使いとして参院す。時忠卿に相逢い、申して云く、頼政が党類併せて誅殺しをはんぬ。彼の入道・兼綱並びに郎従十余人の首を切りをはんぬ。宮に於いては慥にその首を見ざると雖も、同じく伐ち得をはんぬ。その次第、寅の刻ばかりに、逃げる者の告げを得る。即ち検非違使景高(飛弾の守景家嫡男)・同忠綱(上総の守忠清一男)等已下、士卒三百余騎これを遂責す。時に敵軍等宇治平等院に於いて羞喰の間なり。宇治川の橋を引くに依って、忠清已下十七騎、先ず打ち入る。河水敢えて深み無く、遂に渡り得る。暫く合戦するの間、官軍進み得ず。その隙を得て引いて降ち去る。官軍猶これを追い、河原に於いて頼政入道・兼綱等を討ち取りをはんぬ。その間彼是死者太だ多し。・・・敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと。その中兼綱の矢前を廻るの者無し。恰も八幡太郎の如しと。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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