治承4(1180)
5月1日
・藤原定家(19)、4月29日の台風被害の大きかった前斎宮亮子内親王を見舞う。
2日、八条院の鳥羽院御忌日仏事の参仕。
10日、法勝寺三十講結願に参仕。
29日、百座仁王講の堂童子を勤める。"
「五月一日。晴天。斎宮二参ジ、健御前ヲ訪ネ申ス。姫宮ヲ抱キ奉ル。心中又存命スベキノ儀ヲ存ゼズト云々。檜皮庭上ニ分散。破損ロノ宣ブベキニアラズ。」(「明月記」)。
(前斎宮亮子内親王を見舞う。同母姉の健御前が、後白河院の第一皇子以仁王の姫宮を抱いて出て来て、生きた心地がしないという)。亮子内親王は以仁王の姉で以仁王の娘5歳を引き取って育てている。健御前は、姉京極殿(坊門殿)と共に仕えた建春門院の没後、この内親王(前斎宮)に出仕。この主従は、その後辻風のために損傷した四条殿から、三条高倉の以仁王の邸宅に移る。10日にもまた定家は、大破した四条殿から、栄全法眼坊の手配で、六条高倉に避難していた亮子を見舞っている。)
「五月十一日。晴天。院ニ参ズ(二藍ノ狩衣。猶張衣ヲ着ス)。隆房中将単衣許リヲ着ス。今ニ於テハ暑気己ニス。単衣許り宜シキ由、相示サル。右近ノ馬場真手結ヒノ日、女車ヨリ歌ヲ送ル(花田ノ薄様ニ書ク)。返歌等態(ワザ)々注ヲ付ケ、授ケラル。家君ニ覧ゼシメンガタメナリ。退出シ、八条院二参ズ。」(「明月記」)。
(高倉院に参じる。暑気の候、単衣ばかりでもよいと藤原隆房が示す。右近馬場の競馬があり、女車から縹(ハナダ)色の薄様にしたためた歌を送られる。恋文かと思いきや、俊成に送る詠草だったのでがっかりする。)。
5月2日
・高倉上皇、天変(暴風)に危惧。
2日末刻(午後2時頃)、前大納言邦綱が兼実に対し、新院は、昨日の暴風は「朝家の大事」である、御祈以下の事をすべきではないか、宗盛らは一向に沙汰しない、どうしたものだろう、と相談をもちかけている、と言う。
また、邦綱は、「三井寺に召さるるの輩、一人すでに出来(シュッタイ)公顕僧正搦め進む、残四人いまだ出来せず。件の張本ら、世間云々の上、本寺に落書あり。その状云々の説の如し。よってかれについて張本を召さると云々。」(「玉葉」同日条)。
5月8日
・平知盛、この日夜から重病に冒され、「万死に一生、頗る物狂(ものぐるい)か」といわれた。
清盛は10日に上洛し、翌日福原に帰っている。12日には知盛が「平減(へいげん、健康状態に戻ること)」しているので、急を聞いて見舞いに駆けつけ、病が峠を越えたのを確認して戻ったと考えられる(『玉葉』)。
この時既に以仁王の件を知っての上洛との説もある(15日に行動を起こしている)。
病名の「物狂」は、『和名抄(わみょうしょう)』(10世紀前半に成立した日本最初の分類体の百科辞書)では、「癲狂(てんきょう、癲と狂)」を和語で「毛乃久流比(ものくるひ)」と読ませているが、「狂(精神病性障害)」とは考えられないので、「癲」の症状と思われる。
つづく
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