2016年1月28日木曜日

昭和18年(1943)12月20日~31日 南方軍(寺内総軍司令官)、インパール策戦を決裁、大本営に意見具申 泰緬鉄道完成 米軍、ニューブリテン島西端ツルブ(グロセスター)岬上陸 「今度の戦争で、日本人は、少しは利口になるだろうか。非常な疑問である。教育を根本的に変えなければ。」 「日本的な政策では、他民族などは決して治めることができないという実物教育を日本人に認識させない前に、もし戦争が終るようなことがあれば、それはかえって日本国民にとって不幸である。」(『暗黒日記』) 「今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり。・・・今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。 ・・・(『断腸亭日乗』) 

皇居東御苑 2016-01-19
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昭和18年(1943)
12月20日
・スペインのファランヘ党、解散。
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12月20日
・ボリビア、MNR、陸軍将校急進派とクーデタ、ビリャロエル政権を擁立。
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12月20日
・イギリス、イーデンとポーランド亡命政府首相ミコワイチック会談。ソ連との軍事的協力説得。
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12月20日
・ソ連の作家・文芸学者トイニャノフ、没。
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12月21日
・訪独潜水艦「イ8潜」、帰着。
6月1日、日本発。8月31日ブレスト着、10月6日ブレスト発。訪独潜水艦は計5回有るも、帰着はこの1回のみ。
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12月21日
・大阪商船「湖南丸」、口永良部島沖で雷撃を受け沈没。護衛の「柏丸」も救助中に雷撃され沈没、648人死亡。
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12月21日
・「教育に関する戦時非常措置に基く学校整備要項」、高校、大学、高専の入営延期は取り止め、文科入学定員は3分の1に削減、入学制限を図る。
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12月21日
・都市疎開実施要綱、決定。
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12月21日
・ドイツ、ゲッペルス提案「空襲被害査察部」設置認可。
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12月22日
・興亜義塾卒業生 西川一三・木村肥佐生が西蔵踏破の旅に出発
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12月22日
・~26日、メイミョウで参謀長会同、その後、インパール作戦兵棋演習。
ビルマ方面軍中参謀長、南方軍綾部総参謀副長、賛成。
南方軍は作戦実施を決意、寺内総軍司令官は計画を決裁し、大本営に正式に意見具申書を提出、認可促進のため綾部副長(半年前は計画禁止を南方軍に伝えた本人)を東京に派遣。
南方総軍から稲田副長が去ると、インパール作戦を抑制する者がいなくなり、寺内総軍司令官も早くやれと言い出し、片倉高級参謀も作戦賛成に急変。
インパール作戦の総仕上げの為の兵棋演習には、方面軍からは中参謀長と不破博作戦主任参謀が、総軍からは綾部副長、山田作戦主任参謀、今岡兵站主任参謀が列席。
演皆は第15軍の構想のまま行われ、内容はそれまでの牟田口計画と変更ないが、結果は牟田口の予想通り。
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12月22日
・「十二月二十二日(水)
小汀は日米戦争は、いい加減なところで妥協するといっている。この事情通を以てして、その程度の楽観だ。意は、ギルバート海戦において敵に打撃を加えたから、それでへトへトになるというのである。かれは東京の空襲すらも疑問に思っているのである。」(清沢『暗黒日記』)
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12月23日
・連合軍機、インド方面からバンコク初空襲
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12月24日
・~27日、作戦課長服部卓四郎大佐統裁のもと、陸軍省・軍令部からも参加を求め、「虎号兵棋」。杉山参謀総長も列席。
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・「十二月二十四日(金)
小汀君の話し - ローズヴェルトに対し支那は賄賂を二百何十万ドルとかやった。日本はやらなかった。それがかれが反日的な理由だと。かくの如き程度だ、常識は。
二六会に出席。鈴木文史朗君は我国の食糧は、この程度が底をついたのだろうという。また料理屋で切符を持たず食えることが、まだ豊富な証拠だという。また戦争も、うまくいくだろうという。
鈴木といい、小汀といい、政府関係者と会談の機会の多いものは、非常に楽観的だ。
考える機会がないからでもあろう。活動家の周囲には思想家の顧問が要る一つの例だ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月24日
・徴兵適齢臨時特例が公布施行、徴兵適齢1年引下げ、19歳
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12月24日
・アイゼンハワー、連合軍最高司令官に任命
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12月24日
・抵抗組織スロバキア国民評議会発足。
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12月24日
・インド、ムスリム連盟第31回大会
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12月24日
・ソ連軍、ウクライナで反撃再開
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12月24日
・アメリカ第8、9空軍とイギリス爆撃軍団、V兵器を目標とした[クロスボー作戦」開始(-翌年夏)
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12月25日
・泰緬鉄道完成
バンコク西ノンブラドック~モールメン南方タンビザヤ425キロ、第2鉄道監理部(高崎祐政少将)、第5鉄道連隊(鎌田銓一少将)、第9鉄道連隊(今井周大佐)、完成迄捕虜10,562、労務者3万死亡
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12月25日
・小森支隊(小森政光大佐)、ニューブリテン島マーカス岬上陸連合軍を攻撃、失敗
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12月25日
・陸軍36師団一部、ビアク島(ニューギニア戦線)上陸
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12月25日
・北岬海戦。英海軍、「シャルンホルスト」を撃沈。
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12月26日
・ウィリアム・ルバータス少将第1海兵師団、ニューブリテン島西端ツルブ(グロセスター)岬上陸。12月に入り、激しい空襲。
米軍上陸の報に、第17師団長は松田支隊(第65旅団基幹)に独力で敵撃破を命じる。敵上陸地点の一つのナタモに派遣された歩兵第53連隊第2大隊の実動兵力は約600。
第2大隊長高部真一少佐の戦後の回想。「連隊は対米戦闘を知らず、支那戦線で敵を撃破してきたのと同じ調子で、命令は勇壮で自信に満ちたものだった。しかし攻撃前進に移ると、ジャングルの中なので一列縦隊となり、やがて激しい銃声が聞え、次いで負傷者が続々と後退してきた」

ツルプ地区の糧株保有量は、12月未迄。米軍上陸で、海上か喝の補給は完全に遮断。
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12月26日
・「十二月二十六日(日)
九地方長官(いわゆる「大知事」)が『毎日新聞』の座談会で統制と価格の無茶ぶりを攻撃し、農商省を攻撃している。役人の役人攻撃で、その点偉観である。
馬場恒吾君の話し - 千葉県で、ある妻君が五升の米の故に巡査に虐められた。そこで夫が怒ってその巡査を殺害した事件がある。それを枢密院で南弘が発表したところが東条首相は知っていたそうである。」(清沢『暗黒日記』)
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12月26日
・ソ連軍、キエフ突出部において攻勢
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12月27日
・仏国民解放委員会とシリア・レバノン間に協定成立
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12月27日
・ドイツの封鎖突破船「アルスターウーファー」をめぐるビスケー湾の海戦、ドイツ敗北(43/12/27-28)
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12月28日
・大本営、大陸打通の検討開始の旨、支那総軍に内連絡
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12月28日
・黒木博司中尉と仁科関夫少尉、海軍省軍務局第一課員吉松田守中佐に、人間魚雷採用を要請*
12月28日
・「十二月二十八日(火)
「日本外交史研究会」の設立趣意書を書く。けだし年来の希望を出現し、かねて生活的にも備えんとするもの。
『東京日々新聞』の本日夕刊上海特電に「強烈な抗日敵愾心」とで、支那人が日本に執拗に反対する事実を書いている。
他の支那特電は総て、支那の民衆が日本になついてきていることを言っている。しかるにこの特電〔『毎日新聞』二十八日、夕刊〕だけは、通庸しながら事実を報道している。もとより軍の検閲と諒解のあるものである。最後の「敵戦力の徹底的撃砕あるのみ」は、従来通りの結論だ。反省はない。
同じ日の『朝日』では、支那青年団が上海のダンス・ホールなどを襲い、諸物や現金を押収して、それを大道で焼いたことを書いている。むろん、これは日本官憲のインスチゲーションによるものだ。こうした事が排日の原因になるということが、どんなに長く支那におっても分らないのである。
今度の戦争で、日本人は、少しは利口になるだろうか。非常な疑問である。教育を根本的に変えなければ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月28日
・ソ連軍は戦線各地で急進、ポロック・ヴィテブスク鉄道を遮断
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12月28日
・第8軍、オルトーナ占領
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12月29日
・台湾食糧管理令、同農業会令公布
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12月29日
・ダンピール海峡周辺の攻防戦、持久戦状態から日本軍後退へ
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12月29日
・「十二月二十九日 (水)
外交年表のことを東洋経済の倉沢〔修之、業務局長〕氏に話し、日米関係史のことを、清野〔通之〕君に話す。何とかして出すことに馬力をかく。
また日本外交研究所の原稿を東経に托す。
徳富蘇峰の『国民史』の第一巻で維新の功臣に岩倉と大久保をあげ、また第二巻の序で薩長と幕府が、いずれも、英、仏と提携せることを述ぶ。(慶喜の詔勅に反したのは仏国の後押しによるといった『中央公論』(十二月号)の座談会を否定す)。」(清沢『暗黒日記』)
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12月29日
・仏、フランス国内軍創設
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12月30日
・英、ポーランド亡命政府、軍事計画書をイーデンに提出、連合軍の戦略と一致した総蜂起指令、ソ連と話し合いを始める用意あり
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12月30日
・「十二月三十日(木)
今朝の『毎日新聞』の社説に「赤化する北阿」とあり。北阿にユダヤ人勢力が浸潤することを述べ結論に、

・・・一報によれば、アルジェリー、モロッコおよびチュニジヤを打って一丸とし、そこにソ連の保護下に「北阿ソヴィエト共和国」を建設しようとのソ連系の案は非常な勢いを以て進められているという。
この案と、前述のユダヤ人を指導者とする黒人国建設案との関係如何を問題とする向きがあるかと思われるが、両者共にユダヤ民族によって牛耳られるものである以上如何ようにも始末はつけられるものと見てよいのである。それどころではない。一体北阿を舞台とする米英系の資本主義とソ連系の共産主義の対立はどうなるかとの疑問さえも成立しないのだ。両者を支配するものは、これまたユダヤ民族なのである。資本主義と共産主義は両極ではない。水と火ではない、ユダヤ民族活動の両翼をなすものなのである。ここが分らなければ米英の名において描かれる世界制覇の筋書も背景も分るはずはない。[『毎日新聞』「社説」十二月三十日。傍線は清沢、以下同様]

とある。資本主義と共産主義はユダヤ人活動の両翼をなすものである! これが『毎日新聞』 - 日本二大新聞の一つの社説である。日本人のメンタリチーの低劣を示す。しかもかれの知ったかぶりを見よ。
外交は自国民に確信がなくてはできぬ。「ソ連の動力の伸びるところ必ず赤化あり」(前掲社説)というのでは、ソ連との外交はできぬ。また英、米をユダヤ人と見たのではこれとは永遠に交渉はできぬ。英国の外交が何故いいかといえば、自国民は赤化などはしないと確信するからだ。
考え方が違っても愛国者であり得、また意見が相違しても団結することができる。そう我国の「愛国者」は考うることができぬ。
日本的な政策では、他民族などは決して治めることができないという実物教育を日本人に認識させない前に、もし戦争が終るようなことがあれば、それはかえって日本国民にとって不幸である。
英帝国は経済的、政治的には駄目になる。しかしシーレーの「新植民政策的」には依然として大国をなす。
シーレーの著書の如きは、その後世を導くこと大。(英帝国は政治体制が崩れても、道徳的に一致する準備ができていた。今度の戦争下における英帝国の一体化はこれを証明する。)
産業の国営ということは責任の所在がなくなるということである。
いわゆる強硬外交は成功する。それが一定のところで止まればだ。
日本が満州事変で、イタリーがエチオピアで、ドイツがミュンヘン会議で止まればそれは成功する。イタリーのエチオピア戦では連合国は失敗を認め、中立諸国(第一次大戦の)は経済封鎖終止を公式に宣言した(一九三六年六月二十五日)。問題は、そうした諸国はそこで止まれるかどうかである。
満州事変以来、特に一九三六年前後は対支外交は経済問題まで総て軍これを行う(一九三五年、支那幣制改革に軍反対、一九三六年十月一日の北支開発協定等々)。」(清沢『暗黒日記』)
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12月31日
・電力動員緊急措置決定
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12月31日
・ポーランド、ワルシャワ、ポーランド労働者党(共産党系)、「ポーランド国家評議会」設立、「人民軍(AL)」結成、
国内の農民・社会両党の協力なし、亡命政府から非難、在ソ共産党中央ビューローも幅広い国民戦線を提案
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12月31日
・ソ連軍ジトミール占領
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12月31日
・「昭和十八年十二月卅一日。今秋国民兵召集以来軍人専制政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四才にて祖先伝来の職業を失ひて職工となり、其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり。然れども余窃に思ふに戦争終結を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく横暴残忍となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。
〔欄外朱書〕疎開ト云フ新語流行ス民家取払ノコトナリ」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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・この時期の南太平洋の状況。第8方面軍(司令部ラバウル、今村均)の守備範囲。
地上の戦闘は、前線第17師団の「勇戦奮闘に待つ」以外に方法がない。
海軍の航空攻撃は、12月15日~27日マーカス6回・ツルプ1回の航空攻撃、ラバウル遊撃戦闘の結果、戦闘機約80・艦爆10数機を残すのみ。
陸軍航空部隊も15日~26日、4回出撃、戦闘磯10と、重爆は出撃した12機中10機を失い、陸軍航空は一進攻の力もない状態。
南太平洋の連合軍は駆逐艦以上で約120隻。日本側はこの海域に戦艦・巡洋艦は既になく、駆逐艦7隻(うち5隻は輸送用)・潜水艦9隻で、艦艇能力は零に等しい。
ニューブリテン島中央部以西、以南、更に西にニューギニア東部の第18師団(安達)司令部のあるマダン辺までの海域は、完全に連合軍が掌握。
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