2024年11月25日月曜日

名古屋市長選挙の出口調査 国民民主党支持者の37.3%しか大塚さん(国民民主党の設立時の共同代表、国民民主党推薦)に投票してないのか!

 

反イスラエル・ボイコットが続く中、スターバックスがマレーシア全土で50店舗を閉鎖

 

世耕弘成氏、自らが理事長を務める近畿大学で公益通報されていた 教職員組合が「大学を自身の政治活動に利用、私物化している」と告発(NEWSポストセブン); 「かねて世耕氏は近大を自身の政治活動に利用することを繰り返してきた。 こうしたことは大学の私物化であり、法令違反も疑われる行為だとして通報しました」(近大教職員組合・藤巻和宏書記長)

 

大杉栄とその時代年表(325) 1901(明治34)年3月12日~14日 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。」(漱石「日記」)

 

荻原守衛

大杉栄とその時代年表(324) 1901(明治34)年3月5日~11日 「自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。、、、殊に楊枝をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。、、、熱い湯に酔ふて熟柿のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。」(「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月12日

貴族院に増税案の成立を命じる詔勅。

16日、一旦否決した増税案を可決。


3月12日

「不平十ヶ条

一、元老の死にさうで死なぬ不平

一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平

一、大きな頭の出ぬ不平

一、郵便の消印が読めぬ不平

一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平

一、板ガラスの日本で出来ぬ不平

一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平

一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平

一、野道の真直について居らぬ不平

一、人間に羽の生えて居らぬ不平

(三月十二日)」(子規「墨汁一滴」)

3月12日

ロンドンの漱石

漱石に宛てて子供の誕生を知らせる手紙が山川信次郎(1月28日付け)から届く。子供はは女子で1月16日に生れていた。


「三月十二日(火)、白シャツ・下着・股引を替える。 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Bond Street (ボンド街)から東南に向って、Piccadilly Circus (ピカデリー広場)を経て、St. John's Park (聖ジョン公園)に赴く。公園の芝生に咲いている黄色と藤色のチューリップが美しい。山川信次郎からの葉書(一月二十八日(月)付)で、鏡が一月十六日(水)に出産との知らせある。(戸籍上は一月二十六日出生)」(荒正人、前掲書)


3月12日付け漱石の『日記』。


西洋人ハ執濃(シツコ)イヿガスキダ。華麗ナヿガスキダ。芝居ヲ観テモ分ル。食物ヲ見テモ分ル。建築及飾粧ヲ見テモ分ル。夫婦間ノ接吻や抱キ合フノヲ見テモ分ル。是ガ皆文学ニ返照(ヘンセウ)シテ居ル。故ニ洒落超脱(シヤラクテウダツ)ノ趣ニ乏シイ。出頭天外シ観ヨト云フ様ナ様ニ乏シイ。又笑而不答(ワラツテコタヘズ)心自閑(ココロオノヅカラカン)ト云フ趣ニ乏シイ

*「出頭天外看」;

「天外に出頭して看よ」。雲を突き抜けて澄み切った空がひろがる天から自分を見なさい、という意味の禅語

*「笑而不答心自閑」;

李白の七言絶句『山中答俗人』の一節。

        問余何意棲碧山     笑而不答心自閑

        桃花流水杳然去     別有天地非人間

 (下し文)

 余に問ふ 何の意ありてか碧山に棲むと   笑って答へず 心自(おのづか)ら閑なり

桃花 流水 杳然(ようぜん)と去る,   別に 天地の 人間(じんかん)に非ざる有り

 (現代語訳) 

わたしに尋ねた人がいる「どんな気持ちで、緑深い山奥に住んでいるのか」と

わたしはただ笑って答えはしないが、心は自ずとのどかでしずかでのんびりしている

「桃花源」の花びらははるか彼方に流れ去っていく

そこにこそ別の世界があるのであり、俗世間とは異なる別天地なのだ


3月13

荻原守衛(21)、横浜港から香港丸で出航、美術修行のためニューヨークまでの片道切符だけを手にしてアメリカに向かう。アメリカ、ヨーロッパに滞在し、41年3月11日に神戸に帰着。

3月13

この日付、与謝野晶子の滝野(鉄幹の内妻)宛書簡。滝野は鉄幹との離別の意志を晶子に伝え、晶子はそれに返書

晶子の上京(出奔)の決意を容易にする、滝野の晶子と鉄幹との結婚の承諾、鉄幹と滝野との離別の意志を伝えられたであろう書簡に対する晶子の返書。


「うれしく候 ミ情うれしく候 君すゐし給へみたりこゝちの 者に候やさしの姉君は そはすゐし給ふべく かゝるかなしきことになりて きこえかはしまゐらすちきりとは おもはず候ひし 人並ならぬつたなき手もつ子 それひたすらはづかしとおもひながらいつかはのとかに かきかはしまゐらすこと ゆるし給ふ世あるべく たのミ候ひしおもひ候ひし おのれか奇矯を売らむとてのうた その為に 師なる君にまであらぬ まかツミかけまゐらせし この子 にくしとこらし 給ハぬがくるしく候 この後はたゞたゞひろき ミ文をさしたのミまゐらすべく候 ゆるさせ給ふべくや つミの子この子かなしく候 おなつかしく候やさしさのミ文 涙せきあへす候ひし けふまことそゞろがき ゆるし給へ 何も何もゆるし給へ 御返しまで 候ひし この夕 晶子 姉君の ミ前に」


3月13

柳家金語楼、誕生。

3月13

米第23代大統領ハリソン(67)、没。

3月13

ロンドンの漱石


「三月十三日(水)、午後四時頃から、 Mrs. Brett 過去のイギリス人の不品行について話す。日記」)」(荒正人、前掲書)


3月13日付「日記」

Knightの『沙翁集(シェイクスピア全集)』その他合して50円ばかりの書籍を買う。 書物屋の主人曰く、厭なお天気ですな、しかし書物ばかり読んでいる人には宜しゅう御座んしょう、と。 この日 Baker Streetにて中食す。 肉一皿、芋、菜、茶一椀と菓子二つなり。 一シリング十ペンスを払う。」(「日記」3月13日(水))


3月14

北京列国公使団、義和団事件の賠償範囲及び算定基礎を確定。


3月14

「 今日は病室の掃除だといふので昼飯後寐牀(ねどこ)を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸(ようや)く減じて居た局部の痛(いたみ)がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴(な)れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣(となり)の女の子が画いたといふ画(え)を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切(こぎれ)に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼(じょうろう)の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本(ふんぽん)は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥(たし)かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷(ちごまげ)で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀(さえず)つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠抔(など)は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直(ただち)に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総(ふさ)のついた釵(かんざし)を一本着(つ)けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子(ひがし)や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美(ごほうび)だといふて隣へ持たせてやつた。

(三月十四日)」(子規「墨汁一滴」)

3月14

3月14日~15日 ロンドンの漱石


「三月十四日(木)、汚ない街を通ると、盲人がオルガンを弾き、イタリア人がヴァイオリンを弾いて、その傍に四歳ばかりの女の子、其赤な着物に其赤な頭巾を被って音楽にのって踊っている。

三月十五日(金)、日本人は中国人といわれると嫌がる。中国人は日本人よりも遥かに名誉ある国民である。現在は不振である。日本人と呼ばれるよりも、中国人と呼ばれるほうが名誉だと思ったほうがよいと記す。(「日記」)」(荒正人、前掲書)


3月15日 この日付け漱石の『日記』。


日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」


つづく

長和5年(1016)2月 後一条天皇(7歳)即位式 母后(皇太后藤原彰子)が高御座に登る初例 藤原為時(紫式部の父)、三井寺で出家ん 道長の本邸である土御門邸全焼 

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 2012-12-14
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長和5年(1016)
2月7日
・敦成親王が即位(後一条天皇、7歳)。

後一条天皇即位式における摂関と母后の登壇
道長は他の公卿たちとは異なる存在であることを明らかにし、権力集中を実行してゆきながら、天皇に極めて近い地位を築いて行く。
この摂関の王権への接近を象徴的に示すのが、「即位式における摂関と母后の登壇」である。
後一条天皇即位時の皇太后藤原彰子は、母后が幼帝の即位式において高御座(たかみくら)に登る史料的初例である(『小右記』長和5年2月7日条)
その時摂政左大臣道長は、大極殿の「北庇東幔内(きたびさしのまんのうち)」に伺候(しこう)していたという。この「北庇東幔内」は本来皇后の座であり、この座の配置は母后との関係で成立したものと考えられる。

一方、関白の座が明確になるのは、後朱雀天皇即位時からで、時の関白頼通は「北庇東幔内」に座を占めたと推測される。
のちの院政期には、摂政は即位式において母后とともに大極殿の高御座に登り、関白は高御座の下に座を占めるようになる。

即位式では、他の公卿は朝庭から大極殿を見上げる位置に並んでいたことと比較すると、その立場の違いは歴然としている。
道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、母后である娘彰子と共に御簾の内にいる姿が頻出する。
つまり、道長は拝礼を受ける側に回ったことになる。
「天が晴れた。御即位式を行った。・・・未一剋に、(後一条)天皇は礼服を着された。未二剋に、大極殿の高御座にお就きになられた。他は、式次第と同じであった。大后(おおきさき/藤原彰子)もまた、高御座に登壇された。」(『御堂関白記』長和5年(1016)2月7日条)
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2月13日
・三条天皇、太上天皇の尊号を得て上皇となる。
翌年5月9日、42歳で没。3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が辞退。
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3月16日
・源経頼『左経記』には、道長が摂政となったため、一上の仕事を他の公卿へ譲ることになり、その後任者を決める定(さだめ、会議)が皇太后宮で摂政道長同座のもとで行われた。
右大臣顕光と内大臣公季が老齢なので、大納言以上なら誰でも務めてよいと定めている(長和5年3月16日条)。皇太后宮で公卿たちの定が行われているのは天皇の御前定(ごぜんのさだめ)に准じたものである。
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4月29日
「早朝、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「・・・一昨日、前越後守(藤原)為時が、三井寺に於いて出家しました」と。」(『小右記』長和5年(1016)5月1日条)
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6月10日
・摂政道長と室倫子に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる)の待遇、年官・年爵を与え、封戸を益(ま)し、道長に随身と帯刀資人(たちはきのとねり、刀を帯びた従者)与える勅書が下された。
『小右記』『左経記』によると、「母后令旨」によって命じられた。
『小右記』『左経記』によると、母后の前にいた左大将頼通が、摂政道長と北方倫子を三宮に准ぜよという「母后令旨」を蔵人頭資平を召して伝えた。資平は陣に出てその旨を上卿中納言源俊賢に命じた。
『小右記』によれば、三宮に准ずる勅書は大内記藤原義忠が作成して内々に草案を道長に見せ、その後、蔵人頭資平が奏上した。
奏聞の手順は、まず摂政道長へ見せ、次に奏聞したのだが、「只母后の御格子(みこうし)外に於いて案内(あない)を申すと云々」とある(奏聞と言っても、母后御所の御格子の外で申し上げただけであった)。
幼少の天皇へ奏聞したわけではなく、母后が天皇に代わって聞いている。
母后は摂政よりさらに天皇に近い立場で天皇の代理を務めている。

このような「母后」の立場は、天皇が行幸する時は天皇と同輿(どうよ、同じ輿に乗ること)し、即位の儀において天皇とともに高御座(たかみくら)に登るという行為に象徴されている。天皇と一心同体である。
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7月10日
・この日、摂政道長が皇太后彰子に啓上した後、後院司(三条上皇の院司)を定めた(『御堂関白記』)。
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7月20日
・この日、近江守藤原惟憲宅から出火し、火は土御門南、京極西、万里小路東、二条北に至る地域に及んで、あわせて「五百余家」(『御堂関白記』)が焼失した。

この日深夜、道長の本邸である土御門邸(上東門邸ともいいう)が全焼
公卿や、諸国の受領たちも、その報を聞いて次々と上京して道長を見舞った。
道長は直ちに土御門邸再建の手はずを定め、家司を総監督として、8月19日には普請を開始。
11月には寝殿をはじめ、対局など5、6の殿舎が立ち始める。

道長は、寝殿の造営には、新旧受領たちの中の腕の立つ者に、柱間一間ずつの造営を割り当てた。
実資はこれを前代未聞のこととして憤慨している。
世人一般の感覚としては、土御門邸は道長の私邸であるものの、前摂政太政大臣の本邸であり、何かの折には里内裏として用いらる邸であるし、随時三后や東宮の御所となるものなので、選ばれた受領たちは単なる私邸の造営とは思わなかった。
また、受領たちはこれを名誉とし、直接道長の覚えをめでたくする絶好の機会と考えて、ここぞとばかりサービスを惜しまなかった。
寛仁2年(1018)6月27日、盛大な新築移転の式が挙行される。
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8月
・尾張国の郡司・百姓が入京し、国守橘経国のことを愁訴する。道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じる。
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11月
・大嘗会が行われる。
・道長の娘寛子(明子腹)が女御代となり、『栄花物語』「たまのむらぎく」では、「これはなにはのことも改めさせたまへり」と、さらにいっそう華やかな御禊行列の様をくわしく記している。
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12月7日
「私(藤原道長)は辞表を後一条天皇に奏聞して、左大臣を停任(ちょうにん)された。この外は、「摂政は元のとおりとする」とのことであった。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、上表を扱う上卿(しょうけい)であった。」(『御堂関白記』長和5年(1016)12月7日条)
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寛仁3年(1019)1月 藤原実資『小右記』が描くこの年の正月の様子

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-20
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寛仁3年(1019)
この年
・仏師康尚、無量寿院の九体阿弥陀像の制作にいたる。
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1月1日
・『小右記』の筆者藤原実資(さねすけ)の正月
実資は道長より約10歳年長の公卿、道長に対しては辛口の記述が多い。
『小右記』には、官人として様々な行事や、中宮彰子を含む宮廷内の人間模様も細やかに記録されている。

この年正月元旦、実資はまず、明け方寅時(午前4時)、自宅で四方拝を行う。
四方拝は元旦に天皇が行っていた私的行事であったが、それが貴族へも広まった。天地四方、属星(ぞくしよう、生まれた年の干支によって決まる自分の星。北斗七星のうち三をあてる)、両親の墓所それぞれを拝する座を庭に設けて、拝礼を行う。拝する対象は年々増えていき、諸神や七星(しちしよう、北斗七星)などを加えている。

この年は前月12月に敦康親王が没したため、摂政頼通邸での宴会を伴う行事(「臨時客」)は中止されたが、実資は摂政頼通がたまたま近所に滞在していることから彼を訪問している。
しかし、頼通は大殿道長の所へ行った後だったので、そこを辞して参内し、内裏の清涼殿にある殿上の間に他の公卿たちと伺候した。
そこへ、摂政頼通が出てきて、後一条天皇へ御薬(ごやく、お屠蘇)を供ずることになった。

ついで、摂政頼通、左大臣顕光以下の公卿と殿上人は、小朝拝(こちようはい)を行なうために、清涼殿の東庭に行き、清涼殿にいる後一条天皇に対して新年の拝礼を行う。

その後、元日の節会が紫宸殿で行われた。
敦康親王が没したため、天皇は節会には出ていない。実資は左大臣顕光から節会の内弁(取り仕切る役)を務めるよう言われるが、疲れを理由に辞退した。

この日は雨が降っていたのに小朝拝に晴の儀式次第を用いるなど礼法にかなっていなかったので、「太(はなは)だ儀式を失す」、「謝座(しやざ)・謝酒(しやしゆ)の礼、既に作法無し」と実資は憤懣を日記に記している。これは、道長からも無能だと時々怒りをかう左大臣顕光が内弁を務めたためかもしれない。左大臣顕光も途中で内弁を大納言斉信(ただのぶ)に譲って退出してしまった。実資は翌日、参議である養子の資平に、内弁の作法を尋ねてチェックしている。
貴族にとっては、儀式をあるべき様に行うことが重要であり、そのために日記に記録して子孫に伝えていった。
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1月2日
・正月2日には、前太政大臣道長邸で「臨時客」という行事が行われ、実資も参加。左大臣顕光以下の公卿と殿上人が道長へ拝礼を行い、饗饌(きようせん、もてなしの膳)を受ける。

その後、道長に摂政頼通も従って皆で参内。
まず、太皇太后彰子のところへ行き、その後、摂政頼通と左大臣顕光以下殿上人以上は中宮威子、東宮敦良(あつなが)親王のもとへ行って拝礼を行った。

拝礼後、左大臣顕光以下は、中宮大饗(だいきよう)・束宮大饗に参列した。
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1月3日
・正月3日、後一条天皇の母后、太皇太后彰子に朝覲(ちようきん)を行う。
まず、前太政大臣道長や摂政頼通、公卿たちは内裏外にある皇太后妍子の御所に集合し、そこで饗座(きようのざ)につく。
その後、道長は諸卿を率いて参内。
日暮に、後一条天皇は母后彰子の御所(弘徽殿)に参上し、公卿たちが従う。天皇は御簾(みす)の中で母后に拝礼を行い、前太政大臣道長だけが御簾の中に何候した。
公卿・殿上人には饗が設けられ、儀式終了後、天皇は公卿たちをお供に御所に戻る。
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1月5日
・藤原実資は、皇太后彰子の枇杷殿時代にたびたび伺候していた。実資が枇杷殿に出入りしていたのは、養子資平の任官を皇太后彰子から道長へ頼んで貰うためという理由もあったが、それだけでもなかった。
後一条天皇(敦成親王)即位後、皇太后彰子から実資に対して、「枇杷殿に御坐(おわしま)すの時、屢(しばしば)参入の事、今に忘れ坐(おあわ)さざる由、仰事(おおせごと)有るなり。女房云はく、彼の時参入し、当時(現在)参らざるは、世人に似ず。耻(は)づかしく思(おぼ)し食(め)す所なり、と云々」(『小右記』寛仁3年正月5日条)とあったという。

後一条天皇即位後、皇太后彰子は実資に対して左近衛大将にならないかと打診したり、自分の年爵を分かち与えようとしたり、実資びいきの様子が窺える。

実資の方も、皇太后彰子を「賢后」と評している(『小右記』長和2年2月25日条)。実資が自分に有利な書き方をしているかもしれないが、皇太后彰子が父道長からは独立して独自の動きをしていることを示している。

皇太后彰子は敦成親王を三条天皇の皇太子に立てる時も、実子敦成親王ではなく、皇后定子が生み、敦成親王が生まれるまでの間、中宮彰子が手元で育てた敦康親王を皇太子にしたいという考えをもっていたとされており、父道長とは異なる独自の意見をもっていたことも注目される。

「夜に入って、(藤原)資業が、摂政(藤原頼通)の使として来た。「叙位の議を行おうとしたのに、両大臣(藤原顕光・藤原公季)が障(さわ)り申して、内裏(だいり)に参りませんでした。これを如何(いかが)いたしましょう」と。」
「私(藤原道長)が命じて云(い)ったことには、「叙位の召仰(めしおおせ)は、すでに行われている。叙位を停止(ちょうじ)すべきではない。大納言を召して、叙位の議を行うべきである」と。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月5日条)
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1月6日
「摂政(藤原頼通)がおっしゃって云(い)ったことには・・・「昨日、左大臣(藤原顕光)が参らなかったのは、蔵人頭(くろうどのとう)を遣わして召さなかったからでした」ということだ。不覚の事である。」
「摂政(藤原頼通)は大臣を兼ねている。すぐに召仰(めしおおせ)を行うべきである。そこで外記(げき)に、そのことを伝えた。左大臣(藤原顕光)は、召仰の時、蔵人頭が、これを伝え仰すのである。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月6日条)
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1月13日
・放火・強盗
この日夜、三条辺で50戸ばかりの民家が焼ける。
翌14日夜、四条の検非違使別当権中納言藤原頼宗の邸が焼失。
29日夜、群盗が参議藤原通任の邸を襲い、女房らの室内の物を奪った。
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1月22日
・この年正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定において、道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)については、他の受領ににはいろいろ意見が出ているのに、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められた。

しかし、惟憲は、長和3年(1014)正月12日に「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
つまり、惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘かった。

また、惟宗貴重(これむねのたかしげ)は、3年間で下総守を辞めたにもかかわらず、2年分の官物を納めたという理由で褒賞に預かり、位階を上昇させた(『小右記』)。
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寛仁2年(1018)12月 家司受領のありよう。 「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(藤原能通) 敦康親王(20歳)病没

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-13
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寛仁2年(1018)
12月
・この月、道長は両親の追善供養のため法華八講(法華経八巻を一座一巻ずつ講ずる法会)を営む。実資『小右記』には道長が法華八講の僧前(饗膳)を大納言以下に割り当てていることが見える。
僧前ひとつと言っても僧侶1人分の食事ではなく、「高坏(たかつき)十二本、折敷(おしき)・懸盤(かけばん)の饗二十前(ぜん)、大破子(おおわりこ)六荷、手作布(てつくりぬの)百段」(『小右記』治安2年7月14日条)という大規模なもの。
また、法華八講で特に荘厳な儀が行われる五巻日には上達部・殿上人は棒物を奉じており、実資も捧物(香炉)を作らせている。

道長の正室源倫子が法成寺西北院を供養した時も、実資は関白頼通から僧前の準備を求められ、道長の法成寺金堂供養にも講師天台座主用の僧前を奉じている。
倫子の六十賀においても、太后(太皇太后彰子)令旨により、実資の養子伯耆守資頼に対して綾掛(あやのうちかけ)、同じく養子宰相資平には尼用の夏装束が賦課されている。

これらの儀式・行事については経済的奉仕だけではなく、当然、儀式・行事への参列も求められ、経済的奉仕を要求されない場合でも参列を命じられている例も多い。
また、道長主催でなくとも当時后であった道長の娘たち(太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子)や、道長外孫である東宮敦良親王の儀式・行事に関して参列や経済的奉仕を要求される場合も多かった。

一方、公卿たちも道長の歓心を買うために、進んで奉仕を行った。
道長をたびたび批判している実資さえ、道長が法華八講の僧前を大納言以下の公卿に割り当てた時、左右大臣と大納言実資が除かれたことに対して、奉仕を請おうとして資平に道長の意向を伺わせている。
その結果、13日には道長から了承され、僧前を奉仕することになった。
道長の公卿に対する賦課があまり抵抗なく受け入れられていったのは、貴族間において儀式・行事主催者に対する相互扶助である「訪(とぶらい)」の慣行があったことが前提となっているのかもしれない。
*
12月3日
・家司受領のありよう。
『小右記』寛仁2年12月3日条に道長へ奉仕する家司受領のありようが見える。
備後守と備前守が水害や旱魃のため公事を納入できないと言っている。
備後守藤原能通(よしみち)は「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(大殿道長への恒例の進物以外は他へは何も納めることができない)、
備前守藤原景斉(かげなり)は 「米五百石を大殿に献じ、三百石を摂政に献ず。公事は術(すべ)無し」(米500石を大殿道長へ献上し、300石を摂政頼通へ献上すると、朝廷へは納めるすべがないい)とある。
公事より摂関への奉仕を優先する、この頃の権力のありかがよくわかる。

このように、受領は恒常的な国家財政を支えるだけではなく、摂関や公卿への奉仕を行えるだけの財物を蓄えることができた。
そのため、受領からの奉仕を求めて、摂関家ではもともと家司・家人である人物を受領に充てる家司受領が登場した。
特に、近江守には道長が活躍した寛弘年間から万寿年間まで、藤原惟憲のように殆ど彼の家司が任命されている。

(参考)
公卿の家の場合、家司・家人を受領にするだけではなく、子のうちの1人を受領にする例もある。
藤原実資の場合、養子資頼が治安元(1021)年から4年間伯耆守、長元元(1028)年に美作守となり、実資家に奉仕を行っている。
藤原行成の子実経も但馬守、父没後に近江守に任じられている。
公卿の子が受領に任じられ家のために経済的に奉仕する例である。
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12月17日
・敦康親王(20歳)、病没。
一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。
誕生と同日に道長の長女彰子が女御宣下を受ける。
誕生翌年の長保2年(1000年)4月18日、親王宣下を受けるが、同年末、2歳の時で母定子が没する。
少しして当時まだ子どものなかった中宮彰子に養育が託される。彰子は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。
道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険に過ぎなかった。
寛弘5年(1008年)9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれると、道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の即位を望むようになる。
寛弘8年(1011年)6月2日、一品に叙せられ三宮に准ぜられたが、その10日後、父一条天皇の意に反して、皇太子に立てられたのは4歳の異母弟敦成親王であった。

敦康親王は『大鏡』に「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記されている。
長和2年(1013年)12月10日、中務卿具平親王の次女を娶る。
寛仁2年(1018年)12月17日、にわかに発病し、出家の後、薨去。
残された一女嫄子女王は頼通・隆姫女王夫婦に引き取られ、のちに後朱雀天皇に入内した。
「太閤(藤原道長)から左中将(源)朝任を介して、命が有った。そこで堂前の座に着した。大殿(藤原道長)が云(い)ったことには、「式部卿敦康親王は、未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)、薨(こう)じた<年20>」と。」(『小右記』寛仁2年(1018)12月17日条)
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2024年11月24日日曜日

大杉栄とその時代年表(324) 1901(明治34)年3月5日~11日 「自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。、、、殊に楊枝をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。、、、熱い湯に酔ふて熟柿のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。」(「墨汁一滴」)  

 

Baker Street

大杉栄とその時代年表(323) 1901(明治34)年3月1日~4日 「今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。、、、左千夫来り秀真来り麓来る。、、、五時頃料理出づ。、、、余は遂に料理の半を残して得喰はず。」(「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月5日

橋本登美三郎、誕生。

3月5日

天皇、山県有朋・松方正義・西郷従道・井上馨4元老に、政府・貴族院間の調停を行うよう命令。

11日、4元老、貴族院各派代表と折衝。不成立に終わる。


3月5日

3月5日~7日 ロンドンの漱石


「三月五日(火)、 Dr. Craig の許に行く。謝礼を支払う。文章を褒められる。内容に関しては賛成せず、議論を試みる。 W. Rossetti の ""A Study of Prometheus Unbound"" (Shelly Society 刊)を借りる。帰途、書店で Shakespeare 集その他五十円ほど書籍を買う。 April Shower が始ったらしい。Baker Street (ベーカー街)で昼食。肉一皿・馬鈴薯(推定)・野菜・紅茶・菓子二個で、一シリング十ペンスを支払う。夜、入浴する。

三月六日(水)、 Denmark Hill (デンマーク・ヒル)を散歩する。 John Ruskin の父が住んでいたというが、何処か分らぬ。イギリスでは、女性の酔っぱらいは珍しくない。 Public House などでも女性で満員の処もある。

三月七日(木)、シャツ襟を替える。夜、田中孝太郎と共に、 Drury Lane Theatre (ドルゥリー・レーン劇場)に行き、 Pantomime(黙劇)の Charles Perrault (シャルル・ペロー)の ""Sleeping Beauty""(『眠れる美女』)を見る。「生レテ始メテカゝル華美ナル者ヲ見タリ」(「日記」)健康状態よく、体重もふえる。ホーム・シックになる。」(荒正人、前掲書)


3月6

露、満州撤兵について清国に協約調印を要求(4月5日、交渉中止)。


3月6

「 自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。熱き湯に入ると体がくたびれてその日は仕事が出来ぬ。一日汗を流して労働した者が労働がすんでから湯に入るのは如何にも愉快さうで草臥(くたびれ)が直るであらうと思はれるがその他の者で毎日のやうに湯に行くのは男にせよ女にせよ必ずなまけ者にきまつて居る。殊に楊枝(ようじ)をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。東京の銭湯は余り熱いから少しぬるくしたら善からうとも思ふたがいつそ銭湯などは罷(や)めてしまふて皆々冷水摩擦をやつたら日本人も少しは活溌になるであらう。熱い湯に酔ふて熟柿(じゅくし)のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。

(三月六日)」(子規「墨汁一滴」)

3月6

独皇帝ヴィルヘルムの暗殺未遂。皇帝は軽傷で難を逃れる。


3月7

「 自分が病気になつて後ある人が病牀のなぐさめにもと心がけて鉄網(かなあみ)の大鳥籠を借りて来てくれたのでそれを窓先に据ゑて小鳥を十羽ばかり入れて置いた。その中にある水鉢の水をかへてやると総ての鳥が下りて来て争ふて水をあびる様が面白いので病牀からながめて楽しんで居る。水鉢を置いてまだ手を引かぬ内にヒワが一番先に下りて浴びる。浴び様も一番上手だ。ヒワが浴びるのは勢ひが善いので目(ま)たたく間に鉢の水を半分位羽ではたき散らしてしまふ。そこで外の鳥は残りの乏しい水で順々に浴びなくてはならぬやうになる。それを予防するつもりでもあるまいが後にはヒワが先づ浴びようとするとキンバラが二羽で下りて来てヒワを追ひ出し二羽並んで浴びてしまふ。その後でジヤガタラ雀が浴びる。キンカ鳥も浴びる。カナリヤも浴びる。暫(しばら)くは水鉢のほとりには先番後番と鳥が詰めかけて居る。浴びてすんだ奴は皆高いとまり木にとまつて頻(しき)りに羽ばたきして居る。その様が実に愉快さうに見える。考へて見ると自分が湯に入る事が出来ぬやうになつてからもう五年になる。

(三月七日)」(子規「墨汁一滴」)

3月8

3月8日~9日 ロンドンの漱石


「三月八日(金)、イギリスでは雨降っても、日本のように苦にしない。

三月九日(土)、郵便日なので、正岡子規に絵葉書十二枚及び鏡に消息を伝える手紙を出す。 Andrew Lang (ラング)の ""The Book of Dreams and Ghosts"" (『夢と幽霊』 1899)を読む。」(荒正人、前掲書)


3月9

妻、鏡子からの手紙は依然到着せず、漱石はこの日付けで鏡子に宛てて手紙に書く。


「其後国から便があるかと思つても一向ない。二月二日に横浜を出た「リオヂヤネイロ」と云ふ船が桑港沖で沈没をしたから、其中におれに当(あて)た書面もありはせぬかと思つて心掛りだ。

「御前は産をしたのか、子供は男か女か、両方共丈夫なのか、どうもさつぱり分らん。遠国に居ると中々心配なものだ。自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い。夫が出来なければ土屋でも湯浅でもに頼むが好い。

「新聞も頼んで置たが一向来ない。是は経済上の都合があると云ふならよこさんでもよろしい。只だんまりですてゝ置くのは宜しくない。注意するがよい。

「おれば不相変忙がしいから長い手紙を出し度ても出す暇がない。諸方へは御前からよろしく言って呉れ。」


3月10

「文壇照魔鏡(しょうまきょう)第壱 与謝野鉄幹」、横浜大日本廓清会、鉄幹16大罪。文壇スキャンダル。

4月、これを、雑誌「新声」が取り上げ、「新声」と「明星」の紛争となり、鉄幹は訴訟に踏み切る(証拠不十分で敗訴)。「明星」は大きな影響を受け、支部は減り、発行部数も5~7千部とされていたものが2500部程に落ち込む。

3月10

3月10日~11日 ロンドンの漱石


「三月十日(日)、田中孝太郎と共に、 Vauxhall Park (ヴォークスホール公園)を散歩、 Clapham Common (クラッパム共有地)から Brixton (ブリクストン)に出て帰宅する。夜、 Mr. Brett から次の言葉を習う。 Red sky at night / Is the shepherd's delight. / Red sky in the morning / Is the shepherd's warning. / Morning red and evening gray / Sendthe traveller on his way. / Morning gray and evening red / Send the rain on his head.

三月十一日(月)、桜井房記からの手紙(一月二十五日(金)付)で、 J.B. Brandram (ブランドラム)発狂し、香港に送る途中で死去したと伝えてくる。蒲生栄(原紫川)(京都帝国大学)からも手紙(一月三十一日(木)付)来る。」(荒正人、前掲書)


3月10

露レフ・トルストイ伯爵、ロシア正教会の教義と機密(サクラメント)を否定し宗務院(シノド)に破門。

3月10

フィリピン、タフト委員会、ヴィサヤ諸島に地方政府樹立のため、出発。

3月11

国木田独歩、「武蔵野」刊行

国木田独歩『武蔵野』(青空文庫)

3月11

シチリアで赤い雪や血の雨が降る現象発生。墺・チロル地方でも同様の現象が続いて発生。ローマでも同様の現象と気温の異常な上昇。


つづく

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2024年11月23日土曜日

どうなる大阪の遺跡発掘・保存 二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし(産経)