1904(明治37)年
5月26日
南山攻略作戦(2)
田山花袋は戦闘観戦中に、鴎外と言葉を交わしている。
何等の壮観、敵は敗走に際し、その大房身(だいぼうしん)の火薬庫を爆発せしめたので(中略)
「実に、君、好い処を見たね?」
と声を懸けられたので、振返ると、それは森軍医部長であった。
「実に壮観でした!」
「もう、かういふ面白い光景は見られんよ」
「何うも、実に!」
自分は只恍惚として居た。
(『第二軍従征日記』)
博文館と田山花袋
博文館は、開戦後直ちに、それまで町村公務員を対象に発行していた月刊雑誌「自治機関 公民之友」を、「日露戦争実記」と改題、戦争報道専門雑誌とした。第1号発行は明治37年2月13日(宣戦布告から3日目)。月3回発行の旬刊誌で、グラフ雑誌「日露戦争写真画報」も発行する。
「日露戦争実記」創刊号は、巻頭に「宣戦の詔勅」とその解説が掲げられている。口絵写真では明治天皇とロシアのニコライ皇帝の肖像が同等に掲げられている。記事は「仁川の海戦」「旅順の海戦」などの戦記報道、「開戦前の外交始末」「国交の断絶通知」「露国の戦線」「露領帝国民最後の引揚」といった時事解説が並ぶ。更に、鳥谷部春汀(とやべしゆんてい)・国府犀東(こくぶさいとう)「日露危機十年史(両国開戦の由来)」、乾坤生「露帝ニコラス第二世」、田山花袋「アレキシース大将」、上田厳南「露西亜の陸軍」など評論、随筆が続く。
博文館は、日本有数の大出版社であるが、その基礎は学者や作家が新聞に掲載した学術論文、評論を勝手に集成(著作権成立以前の話である)した『日本大家論集』(明治20年)の刊行によって築かれた。さらに日清戦争の際に、「日清戦争実記」を発行して飛躍的に業績を伸ばし、総合誌「太陽」の成功で雑誌出版社の最大手としての地位は確固たるものになっていた。博文館は、明治36年暮れには、戦争雑誌の準備に取りかかり、すでに原稿を集め出していた。
田山花袋は、明治32年から博文館編集部に勤めていた。花袋はこの頃はすでに小説『重石衛門の最後』(明治35年)、評論「露骨なる描写」(「太陽」明治37年2月号)によって、日本の自然主義文学のニューリーダーと目されるようになっていた。だが彼は、元々は硯友社系のジャーナリズムで活躍し、「太陽」などでも紀行文によって名を挙げて、博文館に入社していた。花袋が従軍記者として大陸に派遣されたのは、自然主義作家として評価されたというより、写実的な紀行文章の腕を見込まれたためだと見られる。
花袋の従軍記は「日露戦争実記」「日露戦争写真画報」に載せられ、明治38年に『第二軍従征日記』としてまとめられた。その緒言で花袋は、「振古未曾有なる征露の役に、自分が従軍したのは、実に此上も無い好運である。砲烟弾雨、それが自分の稚い思想に大なる影響を及ぼしたのは無論のことで、自分は人間最大の悲劇、人間最大の事業を見たとすら思ったのである」と述べている。花袋は、戦争を讃美しているわけではない。「皇威の到る処、草木皆靡(なび)くといふ盛なる光景を呈したのであるものを…・。自分は一層の愉快を感ぜずには居られない」とも書いてはいるが、それでも戦争を讃美しているわけではなく、「戦争は人間最大の悲劇」とも書いている。では、何が好運であるかというと、まさに「戦争を見る」ということが、作家にとっての好運なのである。客観描写に徹するのなら、国威発揚にせよ反戦にせよ、事実そのものを冷徹に見詰めるための妨げになる「思想」を、押さえなければならない。「露骨なる描写」とは客観描写という思想以外の思想を、一切排除して見たものを書くということである。写実を心掛け、一歩踏み込んで自然主義の客観描写を主張する作家にとって、「人間最大の悲劇」を見られるのは、たしかに悪魔的な魅力さえ感じられただろう。
田山花袋:この年、数え年34歳。博文館に勤め、牛込区若松町137番地に家を借りて住んでいた。明治32年、詩集「抒情詩」執筆者の1人だった玉茗(ぎょくめい)太田玄綱の妹利佐子と結婚、礼子、先蔵という2人の子供があり、この年2月、次男瑞穂が生れた。
この年(明治37年)1月5日、花袋は小諸の島崎藤村を訪ねた。1月23日付け藤村の花袋宛手外には、「拝借のメレヂコウスキイの書、昨日小包にて御返送申上候、御落掌被致度候。例の『罪と罰』を拝見せし後なれば一層の興味をもちてくりかへし候。これまで拝借せし評論のうち、シモンス、トルストイ、ノルドウ各其々の特色はありながら、小生にとりてはこの一書尤も有益に思はれ候。(略)又トルストイの小説を『エピック』とし、ドストイェフスキイの小説を『ツラゼデイ』として描写対話の方法にまで論じ及ぼしたるも有益なる批評と存候。沙翁の悲劇、ギヨオテの『ファウスト』に比較してドストイェフスキイが創始せるは Passionate thought の近代悲劇なりと言へるは、味あることゝ思はれ候。(略)実に此書のうちにふくまれたる数々の思想と、智識とにつきて互に相語らはゞ、このごろの長き冬の夜も長きことを覚えざるべしと思はれ候」
この手紙の言葉にあるような熱意で、藤村と花袋とは、新しい海外文学に傾倒し、尾崎紅葉歿後の文壇に新文学を打ち建てるのは我々であるとの確信を抱いていた。
2月、博文館の雑誌「太陽」に「露骨なる描写」という短い評論を発表、新しい小説の手法への確信を述べた。
この頃、花袋の生活の中に、岡田美知代という女弟子が入り込んでいた。彼女は、神戸女学院の3年生だった前年(明治36)夏頃、花袋に手紙を出して、その後の何度かの手紙の遣り取りのあと、父を説得して花袋の弟子になることを承知させた。
そして、この2月、牛込北山伏町の花袋の借家(階下が8畳・6畳、2階が6畳・3畳)で、妻利佐子が三度日のお産をし、妻の姉が手伝いに来ていた。そのお七夜の日に、岡田美知代が父に伴われて花袋の家を訪ねて来た。
岡田家は、広島県甲奴郡上下町の名家で、父の胖十郎は備後銀行、郡米券倉庫会社、林産会社等の重役だが、元来の家業は、岡田合資会社という金穀貸附業で、町の中央通りにある豪壮な邸宅に住んでいた。長男実麿は、同志社と慶応義塾を卒業し、明治33年アメリカのオハイオ州オペリン大学に留学し、明治35年から神戸高等商業学校教授になっていた。長女である美知代は、兄のいる神戸でミッションスクールの神戸女学院に入り、寄宿舎に暮していた。彼女はその自由な校風の中で文学書を耽読した。目の美しい、表情の豊かな色白の娘であった。
花袋は美知代を家の2階に置いたが、彼が美知代に惹かれるに従って妻の気持の乱れて行くのが分ったので、1ヶ月ほど後、麹町区土手3番町37番地の妻の姉のところに美知代を移り住まわせた。英知代は英語がかなり出来たので、津田梅子の経営している麹町区1番町の女子共学塾に通った。
津田梅子は数え年41歳。8歳の明治4年、岩倉具視一行の渡米に伴われ、上田貞子、山川捨松、吉益亮子、永井繁子と共に最初の女子留学生として渡米。ワシントンのアメリカ人の家庭に引きとられ、アーチャー・インスティュート卒業、明治15年帰国、明治18年から華族女学校の教師になった。明治22年、再び渡米、プリンマー・カレッジで3年間生物学を研究し、また教育学を身につけた。帰国後は、女子高等師範学校の教授を兼ねた。明治33年7月、自分の満足できるような、もっと自由な学校を創立しようとして、麹町1番町に家を借り、女子英学塾を開いた。大山巌の妻となっていた(山川)捨松はその企てを援助した。女子教育の風潮の高まっていた時代で、10月には佐藤静子が女子美術学校を、12月には吉岡弥生が東京女医学校を、翌年4月には成瀬仁蔵が日本女子大学校を創設した。女子英学塾は初めは入学者10名だけであったが、岡田美知代の入学した明治37年3月、専門学校の認可を得、卒業生は中等学校教員資格を与えられることとなった。
この頃、花袋の身の上に、従軍という事件が突発。
花袋の博文館での仕事は、明治32年に入社した当時は、江見水蔭の助手として週刊新聞「太平洋」編輯することで、その次に巌谷小波の洋行の留守の間「少年世界」の編輯に当っていた。
明治36年初めから、博文館は地理学者山崎直方と佐藤伝蔵の編著で「大日本地誌」という全10巻の大著を出版することとなったが、旅行好きの花袋が、この編輯を命ぜられた。だが日露戦争が始まるとともに、出版界は、戦争小説や戦況の画報・写真集などが儲けの多い仕事になった。
この年(明治37年)3月、博文館へ押川方在(まさつね、28歳)が入社し、月刊誌「日露戦争写真画報」を創刊し、編輯に当ることになった。押川方在は明治キリスト教界の最も有力な先覚者で、東北学院長として岩野泡鳴を教え、島崎藤村を教員として使ったことのある押川方義(まさよし)の子である。方存は札幌農学校実習科に学び、その後、水産講習所を経て、早稲田大学法科に学んだ才気換発の青年であった。彼は巌谷小波に師事し、その縁で博文館に入った。小波は彼に春波という号を与えたが、彼は大きな波を意味する浪の方がよいとして春浪と自ら号した。彼は博文館に入ると、この画報を編輯するかたわら冒険小説を書きはじめた。
この押川春浪編輯の「日露戦争写真画報」の材料を得るために、文章を書く記者と写真家とを戦地へ派遣することとなったとき、旅行好きな地誌の編輯者と見られていた花袋が記者として選ばれた。
つづく

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