2011年2月20日日曜日

昭和8年(1933)2月20日 小林多喜二の死 「あー またこの二月の月かきた ・・・」

今日(2月20日)は、小林多喜二の命日。
昭和8年2月20日午後7時過ぎ、彼は築地警察署で虐殺されている。
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ノーマ・フィールド「小林多喜二」(岩波新書)から引用させて戴く。
(但し、改行を加えます)
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「一九三三年二月二〇日、多喜二は仲間の今村恒夫とともに共産青年同盟の三船留吉と赤坂の飲食店で会うことになっていた。
だが、待ち受けていたのは築地署の特高警察だった。三船はスパイだったのである。
多喜二も今村も精一杯走ったが、追う方は「泥棒! 泥棒!」と叫ぶ。逃げきれるはずはなかった。

多喜二の「取り調べ」は警視庁特高ナップ係の中川成美やその部下によって行われた。
寒中、裸にされた多喜二に加えられた暴力は『一九二八年三月十五日』で描かれたものにも増して残忍だった。

三時間の末、瀕死の状態で前田病院に運ばれ、まもなく絶命した。
三時間の拷問とは何を意味するか。
情報をはき出させるのが主眼ではない。中川たちが殺意に満ちていたことはいうまでもないが、手早く殺してしまっても目的は果たせない。多喜二の苦しみを味わう時間を彼らは必要としていた、としか理解しようがない。
特にむごたらしいディテールの内に数えられないかもしれないが、彼らは右手の人差し指を手の甲に届くまで折った。もう原稿に向かうことはあり得ないのに、わざわざ、である。

多喜二の死は翌二一日の午後三時ごろ、ラジオの臨時ニュースで報じられた(『ガイドブック小林多喜二の東京』)。死因は「心臓麻痺」と発表された。
一般メディアは敗戦後まで真実を公表することはなかった。
知らせを受けた母セキが、二歳になる孫を負ぶって築地署に現れたときの写真がある。ネンネコから顔を出す孫の目はばっちりとこちらを見上げて、無表情に目を伏せる祖母と対照的である。

馬橋の家にその夜集まった人たちのうちには、小樽時代の友人・斉藤次郎、乗富道夫、寺田行雄や、作家同盟の仲間多数がいた。
原泉、千田是也、貴司山治はデスマスクをとることを思いたち、深夜でありながら石膏を買い、千田の友人で彫刻家の土佐哲二を起こし、急いでとった。翌朝になって警察が来るのを恐れ、石膏が生かわきの状態で外すと、割れてしまったが、そのまま土佐が持ち帰った。
後にセキは息子の睫がついていることに気づくが、現在市立小棒文学館に寄託されている。
画家の岡本唐貴が死に顔を描いた。
右翼に刺殺された山本宣治の従兄弟・安田徳太郎医師が遺体を検査した。その際、窪川(佐多)稲子と中条(宮本)百合子がセキと安田医師を手伝って、服を脱がせている。露(あらわ)にされた遺体のむごたらしさに、みんな思わず声を出し、顔をそむけた。しかしセキは、集まった者らに傷跡を見よ、と凄味をもって襟をかき拡げた。
写真が写され、戦後まで隠されて残った。
翌日、解剖を望んで、病院三軒に当たってみたが、断られる。特高の手がすでに回っていたのである。

二一日の晩、原泉に事情を話して案内された伊藤ふじ子は、馬橋の家に一際、姿を現す。セキに挨拶するが、タキをかわいがってきたセキは、この見知らぬ若い女性に冷たかった。タキは妹とともに通夜にも告別式にも参列している。

馬橋の家に駆けつけた仲間や知人の多くは検束される。告別式も厳重な警戒の下で、身内とひとにぎりの知人によって行われた。棺は赤旗に包まれた。
火葬場までの沿道も、火葬場内にも、武装された警官が立ち並んでいた。小樽に戻った遺骨は、『不在地主』 の印税でセキが建てた奥沢墓地の小林家の墓に納められた。

二月二〇日が誕生日の志賀直哉は、丁重な手紙と香典をセキに送った。日記には 「アンタンたる気持ちになる、不図(ふと)彼らの意図ものになるべしという気する」と記す。
魯迅は弔電を送ってきた。彼も発起人になって、中国の文学者が遺族のための募金活動を始める。・・・」
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新聞報道は、・・・
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2月22日(水)付『東京朝日新聞』

(見出し)
「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」

(記事)
「『不在地主』『蟹工船』等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(三一)は二十日正午頃党員(*今村恒夫)と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林(*小沢果の誤記)特高課員に追跡され約二十分にわたつて街から街へ白昼逃げ回つたが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された、最初は小林多喜二といふ事を頑強に否定してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、二十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる」
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警察発表をそのまま報道している。
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小林多喜二の母親(セキ)が亡くなった後、見付かったという彼女の書き物(詩)がある。
泣かせる詩である。
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あー またこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月は
いやな月 こいをいパいに
なきたい とこいいてもなかれ
ない あー でもラヂオて
しこす たすかる
あー なみたかてる
めかねかくもる


(あー、またこの二月の月がきた。
本当にこの二月という月は
いやな月。声をいっぱいに
泣きたい。どこにいっても泣かれ
ない。あー、でもラジオで
少し助かる。あー、涙が出る。
メガネがくもる。)
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先日、たまたま納戸の整理を「命じられ」て、ごそごそやり始めたところ、昔みた映画のパンフレット類が出てきて、その中に「小林多喜二」(1974年2月)があった。
21日夜の伊藤ふじ子さんの話なども掲載されていて、思わず読み返した。
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今気付いたが、この映画には、原泉子(中野重治さんの妻)は登場するが、中条(宮本)百合子と共に21日夜に多喜二宅に駆け付けた佐多稲子は登場していない。

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小林多喜二―21世紀にどう読むか (岩波新書)

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