1904(明治37)年
5月26日
南山攻略作戦
午前5時20分、野砲兵第1旅団(内山少将)、南山陣地を砲撃。
午前6時、第4師団第19・7旅団、金州城西側を前進。
午前6時15分、金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を砲撃。
午前9時、第1師団が金州駅付近に進出するが、猛射により動けず。第3・4師団の第1線も動けず停止状況が続く。
午後5時、第2軍奥大将が総攻撃下命。但し、第4師団のみがこの命令に即応できる余力を持つのみ。
午後5時15分、第4師団小川中将が第7、19旅団に攻撃下命。金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を再度砲撃。「鳥海」が被弾し艦長林三子雄中佐、戦死。
午後6時30分、第4師団全面のロシア兵が退却始める。各隊はすかさず突撃。
午後7時20分、第9・10砲台占領。南関嶺を守備するロシア軍金州地区司令官フォーク少将、退却。
午後8時、南山陥落。日本軍は一挙に大連湾一帯を占領。
ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。
南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。今後の人員補充、弾薬補給など、日本軍の戦力の維持に暗影を投じた一戦でもあった。
南山は金州城の南門から南へ約3km、標高115mのゆるやかな丘で、大連湾と金州湾にはさまれた地峡の一番せまい部分(丘の頂上を北西・南東方向に横切る直線で陸地の幅4kmたらず)に位置し、北方から大連・旅順方面に前進してくる日本軍を阻止するのに適した地形であった。
ロシア軍の南山陣地は、1900年の義和団戦争の際ロシア軍守備隊が建設し、その後放置して荒廃していたものを、日露開戦直前にコンドラチェンコ少将が中心となって修築強化の工事をはじめて完成したばかり。
26日早朝、砲撃に続いて、右から第4師団、第1師団、第3師団の順に展開し、南山攻撃を開始したが、ロシア軍の猛烈な火力に前進を阻止されて攻撃が進捗せず。ロシア軍機関銃の威力は絶大。南山陣地は旅順要塞のような永久築城でなく、野戦築城であったが、堅固な陣地に拠る防御軍が火砲と機関銃を組み合わせた火力の威力を発揮すれば、少数兵力で十分に強敵な抵抗力を発揮できることを日本軍に教えた。
第2軍は26日に死傷者3千、翌日に4千500と大本営に打電したが、大本営では「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。
奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」
5月26日の「午前五時丗分」(5時30分)に開始され「午後七時過き」にロシア軍陣地を占領した南山の戦闘は、
「我軍死傷将校以下約三千五百名」
「此日劇戦十四時間に亘り頗る苦戦せるにも係らす戦機一転勝を制するを得たる」
「敵兵に一大打撃を与へ旅順口に在る敵の抵抗力に影響を及ぼし日本軍の武勇如何を彼に示せしは将来の作戦上稗益鮮少ならざるべし只多大の死傷者を生せしめたるは頗る遺憾に堪えざる所なり」
であったとして、決して一方的な戦況ではなかった事が窺える。
南山の戦いについて、イギリスの5月30日付タイムズ(タイムス)紙は、戦況全般を紹介した後、
「我等は日本の海軍が此場合に於ても亦其鴨緑江および其他の場合に於けるが如く卓越なる共同の功を挙げ互に惜む所なく有力に相助勢したるを特筆し以て之を賞賛する」
「陸海両軍同時に斯くの如き高度に進歩したるものは我等之を陸海戦史に求むるに更に其例を見る能はず」
と述べて、日露戦争で現れた戦術上の革新に注目している。
第2軍軍医部長森鴎外
鷗外が統括する野戦病院の収容能力は400であるのに対し、午後3時には既に2,000を越える激戦
鷗外の詩
唇の血 森鴎外
明治三十七年五月二十七日、於南山
土嚢(つちぶくろ) 十重(とえ)に二十重(はたえ)に つみかさね
屋上(やのうえ)を おほふ土さへ 厚ければ
わが送る 榴霰弾(りゆうさんだん)の 甲斐もなく
敵は猶 散兵壕を 棄てざりき
剰(あまつさ)へ 嚢の隙の 射眼より
打出す 小銃(こづつ)にまじる 機関砲
一卒進めば一卒僵(たお)れ 隊伍進めば隊伍僵る
隊長も 流石(さすが)ためらふ 折しもあれ
一騎あり 肖金山上より 駆歩し来る
命令は 突撃とこそ 聞えけれ
師団旅団に伝へ 旅団聯隊に伝ふ
隊長は 士気今いかにと うかがひぬ
時はこれ 五月二十五日 午後の天
常ならば 耳熱すべき 徒歩兵の
顔色は 蒼然として 目かがやき
咬みしむる 下唇に 血にじめり
戦略何の用ぞ 戦術はた何の用ぞ
勝敗の 機はただ存ず 此刹那に
健気なり 屍(かばね)こえゆく つはものよ
御旗をば 南山の上に 立てにけり
誰かいふ 万骨枯れて 功成ると
将帥の 目にも涙は あるものを
侯伯は よしや富貴に 老いんとも
南山の 唇の血を 忘れめや
* * *
濁漉(どくろく)の みづは濁れり 濁れれど
洗ひし太刀は 霜と冴え冴ゆ
瞑目す 畦(あぜ)の馬棟(ばりん)の 花のもと
南山の戦いに関する鴎外のもうひとつの詩。
鴎外は南山の戦いの日にボタン(「扣鈕」)を失ったことを、
「ますらをの 玉と砕けし ももちたり それも惜しけど こも惜し抑扣鈕 身に添ふ扣鈕」
と詠っている。
現実に血塗れの将兵を目の当たりにし、自身も砲弾が届く地点に身を置きながら、人命とボタンとを恰も等価であるかのように詠う鴎外の態度には、底知れない虚無的なものが漂っている。
つづく

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