映画「別れの曲」(1934年)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(46)
「二十七 「活動写真」との関わり」(その2)
「濹東綺譚」を書いた昭和11年頃までは、荷風は映画をほとんど見なかったし、風俗的側面以外では関心もなかった。
しかし、そのあと荷風の映画への態度は、ゆっくりと変っていく。
映画を見るようになり、映画の脚本にも手をそめる。
大きな変化である。
「この変りようの背景には、浅草通いがあったと思われる。」(川本)
「濹東綺譚」を書き終えた荷風は昭和12、3年頃、足繁く浅草に通うようになった。
当時の浅草は、銀座と逆比例するように往年の輝き、賑わいを失ないつつあった。エノケン、ロッパは浅草を去っていた。
それでもまだレヴュー、女剣劇、そして映画に人気が集まっていた。
「荷風は、浅草出遊を繰返すうちに映画に興味を持つようになったに違いない。浅草の踊子や女給たちと付き合うようになり、彼女たちの〝影響″で映画を見るようになったのだろう。」(川本)
オペラ館のために書き下ろした戯曲(歌劇)「葛飾情話」(昭和13年)では女主人公のバスの車掌よし子は、映画監督にスカウトされ、女優になるべく、車掌の仕事を辞めてしまう。恋人の運転手とも別れる。
浅草の踊子に材をとった「踊子」(昭和19年)では踊子姉妹と関係を持つ「わたし」を、映画の楽師から、トーキーの登場によって音楽が不用になったために、レヴューをやる芝居小屋を渡り歩く楽師に転向した男という設定にしている。
作品のなかに、時代風俗としての映画が入りこんでいる。
昭和18年4月17日
「午後土州橋より浅草に行く。オペラ館の踊子等に誘はれ松竹座となり西洋映画館の映画を見る。モスコーの一夜といふ題にてトーキーは仏蘭西語なり。偶然かゝる処にて仏蘭西語を耳にせしよろこび譬へむに物なし」。
戦時下、浅草の映画館で思いがけずにフランス映画を見て、久しぶりに聞くフランス語に感動している。
『モスコウの一夜』(1934年)は、アレクシス・グラノフスキー監督、アリ・ボール(『にんじん』のルピック氏で知られる)、アナベラ (『巴里祭』『北ホテル』)、ピエール・リシャール=ウィルム (『外人部隊』)主演。一人の美しい女性をめぐる二人の男の物語で、革命前のモスコウを舞台にしている。気のいい大男アリ・ボールが、許嫁のアナベラを若い軍人ピエール・リシャール=ウィルムに譲ってしまう。荷風はこの映画に惹かれた。
4月23日にも、
「午後浅草に行く。オペラ館の踊子等と重ねて松竹座鄰の仏蘭西映画を見る」。
同年9月7日
「晡時浅草に行き踊子二三人と倶に表通の映画館に入りショーパン別の曲といふを看る」。
フランス映画『別れの曲』(1934年製作、ゲザ・フォン・ボルヴァリー、アルベール・ヴァランタン共同監督)。ショパンの伝記映画(昭和10年キネマ旬報ベストテン第8位)。
5月6日、
「午後丸ノ内より浅艸に行く。オペラ館踊子等と仏蘭西映画白鳥の死を見る。少女等は唯写真の画面に興味をおぼえ余は仏蘭西の言葉を耳にして青春の昔を思ひ暗愁を催すなり」。
『白鳥の死』はジャン・ブノア・レヴィ監督、ミア・ステテヴァンスカ主演のフランスのバレエ映画(1937年)。原作ポール・モラン。
昭和16年の太平洋戦争の勃発のあと、日本ではアメリカ映画は敵国映画として上映が禁止されていた。その時代にフランス映画が上映されていたのは、1940年(昭和15年)フランスがドイツに降伏(ヴィシー政権誕生)して、形の上では日本の同盟国になっていたため。
荷風はそのために昭和18年にフランス映画を楽しむことが出来た。
戦後に書かれた随筆「雑誌」(昭和28年)には、「わたくしは日本映画とアメリカ映画は見たいと思ってゐないがフランス映画だけは早く戦争前から見てゐた」とある。
フランス映画に比べ荷風は日本映画には興味がなかったようだ。
昭和14年8月31日、日劇で日本映画を見て酷評。
「午後銀座三越まで食料品買ひに行きしに街上にて去月末蠣殻町にて紹介せられし時子といふ女に逢ふ。簡単なる洋服に夏帽を戴き四五才なる少女をつれたり。親類の娘なりと云ふ。誘はるゝがまゝに数寄屋橋際なる日本劇場に入る。番組は活動写眞と舞踊一幕となり。午後二時頃なるに殆空席なき程の大入なり。余は今日に至るまでこの界隈の映画館に入りて日本製の映画を見たることなきを以て、自ら新たなる感想を得たり。看客の大半は若き女にて、夕方よりカフヱー酒場等にはたらきに行くもの、又は定りし職業なきものなるが如し。昼夜銀座通を遊歩し家に帰りて婦人雑誌をよみて時間を空費する者供なるべし。此等の看客を喜ばさんが為に製作せられし活動写眞の愚劣なることは、見ざる前に豫想せしものにたがはざりき。實地に看覧して余の深く感じたることは、脚本の筋立といひ撮影の方法といひ、いづれも西洋映画の憐れ果敢き模倣にして、其皮相的に整頓せしところ将来この以上の進歩は望み難き心地せらるゝことなり」
この日の映画は、原節子主演、吉屋信子原作、阿部豊監督『女の教室』。荷風は原節子にまったく興味を示していない。
荷風が映画の脚本を手がけたのは昭和13年。
浅草のレヴュー劇場オペラ館のために書き下ろした歌劇「葛飾情話」(作曲指揮・菅原明朗)が思いがけず好評を博したので、現在の東宝の前身PCL映画と荷風、作曲者の菅原明朗が「葛飾情話」に主演した美貌のオペラ歌手永井智子を主演に映画を企画した。
その脚本として「浅草交響曲」を荷風自ら書いた。
浅草の女性歌手が、アメリカ帰りの作曲家から「浅草交響曲」という新曲を贈られ浅草で上演しようとするが夢は成らず、故郷の利根川べりの村へ寂しく帰って行くという荷風好みの落魄の物語。
昭和13年6月4日
「PCL会社映画筋書を執筆す」。
「浅草通いを深める過程で荷風のなかに、映画の持つ大衆性に対する愛着が生まれたのではないか。」(川本)
映画化はPCL側の事情で結局は実現しなかったが、荷風はこのあとさらに昭和18年にもう一度菅原明朗、永井智子と映画を作ろうと脚本作りを試みる。
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18年11月14日
「晡下菅原永井両氏来り話す。音楽映画構成のことにつきてなり」
同年11月16日
「城戸四郎氏に宛て手紙を送りて音楽映画撮影の見込みあるや否やを問ふ。映画の名は左手の曲となせしなり」
同年11月18日
「連日華氏六十度の暖気なり。乏しき火鉢の火全く灰となるをも心つかず毎夜深更に至るまで書斎の机に憑ることを得るなり。映画左手の曲の台本も昨夜既に浄写し終りたれば今日は午後蔵書を整理し、浅草に至りて食料品を購ふ」
しかし、昭和19年2月12日
「清潭子より去冬執筆せし音楽映画台本左手の曲を返送し来れり。其筋の検閲を受け不許可になりしとなり」とある。
川尻清潭を通じ松竹の城戸四郎に映画化を打診したようだが、時局柄、映画化は無理となっている。
「左手の曲」原稿は現存していないが、秋庭太郎『考證永井荷風』によれば、戦争で右腕を失なったピアニストが帰還して前途を悲観するが、妹と妹の恋人に励まされて、左手のピアニストとして再生する物語だったという。
「昭和十二、三年ころの浅草通い、オペラ館通いによって芸人たちの世界に触れ、感じるところがあったのが大きな原因だろう。孤独な文士にとって、菅原明朗や永井智子ら才能豊かな芸術家との共同作業も新鮮で楽しいものだったに違いない。」(川本)
「荷風と映画の関係で脚本執筆の他にもうひとつ見逃せない事実がある。成瀬巳善男監督の戦前の代表作『妻よ薔薇のやうに』(昭和十年)の主演女優として知られる伊藤智子との関係である。」(川本)
荷風が、舞台女優だったころの伊藤智子と一時、深い関係にあったことは、「日乗」大正10年9月3日以後、彼女の名前(「百合子」)が頻出することでうかがえる。
女優であるだけでなく絵画も学んだ、当時の芸術女性の一人である。
「百合子本名は智子と云ふ。洋画の制作には白鳩銀子の名を著す」(10月18日)。
9月から10月にかけて関係が深まり、10月20日には「百合子余が家に来りて宿す」とある。
さらに10月21日、「百合子又余の家に宿す」、
10月24日、「百合子終日吾家に在り」と続く。
伊藤智子は人の妻。夫はエリート軍人、のち太平洋戦争下の〝バターン死の行進″の責任者となる本間雅晴。
角田房子『いっさい夢にござ候』(中央公論社、昭和47年)によれば、智子もエリート軍人の娘だったが、美しく、派手な性格なために本間雅晴との結婚生活はうまくいかず、大正7年に本間が軍事研究のためロンドンへ留学してからはひとり東京に残り、芸術女性として演劇や絵画の世界、さらには芸術家たちとの交流に入っていったという。
荷風が智子と親しくなったのは、まさにこの時期で、智子は、荷風と交際中の大正10年12月16日に本間と離婚する。
12月31日、
「夜百合子と相携へて銀座通歳晩の夜肆を見、また浅草仲店を歩む」とある。
二人はかなり特別な関係にあった。
小島政二郎『百叩き』(北洋社、1973年)によれば、若き日の小島は荷風が白鳩銀子こと伊藤智子と仲良く銀座を歩いている姿を見て羨しく思ったという。
「銀座を名前のように美しい白鳩銀子と睦まじそうに何か話しながら御機嫌で歩いている荷風の姿も、私達は幾度も見た。若いのに恋人一人いない私達は、荷風の艶福を羨まずにいられなかった」
伊藤智子はその後、荷風と別れ、伊藤熹朔と結婚(数年で離婚)、昭和10年代にPCLに入り、成瀬巳善男監督の傑作『妻よ薔薇のやうに』に主演し、女優としての地位を確立。
戦後もテレビ出演などしたが、昭和49年に睡眠薬自殺。
舞台美術家の伊藤熹朔はのち、荷風の死の直後に作られた映画『濹東綺譚』(昭和35年、豊田四郎監督)では美術を担当し、昭和10年代の玉の井をよく再現した。
戦後の荷風は、戦前と打って変って映画をよく見ている。とりわけフランス映画と音楽映画が多い。
若き日のニューヨーク、パリ遊学の郷愁のためだろう。
フランス映画では、ジッドの『田園交響楽』、ゾラの『獣人』『女優ナナ』『居酒屋』、スタンダールの『赤と黒』、コクトーの『双頭の鷲』、コレットの『青い麦』など。音楽映画では、『シベリヤ物語』『カーネギー・ホール』『白鳥の湖』『メルバ』など。他に『大いなる幻影』『巴里の空の下セーヌは流れる』『浮気なカロリーヌ』『夜ごとの美女』『アンリエットの巴里祭』『フレンチ・カンカン』『悪魔のような女』『わが青春のマリアンヌ』『赤い風船』『ヘッドライト』などフランス映画の名作、話題作をほとんど見ている。
とくに昭和28年から32年にかけては毎月のように映画舘に通っている。プリジッド・パルドーの『素直な悪女』まで見ている。
梅田晴夫の追悼文「荷風先生を悼む」(「三田文学」昭和34年6月号)によれば、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『巴里の空の下セーヌは流れる』(1951年)は8回も見たという。
アメリカ映画も案外見ている。『風と共に去りぬ』『巴里のアメリカ人』『月蒼くして』『エデンの東』『マーティ』『上流社会』『トロイのヘレン』『八月十五夜の茶屋』『戦争と平和』。ヒッチコックの『知りすぎていた男』『泥棒成金』、プレスリーの『やさしく愛して』まで見ている。新風俗を知っておこうとしたのだろうか。
「濹東綺譚」の映画化をかつてあれほど頑迷に断った荷風だが戦後は、自作の映画化に寛容で、「渡り鳥いつ帰る」「つゆのあとさき」「踊子」が荷風生前に映画化されている。荷風はそのつど試写に出かけている。
映画化にこれだけ寛大になったのは、戦後、ランティエとしての安定した経済的基盤の崩れた荷風にとっては、映画化に際しての著作権料が魅力になったことは否定出来ない事実だろう。ただ、自作の映画作品は気に入ってはおらず、映画は映画、小説は小説と割り切っていたようだ。
荷風が最後に見た映画は、オードリー・ヘプバーンの『パリの恋人』だった(昭和32年11月29日)。
註)
西條八十『唄の自叙伝』によれば、「東京行進曲」の四番ははじめ「長い髪してマルクス・ボーイ今日も抱へる『赤い恋』 変る新宿 あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る」となっていた。
当時マルキシズムが全盛で長髪の青年たちが翻訳されたばかりのコロンタイの「赤い恋」をよく抱えていた世相を描写したものだが、ビクターの岡文芸部良が、官憲がうるさそうだから、ここだけ書き変えてくれというので「シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか」に変えたという。
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映画「別れの曲」(1934年)
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映画「別れの曲」はショパン生誕200年にあたる2010年には日本で劇場公開があり、DVD化もされたという。
映画は、ショパンと2人の恋人(ポーランド時代、パリ時代)との関係を題材にしたもの。
写真の下は、パリ時代の恋人ジョルジュ・サンド。
ショパンは1810年にポーランドに生まれ、1849年に39歳でパリに没する。
彼の時代は、フランス大革命についでヨーロッパが革命の機運に包まれた時代。
そういう状況下で、彼は多くの芸術家と交わる。
パガニーニ、ベルリオーズ、リスト、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロア、・・・。
パリで彼を引き立てるために努力する年上の恋人ジョルジュ・サンドも小説家。
サンドとマヨルカ島に滞在している時の作品として、「雨だれ」などが上げられている。


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