2022年8月7日日曜日

〈藤原定家の時代080〉治承4(1180)8月17日 頼朝(34)挙兵(山木合戦) 「今度の合戦を以て生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる」(「吾妻鏡」) 時政らが山木兼隆と後見堤信遠を討つ 頼朝は北条館で待機

 


〈藤原定家の時代079〉治承4(1180)8月9日~17日 頼朝、佐々木兄弟の山木攻め参着遅れに悩む 京都に帰った大納言藤原実定「旧き都を来てみれば、浅茅が原とぞ荒れにける、月の光は隈なくて、秋風のみぞ身にはしむ。」 より続く

治承4(1180)

8月17日

・頼朝(34)挙兵(山木合戦)

三島大社の祭礼日。蛭ヶ小島に流刑の源頼朝、伊豆韮山で挙兵。

北条時政・宗時・義時(18)ら85騎、北条館北上、肥田原で牛鍬大路を東行、堤信遠の館奇襲(頼朝は、北条時政の屋敷に)。

加藤景廉、夜襲で伊豆目代山木兼隆を急襲、倒す(伊豆は平時忠の知行国、平家家人の山木兼隆が目代。兼隆は平氏家人関信兼の子)。安達盛長(45)参加。

頼朝警護:佐々木兄弟(盛綱)・加藤景兼・堀親家。

出陣組:北条時政・佐々木兄弟(定綱・経高・高綱)・岡崎義実・土肥実平。

山木は、鹿ヶ谷事件で検非違使少尉として、天台座主明雲を拷問した人物。父出羽守関信兼が、治承3年に兼隆の検非違使解任を申請し、父親の判断として伊豆国に籠居させていた。朝廷の罪人ではないので、平時忠が目代に任命しても問題ない。『吾妻鏡』は頼朝挙兵の正当性を主張するために、平氏の家人山木兼隆を討ったと宣言したが、平氏の側から見た山木兼隆は後白河院に接近しすぎた要注意人物であった。平時忠も、知行国として給わった伊豆国に在国していた兼隆を目代に任命しただけである。目代殺害は国司に対する攻撃となるが、目代は国司の私的な従者なので、朝廷の官人ではない。国司が反逆と申請すれば討った人物を罪人として処罰することになる。仮に、平時忠が兼隆は頼朝との私闘で討たれたと報告すれば、反乱とはならない。時忠から知らせを受けた清盛や関信兼がこの一件をどう考えたかは、判断のつかないところ。

□「吾妻鏡」

「未の刻、佐々木の太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、兄弟四人参着す。定綱・経高は疲馬に駕す、盛綱・高綱は歩行なり。武衛その躰を召覧し、御感涙頻りに顔面に浮かべ給う。汝等の遅参に依って、今暁の合戦を遂げず、遺恨万端の由仰せらる。洪水の間意ならず遅留するの旨、定綱等これを謝し申すと。・・・然る間明日を期すべきに非ず。各々早く山木に向かい雌雄を決すべし。今度の合戦を以て生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる。また合戦の際、先ず放火すべし。故にその煙を覧らんと欲すと。士卒すでに競い起こる。北條殿申されて云く、今日は三島の神事なり。群参の輩下向の間、定めて衢に満たんか。仍って牛鍬大路を廻らば、往返の者の為咎めらるべきの間、蛭島通を行くべきか。てえれば、武衛報じ仰せられて曰く、思う所然りなり。但し事の草創として、閑路を用い難し。将又蛭島通に於いては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべしてえり。また住吉小大夫昌長(腹巻を着す)を軍士に副えらる。・・・

盛綱・景廉は、宿直に候すべきの由承り、御座の砌に留む。然る後茨木を北に行き肥田原に到る。北條殿駕を扣え定綱に対して云く、兼隆が後見堤権の守信遠、山木の北方に有り。勝れる勇士なり。兼隆と同時に誅戮せずんば、事の煩い有るべきか。各々兄弟は信遠を襲うべし。案内者を付けしむべしと。定綱等領状を申すと。子の刻、牛鍬を東に行き、定綱兄弟信遠が宅の前田の辺に留まりをはんぬ。定綱・高綱は、案内者(北條殿雑色、字源籐太)を相具し、信遠が宅の後に廻る。経高は前庭に進み、先ず矢を発つ。これ源家平氏を征する最前の一箭なり。時に明月午に及び、殆ど白昼に異ならず。信遠が郎従等、経高の競い到るを見てこれを射る。信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相戦うの間、両方の武勇掲焉なり。経高矢に中たる。その刻定綱・高綱後面より来たり加わり、信遠を討ち取りをはんぬ。北條殿以下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。而るに兼隆が郎従多く以て三島社の神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。然れども残留する所の壮士等、死を争い挑戦す。

この間定綱兄弟信遠を討つの後、これに馳せ加う。爰に武衛軍兵を発するの後、縁に出御し、合戦の事を想わしめ給う。また放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らしむと雖も、良久しく烟を見ること能わざるの間、宿直の為留め置かるる所の加藤次景廉・佐々木の三郎盛綱・堀の籐次親家等を召し、仰せられて云く、速やかに山木に赴き、合戦を遂ぐべしと。手づから長刀を取り景廉に賜う。兼隆の首を討ち持参すべきの旨、仰せ含めらると。仍って各々蛭島通の堤に奔り向かう。三輩皆騎馬に及ばず。盛綱・景廉厳命に任せ、彼の館に入り、兼隆が首を獲る。郎従等同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以て焼亡す。暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧玉うと。」

□「現代語訳吾妻鏡」。

「丁酉。快晴。三島社の神事があった。藤九郎(安達)盛長が奉幣の御使として社参し、間もなく帰参した。神事が行われる以前のことであった。未の刻に、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱の兄弟四人が参着した。定綱・経高は疲れた馬に乗っており、盛綱と高綱は徒歩であった。武衛はその様子を御覧になり、感動の涙をしきりに面に浮かべ、「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい。」と仰った。洪水のために心ならずも遅れてしまったと定綱らが謝罪を申したという。

戌の刻に、盛長に仕える童が釜殿で兼隆の雑色の男を生け捕りにした。御命令によるものであった。この男は、最近北条館の下女を嫁としたので、夜な夜な通ってきていた。しかし今夜は、勇士たちが殿中に群れ集まっており、これまでの様子と違っているので、きっと気づいてしまうだろうとお考えになり、このように男を捕えさせたという。そこで、「明日を待ってはいけない。それぞれ早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦いによって生涯の吉凶を決めるのだ。」と頼朝が仰った。また、合戦の時にはまず火を放つように命じられた。特にその煙を御覧になりたかったためという。武士たちはすでに競って奮い立っていた。北条殿(時政)が申し上げた。「今日は三島杜の神事があり、多くの人々がやってきているので、きっと道は人であふれているでしょう。牛鍬大路を経由すると行き来する人たちに答められてしまうので、蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」。頼朝はこう答えた。「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから、大道を用いなさい」。また、住吉小大夫昌長〔腹巻を身に着けていた〕を軍勢に付き添わせた。これは戦場で祈頑をさせるためである。盛綱と(加藤)景廉は留守を守るように命じられ、頼朝の近くに残った。

その後、(軍勢は)蕀木を北に行き肥田原に到着した。北条時政は馬を止めて定綱にこう言った。「兼隆の後見の堤権守信遠が山木の北の方におり、優れた勇士である。兼隆と同時に誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように。案内の者を付けよう」。定綱らはこれを了解したという。子の刻には、牛鍬大路を東に行き、定綱兄弟は信遠の邸宅の前田の近くに集まった。定綱と高綱は、案内に付けられた時政の雑色で源藤太という者を連れて信遠の邸宅の後ろにまわった。経高は前庭へと進み、そこで矢を放った。これが、平氏を討伐する源家の最初の一矢であった。その時、月は明るく真上に光り、昼間と変わらない程であった。信遠の郎従たちは経高らか競って攻めてくるのを見て矢を放ち、信遠も太刀を手にとって西南の方角へ向かってこれを迎え撃った。経高は弓を捨てて太刀を取り、北東の方角に向かって戦った。信遠と経高のどちらの武勇も際だっていた。経高に矢が当たったが、その時に定綱と高綱が邸宅の背後から参戦し、信遠を討ち取った。時政をはじめとする者は、兼隆の館の前の天満坂の辺りまで進み、矢を放って合戦した。兼隆の郎従の多くは三島社の神事を拝見しようと参詣し、そのまま黄瀬川宿に留まって遊び歩いており不在であった。兼隆の館に残っていたわずかな男たちは、死を恐れず時政らに戦いを挑んでいた。この間に定綱兄弟は信遠を討ってから時政の軍勢に加わった。

さて、頼朝は、軍兵を送り出した後、館の縁側に出て合戦のことをお思いになっていた。また、火を放った煙を確認させるために、御厩の舎人の江太新平次を木の上に登らせたが、しばらく煙を見ることができなかったので、警固させていた加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家らをお呼びになり、「すぐに山木に赴き、合戦に加わるように。」と仰った。手ずから長刀を取って景廉に与えられ、兼隆の首を討って持ち帰るようよくよく命じられた。そこで三人は、馬にも乗らず蛭嶋通りの堤を走って行った。盛綱と景廉は厳命通りにその館に討ち入り、兼隆の首をとった。(兼隆の)郎従たちも死を逃れることはできなかった。屋敷に火を放ちすべて燃えてしまった頃には朝になっていた。帰ってきた武士たちは館の庭に集まった。頼朝は縁で兼隆主従の首を御覧になったという。」

○経高(?~1221承久3)。

佐々木秀義次男。父と共に関東に下向している。

○信遠(?~1180治承4)。

伊豆国目代山木兼隆の「後見」とされる。

○親家 (?~建仁2)。

堀藤次と称す。頼朝が伊豆で挙兵すると、直ちに参じる。

○佐々木定綱(1142~1205)

佐々木秀義の長男。母は源為義の女。通称太郎。平治の乱で父、兄弟らと共に義朝に属して敗れ、下野の宇都宮氏に身を寄せる。頼朝の挙兵に応じ、以来多くの軍功をあげ頼朝に信頼される。失っていた本領近江国佐々木荘の地頭職に補され、ついで近江国守護となる。しかし、建久2年(1191)4月、佐々木荘内延暦寺千僧供養領の年貢を対捍したことで憤った衆徒らとの間で殺傷事件が起こり、薩摩に配流。建久4年3月12日に赦され、鎌倉に帰着(「吾妻鏡」建久4年10月28日条)。頼朝は喜んで、近江守護職ほか旧領を安堵し、更に隠岐一円地頭職・長門・石見守護職に補す(「同」同年12月20日条)。その後、在京して京都大番役・検非違使を勤め、従五位上に任ぜられ、元久2年(1205)4月9日病没(64)。

○佐々木高綱(?~1214建保2)

佐々木秀義4男。母は源為義の娘。父秀義と共に渋谷重国のもとに身を寄せ、頼朝のもとに出入りする。頼朝の挙兵に父・兄弟らと共に参陣し、頼朝を守って側近くで奮戦、軍功を重ね信頼を得る。元暦元年(1184)正月、義仲追討には義経に従って宇治路より入洛。「平家物語」に頼朝より拝領した名馬生唼(イケイズキ)に乗り、梶原景李と宇治川で先陣争いをするとの逸話を残す。やがて左衛門尉に任じられ、備前・長門の守護となる。また、焼失した東大寺再建に尽力する重源上人に協力し、周防国より材木を調達するなど奉行として便宜を計り、その功を頼朝に賞される(「吾妻鏡」文治5年6月4日条)。しかし、恩賞の不満からか、建久6年(1195)家督を嫡男重綱に譲り、高野山に遁世し出家(「同」建仁3年10月26日条)。建保2年(1214)11月没。   

■「平家物語」巻5では、頼朝に挙兵を勧めたのは文覚であると云い、文覚の前半生を「文覚荒行」「勧進帳」「文覚被流」「福原院宣」の4章で描き、文覚が福原に赴き後白河院から平氏誅罰の院宣を得てきたと語る。

文覚荒行(「平家物語」巻5)

頼朝は、父義朝謀反により14歳で伊豆蛭島に流されている。その頼朝に高雄の文覚上人が反乱を勧めた。

文覚は、渡辺党の遠藤左近将監茂遠の子遠藤武者盛遠で、上西門院(鳥羽天皇と待賢門院との間の第2皇女統子)に仕えていたが、18歳の時に出家。

那智の滝に21日うたれ、那智に千日参篭し、吉野の大峰に3度、葛城山に2度、その他全国修業して周り、都に上ったときには飛ぶ鳥を祈祷で落とすほど。

勧進帳(「平家物語」巻5)

文覚は高雄山で神護寺を修理しようと大願をおこし、施主を募って歩く。後白河院の所へ行き、庭に押し入り勧進帳を大声で読み上げる。

文覚被流(ながされ、「平家物語」巻5)

文覚は、高雄の神護寺に荘園を寄付するまでは帰らないと、刀を抜いて大暴れし投獄、その後、大赦。しかし、また妙なことをいって勧進をして歩いたので、伊豆に流される。

福原院宣(「平家物語」巻5)

文覚は伊豆で頼朝に会い、平重盛没後の今となっては、あなたより将軍にふさわしい人はいない、と謀反を勧める。文覚は、頼朝の父義朝の頭蓋骨を持っている。頼朝が、義朝への勅勘が赦されないと挙兵できないと言うと、文覚は福原へ行き、前右兵衛督光能(みつよし)を通じて法皇から頼朝への院宣を持って戻る。

「光能卿、院の御気色を見て、文覺とて余りに高雄の事すすめすごして伊豆に流されたる上人ありき。それして云いやりたる旨も有りけるとかや。但しこれ僻事なり。文覺、上覺・千覺とて具してある聖流されたりける中、四年同じ伊豆の国にて朝夕に頼朝になれたりける。その文覺賢しき事共を仰せも無けれども、上下の御事の内を探りつつ云いいられけるなり。」(「愚管抄」)。


つづく


0 件のコメント: