2013年7月22日月曜日

長元4年(1031)8月~12月 長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)を経て、維衡流が伊勢平氏を称するようになる(伊勢平氏の成立)

平川濠・竹橋辺り 2013-07-12
*
長元4年(1031)
8月
・この月、藤原相通が伊豆国に、その妻の藤原小忌古曾(ふじわらのこぎこそ)が壱岐国にそれぞれ配流される。(『小右記』)。
*
・月末、長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)の証人調べ。
三度目の拷訊が終わる。彼らは依然前言を変えず、『獄令』規定によりこれ以上拷問を加えられないので、許された。
*
9月
・この月、内裏大垣修造のための一国平均役が認められる。
一国平均役と荘園整理令
受領は荘園にも臨時雑役を賦課しようとする。
これは、荘公を論ぜず一国平均に課すことであり、これを「一国平均役」という。
『小右記』等よれば、この月、大垣修造にあたる尾張国から次のような内容の解が奏上されている。

「普(あまね)く国内の見作(げんさく)不輸租田(ふゆそでん)に支配して、王臣家諸庄・神寺所領を論ぜず、平均に役仕せしめ、宮城(きゆうじよう)大垣所一を築造せん。」

この申請に対して、翌日に「神寺を除き、請ひに依れ、即ち宣下す」と、神社仏寺領を除いて一国平均に大垣修造役を課すことが認められ、ここにおいて免税特権をもつ荘園に対しても国司が臨時雑役を課すこととなり、しかも中央の裁可(宣旨)によって可能になった。
*
9月2日
・長元の闘乱の罪名に関する陣定が始まる直前のこの日(9月2日)、前常陸介維衡は、参議右大弁源経頼(『左経記』記主)に、牛2頭を贈る。
経頼は贈物を故なしと返却。
子の罪名定を有利に導くため、維衡は露骨に動く。
*
9月8日
・長元の闘乱の陣定が始まり両者の罪名定にかかるが、両者の主張が真向から対立し難航。
*
9月13日
・越前守藤原兼綱、右大臣藤原実資に綿10帖を送る(『小右記』)。
*
9月16日
・正倉率分所別当の候補に大蔵大輔源頼平(満仲4男)と同少輔藤原為資が挙がる。
頼平は大輔・国司(武蔵守か?)を兼任しており、国司としての功により昇叙などの見込みがある為、所別当は望まず(『小右記』)。
*
9月25日
・この日、上東門院が四天王寺などに御幸した際、船・餐・屯食・仮屋などが諸国司に課されていた。
『小右記』は、「万人経営す。世に以て奇となす。扈従(こしよう)上下の狩衣装束、・・・随身の装束、憲法を憚らず。忽ち王威に似たり」と、政治的には引退の身でありながら、権勢を隠そうともしない様を非難。
*
閏10月27日
・この日の長元の闘乱の陣定の有様。
正輔については、大外記小野文義と明法博士令宗道成の罪名勘中がともに絞刑を主張し、諸卿の意見もその線で統一。
致経については、文義は斬刑、道成は証拠不充分で疑罪(この場合規定により贖銅=罰金刑)を主張し、見解は不一致となった。
そうした中で、同年が朔旦(さくたん)冬至(陰暦11月1日が冬至にあたること、瑞祥とされた)の年にあたるので減刑、という意見があい次ぐ。

陣定を主宰した右大臣藤原実資は、正輔は絞刑、正度・致経については天皇の判断に委ねることを主張し、この陣定の発言記録が奏上されると、後一条天皇から「正輔・致経等優免すべし」との仰せがあった(『左経記』同日条)。

実際『小記目録』の翌28日分には、「正輔、任国に赴くべきの由、宣旨を給ふべき事」とあり、結局、当事者の罪を問わないことで一件落着した。

■伊勢平氏の成立
長徳4年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上は長元3、4年の事件が最後となる。
和解が成立したとは考えられず、対立は継続されたと考えられる。
そしてその後、致経の子孫たちは伊勢より姿を消すことになる。
年来の仇敵維衝の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。
その結果、維衡流が伊勢平氏を称するようになる。

貞盛あるいは維衡が、草深い伊勢の一角に留任してから、同族を国外に放逐するまでに半世紀は経過した。
この間、維衡や正輔らは営々と荘家経営にとりくみ、ねばり強く在地に勢力扶植を試みた。
そして幾度かの合戦の最後のものに勝利した時、彼らは伊勢最大の世俗領主にのしあがっていた。
かくして、彼らは伊勢平氏と呼ばれるにふさわしい存在になった。
*
11月10日
・流人橘俊孝、配流の途中重病により敦賀郡に滞留、前進不能との送使からの申文が右大臣藤原実資の許に届く(『小右記』)。
*
*


0 件のコメント: