2025年6月2日月曜日

ヤッパリ図星のチキンだった! ⇒ 映像:「そんなことは二度と言うな」ウォール街で広がる造語「TACO」にトランプ氏が不快感(ロイター) / 「トランプはいつもチキって退く理論」に本人激怒(AFPBB) / 昨日、トランプ関税が米国際貿易裁判所により差し止めになった直後、X では #TACO がトレンド入り。 TACO は Trump Always Chickens Out の略。 chicken は「臆病者」、chickens out は「ビビって引き下がる」。 「トランプはいつも (土壇場で) ビビって引き下がる」。 / この言葉は即座に金融業界やメディアに広まり、トランプの「強硬発言→市場動揺→土壇場での撤回」というパターンを指す合言葉として定着。 例えば TACO trade は、トランプが関税を発表した直後に株を購入、次いでトランプが撤退して株価が回復した折に売却することで儲けを狙う投資手法。   

 




 

「異常事態」のコメ価格高騰、伏線は4年前に 減反・流通多様化も影(朝日); 予兆はその3年前からあった。農林水産省の統計で、2021年産のコメの生産量が需要を下回り、23年産で一気に広がる。661万トンの生産量に対し、需要量は705万トンに達した。

 

「目覚めた保守層」は、なぜ外国人に牙をむくのか 新興政党の登場で顕在化する排外主義 | 2025/6/1 - 47NEWS ; 外国人が標的になってきたが、最近では高齢者と若者、高所得者と低所得者の対立があおられている。豊かな生活のために何者かを敵にする風潮には危機感を覚える。

パスポート保有率17%、日本人の海外旅行離れ深刻 国際線維持へ特典・助成で需要喚起(産経)

大杉栄とその時代年表(513) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(2) 「振古未曾有なる征露の役に、自分が従軍したのは、実に此上も無い好運である。砲烟弾雨、それが自分の稚い思想に大なる影響を及ぼしたのは無論のことで、自分は人間最大の悲劇、人間最大の事業を見たとすら思ったのである」(田山花袋『第二軍従征日記』緒言(明治38年))

 

田山花袋(1927年11月撮影)

大杉栄とその時代年表(512) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(1) ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。 南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。大本営は、一報時点の死傷者3千に対して、「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。 より続く

1904(明治37)年

5月26日 

南山攻略作戦(2)


田山花袋は戦闘観戦中に、鴎外と言葉を交わしている。


何等の壮観、敵は敗走に際し、その大房身(だいぼうしん)の火薬庫を爆発せしめたので(中略)

「実に、君、好い処を見たね?」

と声を懸けられたので、振返ると、それは森軍医部長であった。

「実に壮観でした!」

「もう、かういふ面白い光景は見られんよ」

「何うも、実に!」

自分は只恍惚として居た。

(『第二軍従征日記』)

博文館と田山花袋

博文館は、開戦後直ちに、それまで町村公務員を対象に発行していた月刊雑誌「自治機関 公民之友」を、「日露戦争実記」と改題、戦争報道専門雑誌とした。第1号発行は明治37年2月13日(宣戦布告から3日目)。月3回発行の旬刊誌で、グラフ雑誌「日露戦争写真画報」も発行する。

「日露戦争実記」創刊号は、巻頭に「宣戦の詔勅」とその解説が掲げられている。口絵写真では明治天皇とロシアのニコライ皇帝の肖像が同等に掲げられている。記事は「仁川の海戦」「旅順の海戦」などの戦記報道、「開戦前の外交始末」「国交の断絶通知」「露国の戦線」「露領帝国民最後の引揚」といった時事解説が並ぶ。更に、鳥谷部春汀(とやべしゆんてい)・国府犀東(こくぶさいとう)「日露危機十年史(両国開戦の由来)」、乾坤生「露帝ニコラス第二世」、田山花袋「アレキシース大将」、上田厳南「露西亜の陸軍」など評論、随筆が続く。

博文館は、日本有数の大出版社であるが、その基礎は学者や作家が新聞に掲載した学術論文、評論を勝手に集成(著作権成立以前の話である)した『日本大家論集』(明治20年)の刊行によって築かれた。さらに日清戦争の際に、「日清戦争実記」を発行して飛躍的に業績を伸ばし、総合誌「太陽」の成功で雑誌出版社の最大手としての地位は確固たるものになっていた。博文館は、明治36年暮れには、戦争雑誌の準備に取りかかり、すでに原稿を集め出していた。

田山花袋は、明治32年から博文館編集部に勤めていた。花袋はこの頃はすでに小説『重石衛門の最後』(明治35年)、評論「露骨なる描写」(「太陽」明治37年2月号)によって、日本の自然主義文学のニューリーダーと目されるようになっていた。だが彼は、元々は硯友社系のジャーナリズムで活躍し、「太陽」などでも紀行文によって名を挙げて、博文館に入社していた。花袋が従軍記者として大陸に派遣されたのは、自然主義作家として評価されたというより、写実的な紀行文章の腕を見込まれたためだと見られる。


花袋の従軍記は「日露戦争実記」「日露戦争写真画報」に載せられ、明治38年に『第二軍従征日記』としてまとめられた。その緒言で花袋は、「振古未曾有なる征露の役に、自分が従軍したのは、実に此上も無い好運である。砲烟弾雨、それが自分の稚い思想に大なる影響を及ぼしたのは無論のことで、自分は人間最大の悲劇、人間最大の事業を見たとすら思ったのである」と述べている。花袋は、戦争を讃美しているわけではない。「皇威の到る処、草木皆靡(なび)くといふ盛なる光景を呈したのであるものを…・。自分は一層の愉快を感ぜずには居られない」とも書いてはいるが、それでも戦争を讃美しているわけではなく、「戦争は人間最大の悲劇」とも書いている。では、何が好運であるかというと、まさに「戦争を見る」ということが、作家にとっての好運なのである。客観描写に徹するのなら、国威発揚にせよ反戦にせよ、事実そのものを冷徹に見詰めるための妨げになる「思想」を、押さえなければならない。「露骨なる描写」とは客観描写という思想以外の思想を、一切排除して見たものを書くということである。写実を心掛け、一歩踏み込んで自然主義の客観描写を主張する作家にとって、「人間最大の悲劇」を見られるのは、たしかに悪魔的な魅力さえ感じられただろう。


田山花袋:この年、数え年34歳。博文館に勤め、牛込区若松町137番地に家を借りて住んでいた。明治32年、詩集「抒情詩」執筆者の1人だった玉茗(ぎょくめい)太田玄綱の妹利佐子と結婚、礼子、先蔵という2人の子供があり、この年2月、次男瑞穂が生れた。


この年(明治37年)1月5日、花袋は小諸の島崎藤村を訪ねた。1月23日付け藤村の花袋宛手外には、「拝借のメレヂコウスキイの書、昨日小包にて御返送申上候、御落掌被致度候。例の『罪と罰』を拝見せし後なれば一層の興味をもちてくりかへし候。これまで拝借せし評論のうち、シモンス、トルストイ、ノルドウ各其々の特色はありながら、小生にとりてはこの一書尤も有益に思はれ候。(略)又トルストイの小説を『エピック』とし、ドストイェフスキイの小説を『ツラゼデイ』として描写対話の方法にまで論じ及ぼしたるも有益なる批評と存候。沙翁の悲劇、ギヨオテの『ファウスト』に比較してドストイェフスキイが創始せるは Passionate thought  の近代悲劇なりと言へるは、味あることゝ思はれ候。(略)実に此書のうちにふくまれたる数々の思想と、智識とにつきて互に相語らはゞ、このごろの長き冬の夜も長きことを覚えざるべしと思はれ候」

この手紙の言葉にあるような熱意で、藤村と花袋とは、新しい海外文学に傾倒し、尾崎紅葉歿後の文壇に新文学を打ち建てるのは我々であるとの確信を抱いていた。

2月、博文館の雑誌「太陽」に「露骨なる描写」という短い評論を発表、新しい小説の手法への確信を述べた。

この頃、花袋の生活の中に、岡田美知代という女弟子が入り込んでいた。彼女は、神戸女学院の3年生だった前年(明治36)夏頃、花袋に手紙を出して、その後の何度かの手紙の遣り取りのあと、父を説得して花袋の弟子になることを承知させた。

そして、この2月、牛込北山伏町の花袋の借家(階下が8畳・6畳、2階が6畳・3畳)で、妻利佐子が三度日のお産をし、妻の姉が手伝いに来ていた。そのお七夜の日に、岡田美知代が父に伴われて花袋の家を訪ねて来た。

岡田家は、広島県甲奴郡上下町の名家で、父の胖十郎は備後銀行、郡米券倉庫会社、林産会社等の重役だが、元来の家業は、岡田合資会社という金穀貸附業で、町の中央通りにある豪壮な邸宅に住んでいた。長男実麿は、同志社と慶応義塾を卒業し、明治33年アメリカのオハイオ州オペリン大学に留学し、明治35年から神戸高等商業学校教授になっていた。長女である美知代は、兄のいる神戸でミッションスクールの神戸女学院に入り、寄宿舎に暮していた。彼女はその自由な校風の中で文学書を耽読した。目の美しい、表情の豊かな色白の娘であった。

花袋は美知代を家の2階に置いたが、彼が美知代に惹かれるに従って妻の気持の乱れて行くのが分ったので、1ヶ月ほど後、麹町区土手3番町37番地の妻の姉のところに美知代を移り住まわせた。英知代は英語がかなり出来たので、津田梅子の経営している麹町区1番町の女子共学塾に通った。

津田梅子は数え年41歳。8歳の明治4年、岩倉具視一行の渡米に伴われ、上田貞子、山川捨松、吉益亮子、永井繁子と共に最初の女子留学生として渡米。ワシントンのアメリカ人の家庭に引きとられ、アーチャー・インスティュート卒業、明治15年帰国、明治18年から華族女学校の教師になった。明治22年、再び渡米、プリンマー・カレッジで3年間生物学を研究し、また教育学を身につけた。帰国後は、女子高等師範学校の教授を兼ねた。明治33年7月、自分の満足できるような、もっと自由な学校を創立しようとして、麹町1番町に家を借り、女子英学塾を開いた。大山巌の妻となっていた(山川)捨松はその企てを援助した。女子教育の風潮の高まっていた時代で、10月には佐藤静子が女子美術学校を、12月には吉岡弥生が東京女医学校を、翌年4月には成瀬仁蔵が日本女子大学校を創設した。女子英学塾は初めは入学者10名だけであったが、岡田美知代の入学した明治37年3月、専門学校の認可を得、卒業生は中等学校教員資格を与えられることとなった。

この頃、花袋の身の上に、従軍という事件が突発。

花袋の博文館での仕事は、明治32年に入社した当時は、江見水蔭の助手として週刊新聞「太平洋」編輯することで、その次に巌谷小波の洋行の留守の間「少年世界」の編輯に当っていた。

明治36年初めから、博文館は地理学者山崎直方と佐藤伝蔵の編著で「大日本地誌」という全10巻の大著を出版することとなったが、旅行好きの花袋が、この編輯を命ぜられた。だが日露戦争が始まるとともに、出版界は、戦争小説や戦況の画報・写真集などが儲けの多い仕事になった。

この年(明治37年)3月、博文館へ押川方在(まさつね、28歳)が入社し、月刊誌「日露戦争写真画報」を創刊し、編輯に当ることになった。押川方在は明治キリスト教界の最も有力な先覚者で、東北学院長として岩野泡鳴を教え、島崎藤村を教員として使ったことのある押川方義(まさよし)の子である。方存は札幌農学校実習科に学び、その後、水産講習所を経て、早稲田大学法科に学んだ才気換発の青年であった。彼は巌谷小波に師事し、その縁で博文館に入った。小波は彼に春波という号を与えたが、彼は大きな波を意味する浪の方がよいとして春浪と自ら号した。彼は博文館に入ると、この画報を編輯するかたわら冒険小説を書きはじめた。

この押川春浪編輯の「日露戦争写真画報」の材料を得るために、文章を書く記者と写真家とを戦地へ派遣することとなったとき、旅行好きな地誌の編輯者と見られていた花袋が記者として選ばれた。


つづく

国民・玉木代表 選択的夫婦別姓めぐり立憲との協議を否定(TBS); 自民党に恩を売ってあわよくば政局のキイマンになろうという卑しい野心 / 玉木、今年に入ってからでも何回目だ、反省、謝罪、釈明。 ⇒ 国民民主、勢いに陰り 「餌」発言、火消しに躍起(時事) / ツートップが正反対の発信、党内統治に「異変」 公認辞退者も(朝日) / W不倫候補、代表も不倫、幹事長も「女性秘書問題」…テレビが報じない国民民主党の素顔(文春オンライン 有料記事) / 国民民主、支持率下落に危機感…山尾氏ら擁立にSNS「変な流れになってきた」(読売);「過去の言動に批判があった議員経験者の擁立を巡り、躍進の原動力となってきたSNSで反発が広がっているほか、地方選での公認候補の落選や議員の不祥事も重なっているためで、党内からは不安の声も出ている。」 / 国民民主党の快進撃止まる 埼玉・和光市議補選で公認候補が落選 これまではトップ当選続く(日刊スポーツ) / 今週末の各社世論調査で4→5月は国民民主党支持率が揃って下落。 朝日12→8  読売13→11  共同18.4→13.2 / 国民民主党が公約した「選択的夫婦別姓導入」 選挙が済んだら急にしぼんで「どっちつかず」の党内事情(東京) / 選択的夫婦別姓の旗をジワジワ降ろす国民民主党 榛葉賀津也幹事長が旧姓使用の法制化に「なかなか悪くない」(東京) 



 

日本維新代表就任半年 吉村氏、参院選威信かけ 党勢低迷 「6議席以上」に不満噴出(毎日) / 与党と政策協議も…支持伸びず、離党相次ぐ 維新・吉村代表就任半年(朝日) / 維新・吉村代表就任半年、都議選・参院選控え正念場…高校無償化など成果あるが党支持率は低迷(読売) / 揺らぐ維新、執行部に不満 参院選目標、内閣不信任「独断」(時事)



 

2025年6月1日日曜日

米政府の報告書、生成AIで作成? 存在しない文献を引用(日経 有料記事);「ロバート・ケネディ・ジュニア米厚生長官が主導する委員会が22日発表した報告書には存在しない論文が引用されていたほか、生成AIの利用時につく痕跡があった。」   

 

NASA長官にアイザックマン氏指名の人事を取り下げ トランプ米大統領が表明(日経);「マスク氏と交流のあるアイザックマン氏がNASA長官に就くことで、スペースXへ便宜が図られるのではないかとの懸念が広がっていた」

 


〈全文〉 

トランプ米大統領は5月31日、NASA長官に指名していたジャレド・アイザックマン氏の指名を取り下げると発表した。アイザックマン氏は、イーロン・マスク氏のSpaceXと密接な関係を持ち、2021年に同社の宇宙船で民間宇宙飛行を行った実業家。トランプ氏はTruth Socialで「これまでの関係を徹底的に検討した結果」と述べ、新たな候補者を近く発表するとした。理由は明示されなかったが、アイザックマン氏の民主党への過去の寄付やマスク氏との関係が影響したとみられる。マスク氏は最近、トランプ政権の政府効率化部門(DOGE)を離れ、SpaceXに注力する意向を示していた。この動きは、NASAの予算削減案(2026年度で24%減)やマスク氏の火星探査優先の方針とも関連し、波紋を呼んでいる。




大杉栄とその時代年表(512) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(1) ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。 南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。大本営は、一報時点の死傷者3千に対して、「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。   

 

森鴎外(明治40年 陸軍病院にて)

大杉栄とその時代年表(511) 1904(明治37)年5月16日~26日 「日露の交戦は日本帝国の安全と東洋永遠の平和とを図り、世界の文明、正義、人道のために起れるものにして毫(ごう)も宗教の別、人種の異同・に関する所なし。……ここに相会し各自公正の信念を訴え、相ともに奮ってこの交戦の真相を宇内に表明し、以て速かに光栄ある平和の克復を見んことを望む。」(大日本宗教家大会) より続く

1904(明治37)年

5月26日

南山攻略作戦

午前5時20分、野砲兵第1旅団(内山少将)、南山陣地を砲撃。

午前6時、第4師団第19・7旅団、金州城西側を前進。

午前6時15分、金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を砲撃。

午前9時、第1師団が金州駅付近に進出するが、猛射により動けず。第3・4師団の第1線も動けず停止状況が続く。

午後5時、第2軍奥大将が総攻撃下命。但し、第4師団のみがこの命令に即応できる余力を持つのみ。

午後5時15分、第4師団小川中将が第7、19旅団に攻撃下命。金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を再度砲撃。「鳥海」が被弾し艦長林三子雄中佐、戦死。

午後6時30分、第4師団全面のロシア兵が退却始める。各隊はすかさず突撃。

午後7時20分、第9・10砲台占領。南関嶺を守備するロシア軍金州地区司令官フォーク少将、退却。

午後8時、南山陥落。日本軍は一挙に大連湾一帯を占領。

ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。

南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。今後の人員補充、弾薬補給など、日本軍の戦力の維持に暗影を投じた一戦でもあった。

南山は金州城の南門から南へ約3km、標高115mのゆるやかな丘で、大連湾と金州湾にはさまれた地峡の一番せまい部分(丘の頂上を北西・南東方向に横切る直線で陸地の幅4kmたらず)に位置し、北方から大連・旅順方面に前進してくる日本軍を阻止するのに適した地形であった。

ロシア軍の南山陣地は、1900年の義和団戦争の際ロシア軍守備隊が建設し、その後放置して荒廃していたものを、日露開戦直前にコンドラチェンコ少将が中心となって修築強化の工事をはじめて完成したばかり。

26日早朝、砲撃に続いて、右から第4師団、第1師団、第3師団の順に展開し、南山攻撃を開始したが、ロシア軍の猛烈な火力に前進を阻止されて攻撃が進捗せず。ロシア軍機関銃の威力は絶大。南山陣地は旅順要塞のような永久築城でなく、野戦築城であったが、堅固な陣地に拠る防御軍が火砲と機関銃を組み合わせた火力の威力を発揮すれば、少数兵力で十分に強敵な抵抗力を発揮できることを日本軍に教えた。

第2軍は26日に死傷者3千、翌日に4千500と大本営に打電したが、大本営では「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。

奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」

5月26日の「午前五時丗分」(5時30分)に開始され「午後七時過き」にロシア軍陣地を占領した南山の戦闘は、


 「我軍死傷将校以下約三千五百名」

 「此日劇戦十四時間に亘り頗る苦戦せるにも係らす戦機一転勝を制するを得たる」

 「敵兵に一大打撃を与へ旅順口に在る敵の抵抗力に影響を及ぼし日本軍の武勇如何を彼に示せしは将来の作戦上稗益鮮少ならざるべし只多大の死傷者を生せしめたるは頗る遺憾に堪えざる所なり」


であったとして、決して一方的な戦況ではなかった事が窺える。

南山の戦いについて、イギリスの5月30日付タイムズ(タイムス)紙は、戦況全般を紹介した後、


 「我等は日本の海軍が此場合に於ても亦其鴨緑江および其他の場合に於けるが如く卓越なる共同の功を挙げ互に惜む所なく有力に相助勢したるを特筆し以て之を賞賛する」

 「陸海両軍同時に斯くの如き高度に進歩したるものは我等之を陸海戦史に求むるに更に其例を見る能はず」


と述べて、日露戦争で現れた戦術上の革新に注目している。

第2軍軍医部長森鴎外

鷗外が統括する野戦病院の収容能力は400であるのに対し、午後3時には既に2,000を越える激戦

鷗外の詩

唇の血   森鴎外

     明治三十七年五月二十七日、於南山

土嚢(つちぶくろ) 十重(とえ)に二十重(はたえ)に つみかさね

屋上(やのうえ)を おほふ土さへ 厚ければ

わが送る 榴霰弾(りゆうさんだん)の 甲斐もなく

敵は猶 散兵壕を 棄てざりき


剰(あまつさ)へ 嚢の隙の 射眼より

打出す 小銃(こづつ)にまじる 機関砲

一卒進めば一卒僵(たお)れ 隊伍進めば隊伍僵る

隊長も 流石(さすが)ためらふ 折しもあれ

一騎あり 肖金山上より 駆歩し来る

命令は 突撃とこそ 聞えけれ

師団旅団に伝へ 旅団聯隊に伝ふ

隊長は 士気今いかにと うかがひぬ


時はこれ 五月二十五日 午後の天

常ならば 耳熱すべき 徒歩兵の

顔色は 蒼然として 目かがやき

咬みしむる 下唇に 血にじめり

戦略何の用ぞ 戦術はた何の用ぞ

勝敗の 機はただ存ず 此刹那に

健気なり 屍(かばね)こえゆく つはものよ

御旗をば 南山の上に 立てにけり


誰かいふ 万骨枯れて 功成ると

将帥の 目にも涙は あるものを

侯伯は よしや富貴に 老いんとも

南山の 唇の血を 忘れめや

*    *    *

濁漉(どくろく)の みづは濁れり 濁れれど

洗ひし太刀は 霜と冴え冴ゆ

瞑目す 畦(あぜ)の馬棟(ばりん)の 花のもと

南山の戦いに関する鴎外のもうひとつの詩。

鴎外は南山の戦いの日にボタン(「扣鈕」)を失ったことを、

「ますらをの 玉と砕けし ももちたり それも惜しけど こも惜し抑扣鈕 身に添ふ扣鈕」

と詠っている。

現実に血塗れの将兵を目の当たりにし、自身も砲弾が届く地点に身を置きながら、人命とボタンとを恰も等価であるかのように詠う鴎外の態度には、底知れない虚無的なものが漂っている。


つづく